8日の日に行った浅草が、面白かった、という印象が強く残り調子に乗ってblogにフォトや文をのっけた。のっけたというのも、の
せたというのが普通だろうと思う。正しい文章の書き方などということになれば・・・。wordにあらかじめゴシック体で打って、転載
すると、そのまま全文がゴシック体で表記され、以前のblogで起きたようなゴシックと明朝の入り混じった文にはならない。とりあえ
ずはこの方法でもよさそうだ。転載してからの全文変換がいつも効くかどうかは、疑問として依然、残るけれど。
話は変わるが、浅草へ行ったおかげで旅心を少し思い出し、エンジンがかかったようになって、昨日、以前から望んでいた青森の三内丸
山見物を決め、宿の予約や列車の切符の手配をした。ほぼインターネットによる資料集めと予約申し込みとなった。切符は最寄りの駅で買
い求めた。座席の予約などもすべて券売機で行ってみた。特に難しくもない。簡単に終わってそれだけだ。出張などで半ば強制的に行くと
いうのではないし友人などと行くわけでもないので、旅へ行く、ということについては少し変わった気持ちの起し方を必要とするのだが、
まあ、まずは手配は完了したといったところで一安心だ。ところで、天気があまりよくないようだ。全国的にそうなのだろう。こればかり
はどうにもならない。せいぜい旅に似合った雨具を持参するくらいだ。
以前、blogに一人称というタイトルで文を載せた。その中で、「手前ども」というのを一人称とは違う、という意味の書き方をして
いるが、私の早とちりで、一人称であった。それで複数。ただ、私や我々といった「正統派人称」とはちょっと違うかな、といったところ
だ。
他の人々のblogを見ていると、「である。」という書き方がほとんど消失していることに気付く。空恐ろしいくらいだ。新聞の文章な
どを手本にするとそうなる。新聞の場合は事実をなるべく客観的に簡潔に書こうとするのでそうなるのだろう。ただ、少し突き放した感じ
にはなると思う。ポキポキパキパキといった感じも短い文が続いたりすると若干大袈裟だが、する。である、は自分の側で自分の受け止め
た事としてわずかに溜めた感じがする。私は、である、は使う方だ。
しかし、人々は消失しつつある「である。」に気付いているのだろうか。
せたというのが普通だろうと思う。正しい文章の書き方などということになれば・・・。wordにあらかじめゴシック体で打って、転載
すると、そのまま全文がゴシック体で表記され、以前のblogで起きたようなゴシックと明朝の入り混じった文にはならない。とりあえ
ずはこの方法でもよさそうだ。転載してからの全文変換がいつも効くかどうかは、疑問として依然、残るけれど。
話は変わるが、浅草へ行ったおかげで旅心を少し思い出し、エンジンがかかったようになって、昨日、以前から望んでいた青森の三内丸
山見物を決め、宿の予約や列車の切符の手配をした。ほぼインターネットによる資料集めと予約申し込みとなった。切符は最寄りの駅で買
い求めた。座席の予約などもすべて券売機で行ってみた。特に難しくもない。簡単に終わってそれだけだ。出張などで半ば強制的に行くと
いうのではないし友人などと行くわけでもないので、旅へ行く、ということについては少し変わった気持ちの起し方を必要とするのだが、
まあ、まずは手配は完了したといったところで一安心だ。ところで、天気があまりよくないようだ。全国的にそうなのだろう。こればかり
はどうにもならない。せいぜい旅に似合った雨具を持参するくらいだ。
以前、blogに一人称というタイトルで文を載せた。その中で、「手前ども」というのを一人称とは違う、という意味の書き方をして
いるが、私の早とちりで、一人称であった。それで複数。ただ、私や我々といった「正統派人称」とはちょっと違うかな、といったところ
だ。
他の人々のblogを見ていると、「である。」という書き方がほとんど消失していることに気付く。空恐ろしいくらいだ。新聞の文章な
どを手本にするとそうなる。新聞の場合は事実をなるべく客観的に簡潔に書こうとするのでそうなるのだろう。ただ、少し突き放した感じ
にはなると思う。ポキポキパキパキといった感じも短い文が続いたりすると若干大袈裟だが、する。である、は自分の側で自分の受け止め
た事としてわずかに溜めた感じがする。私は、である、は使う方だ。
しかし、人々は消失しつつある「である。」に気付いているのだろうか。