『「陸軍兵器:空中聴音機」Facebook友達の加藤正衛氏から貴重な蒐集品の寄贈があった』に、続いて二回目の寄贈品は、「画報躍進之日本」や「アサヒグラフ」などでした。
昭和15年(1941年)5月1日発行の「画報躍進之日本」は「支那新政府成立慶祝號」ですが、「支那新政府」とは汪精衛傀儡政権としての重要な歴史的役割がありました。笠原十九司著「日中戦争全史(下)」から長文ですが抜粋しますのでご参照ください。文中の【注①】は、阿片マネーによって汪精衛傀儡政権をつくった影佐機関の重要人物である里見甫(東京裁判戦犯容疑者)自宅の訪問レポートです。
汪精衛氏は下中央 中央政治會議委員一行の南京中山陵参拝
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第一は主として国内問題であったが、一九四〇年三月三〇日に汪精衛を首班とする中華民国国民政府が設立され、南京ににあった中華民国維新政府を吸収合併し、それまで北支那方面軍の指導下に北京にあった中華民国臨時政府を華北政務委員会として傘下にいれ、形式的に汪精衛政権の統一化が華北にもおよぶことになったことがある。【注③】
汪精衛は、当時日本では汪兆銘といわれていたが、辛亥革命以来の国民党の長老で、国民政府では、蒋介石につぐナンバー2の地位にあった。一九三三年以来、政府の行政委員長のポストにつき、軍事面はは蒋介石、行政面は汪精衛と指導者の役割を分担、三八年四月には国民党副総裁に就任した。汪精衛は日本やフランスへの留学の経験をもつい知識人であったが、インテリの弱さと動揺性もあって、中国の抗戦力の実態を見失い、武漢陥洛以後は、軍事力では日本に対抗できないと思うようになった。
折から、日本の陸軍参謀本部第八(謀略)課長影佐禎昭大佐【注①】・同支那班長今井武夫中佐らによる、汪精衛への和平工作が秘密裡に進められた。これは三八年の十一月の東亜新秩序建設を提唱した第二次近衛声明で述べた、東亜新秩序の建設に政府と雖も参加を拒否せずという方針にそって、日本側の要求を受け入れる政府に改造して、戦争を終結させようという工作であった。
三八年十二月二十一日、近衛首相は、中国の「満州国」承認・防共協定の締結日本軍の防共駐屯などを日中国交調整の根本方針とする声明を発表した。これに呼応するかたちで汪精衛は密かに重慶を脱出してハノイへ到着、ーニ月三〇日、近衛声明をうけた和平反共救国声明を発表した。しかし、国民政府関係者からは汪精衛が期待したほどに和平の同調者の参加がなく、反蒋介石派の軍隊もまったく動かなかった。日本側の条件が過酷にすぎ、それを受け入れた和平は対日降伏にほかならないことが判明すると、汪精衛の側近からも脱落するものがあいつぎ、この時の日本側の汪精衛工作は失敗した。
汪精衛はその後、日本軍占領下の上海で、紆余曲折を経ながら政權樹立の工作をつづけた。後節で述べるように、重慶爆撃によっても国民政府の崩壊を果たせなかった日本の政府・軍部が、日本の占領地、未占領地もふくめた地域の政治・経済を維持する必要から、名目的にせよ政府を国民政府を名乗る汪精衛政権を南京に樹立する必要に迫られ、四〇年三月汪精衛の設立となったのである。
対日和平政策、「防共・反共」をかかげた汪精衛政権の成立によって、華北の民衆をふくめて抗日民族統一戦線側に動揺と亀裂が生じるようになった。この危機的状況を阻止するために、共産党・八路軍が百団大戦を発動したことは、朱徳八路軍総司令が延安における幹部会議(四〇年七月頃)においておこなった報告から知ることができる。
朱徳総司令は、「裏切り者汪精衛の登場後の日本侵略者の華北における新しい手品、裏切り者汪精衛が登場し、傀儡政権が正式に成立したのちの敵侵略者の華北における陰謀も、全国に対する政治的進攻が強まるにつれ、ますます悪辣になものになってきた」と述べ、汪精衛政権が名乘る中国「国民政府」「国民党」や「三民主義」「新中央軍」などの美名の盗用に民衆がだまされ、汪精衛政権の影が華北にもおよび、北支那方面軍が主導する教育、行政、経済政策などが浸透し、華北が「第二の満州国」となる危機に直面していること、さらに汪精衛政権が日本と組んで防共・反共思想を宣伝して、国共合作の離間を策し、「わが華北の政府・党【注②】・政府・軍隊・民衆に対して挑発離問や分裂政策を強め」、「あらゆる方法でわが抗戦部隊の団結を破壞することを挑発しようとしている」ことに警告を発した。そして報告の最後に「汪(精衛)反対、投降反対、蒋介石擁譏、抗戦堅持の運動を広範に展開し、華北の抗日陣営内に潜む汪精衛派・漢奸を一掃し、蒋介石委員長を擁譏してあくまで抗戦をつづけること」をよびかけたのである。漢奸とは漢民族を裏災切り、敵(日本)に内通する売国奴、国賊という意味である。
【注①】訪中レポート⑥アヘンマネーの坩堝“魔都上海”「影佐禎昭と里見甫自宅跡」
【注②】ここでの「党」とは、中国共産党のことで「抗日国共合作」によって中国共産党人民解放軍は、「八路軍」と「新四軍」として国民党軍の傘下に加わりました。1921年7月に結党しましたので29年目のことでした。
【注③】「日華基本条約」により、日本(第二次近衛内閣)は、汪精衛による南京国民政府を支那中央政府として正式に承認しました。
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昭和15年(1941年)9月1日発行の「画報躍進之日本」は「近衛第二次内閣成立」特集号です。
7月22日初閣議後の記念撮影。中央=近衛首相、前列右から=松岡外相、河田蔵相、吉田海相、東條陸相、風見法相(以下略す)【首相官邸にて】
第三次近衛内閣での閣議決定後、9月6日の御前会議で「国策遂行要領」が決定し、10月16日に近衛は総辞職します。なお「国策遂行要領」については、次期首班に選ばれた東條英機に、天皇裕仁から「白紙還元の御諚」が言い渡されました。
昭和十六年九月六日御前会議決定
帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾撥性に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に依り遂行す
帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
帝国は右に並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む
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(了)