「台湾有事」は、中国とアメリカそして日本の安全保障の問題となっています。
遊就館から重複本として頂いた書籍に、四人目の台湾総督だった後藤新平について書かれていた「中国は歴史に復讐される」を紹介します。
気宇雄大だった後藤新平の台湾経営──渡辺
台湾は現在は民主主義国家です。しかも台湾人は17世紀後半以降に移住してきた人々ですから、漢族とはいえもう別の民族になってしまったと言ってもいいでしょう。
さらに日本統治時代が続いた間に、国民国家体系、つまり司法も行政も立法の諸組織、諸制度からビジネスに至るまでがすべてつくり変えられてしまいました。今の台湾人は台湾アイデンティティというか、いわゆる本土意識が一段と強くなっています。台湾がそうなったのには、やはり日本の統治のことを語らねばなりませんよね。
日本統治時代でもつとも活躍したのは後藤新平でしょう。後藤の台湾経営の哲学は、「生物学的植民地論」として知られています。個々の生物にはそれぞれ固有の生態的条件が必要であるから、一国の生物を他国に移植しようとしてもうまくいくはずがない。他国への移植のためには、その地の生態に見合うよう改良を加えなければならない。本国日本の慣行、組織、制度を台湾のそれに適応するよう工夫しながら植民地経営がなされるべきだ、概略そういう趣旨でした。後藤の台湾経営思想は、武断型の植民地支配とは一線を画するものであったのです。
台湾に古くから存在している慣行制度を極め、このいわゆる「旧慣」に見合うような制度的一工夫をしなければ、優れた海外領土経営など不可能だというまっとうな思想の持ち主が後藤新平でした。
この思想が典型的に表れたのが、台湾人の長き悪習であったアヘン吸引の禁止でした。下関の日清講和会議で、も李鴻章が伊藤博文に対し、「貴殿は台湾でアヘンと土匪(ゲリラ)で手を焼きますぞ」と捨て台詞を吐いたというエピソードが残っているほどです。
アヘン吸引者からアヘンを一挙に取り上げるわけにはいきません。後藤はアヘン令を出して、アヘン専売制度を設けたのですね。アヘン販売業者を特定の仲買人と小売人に限定し、すでにアヘン中毒にかかっている者のみにこれを購入させる通帳を保持させ、新たな吸引者には通帳を絶対に交付しないことにしたのです。
当然ながら、アヘン価格は旧来に比して高価に設定されました。これによりアヘン吸引者は漸減し、加えて専売収入の増加にも寄与しました。
また後藤は、台湾に古い来歴を持つ 「保甲」を利用した密度の濃い統治制度を確立しました。保甲とは十戸を一甲、十甲を一保として、甲長と保長をおき、保甲内の相互監視と連座制を徹底した制度でした。これは決して、台湾人を締め付けるためだけに採用したものではなく、台湾の戸籍調査、出入者管理、伝染病予防、道路・橋梁建設、義務労働動員などがすべてこの保甲を通じてなされました。保甲は日本の台湾統治のためのきわめて効率的な住民組織として大いに機能したのです。
さらに後藤がなした翻欧すべき成果は、土地・人口調査事業の完遂です。
後藤はこの事業をもって経営さるべく託された台湾の現状を徹底的に調べ尽くしました。土地調査事業の着手は、後藤の台湾着任後わずか半年のことでした。調査を通じて、台湾全土の耕地面積・地形を確定し、地租徴収の基盤を整えました。
続いて林野調査事業を始め、台湾全土の山林地帯の面積・地形を讐し、所有関係を静したのです。1903(明治36)年には「戸籍調査令」を発令、これにもとづき、本格的な人口調査を行いました。
こうして後藤の治世下、台湾の植民地経営の基礎は急速に整えられ、鉄道、港湾、空港、電話網など多様な公共事業が展開されました。台湾の公共事業は往時の他の植民地に類例を見ないほど充実したものでした。台湾銀行を着任の翌年に設立、間もなく台湾銀行券を発行、公共的構造物の建設に要する大量の資金が同銀行の事業公債により調達されました。
後藤の台湾統治原理は「搾取」などではまったくありません。古い歴史伝統とシガラミを持つ日本においては容易に試みることのできない企図を、新天地台湾で展開してみようという実に気宇雄大なものだったのです。
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角川世界史辞典より
(了)