福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

ゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナー2番

2018-09-20 22:38:48 | コンサート


今宵のブルックナーは素晴らしかった。隅々にまで、ゲルギエフの意思が通い、昨夜とはまるで違う自信に溢れたブルックナーとなった。

どこを切り取っても、生気に満ちた推進力のある音楽で、フレーズに気が通い、すべての和声に意味深さがあった。さらには、ミサ曲第3番からの引用箇所には静かな祈りすらあった。

ミュンヘン・フィルの弦楽セクションに於けるピラミッド型の音バランス、木管の涼やかな詩情、時に輝かしく、時に深々とした金管群、激しく打ち込むティンパニなど、ステージ上のすべてがブルックナーの美に貢献しているという光景は、何という至福であろう。



今宵の演奏に注文を付けるとするなら、スケルツォのラスト。ティンパニによる強打の直前の沈黙に、あとほんのひと呼吸の溜めが欲しかった。さらにその後のトゥッティに、もう1目盛上の高揚が欲しかった、というささやかなもの。それほどまでに素晴らしいブルックナーだったのである。我がブルックナー人生に於いても記憶に残るものとなりそうだ。

前プロのモーツァルト「40番」については、語らなくともよかろう。一言だけ述べるなら、第3楽章メヌエット以降、グンと良くなった。

なお、プログラム的には地味な「2番」ということで、昨夜より客足の鈍ることを心配していたが、意外にも今宵の方が座席は埋まっていた。モーツァルト効果なのか、シリーズ別の定期会員数の違いなのか、理由は分からない。







フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」との再会

2018-09-20 15:35:52 | 美術


大阪フィル合唱団とのライプツィヒ公演に先立つミュンヘン訪問は、ただただゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナーを聴くのが目的。クナッパーツブッシュの墓参さえしてしまえば、観光の類は一切必要ないのだが、市内交通機関の3日間チケットもあることだし、清掃の時間に部屋を空けなければいけないし、とのことで、トラムに乗り込み、アルテ・ピナコテークという歴史ある美術館に出掛けてみた。



まさか、ここで再会できると思っていなかったのが、去る6月にアムステルダムで拝んだばかりのフェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」である。今月末までの特別展示がされていたのだ。



それにしても、フェルメール前のこの静けさよ。日本だったら黒山の人集りとなること必至だが、実にゆったりとした気持ちで鑑賞することのできたのは有り難い。











その他、ラファエロ、レンブラント、ルーベンス、ファン・ダイク、ティツィアーノ、ピーテル(父)・ブリューゲル(順不同)など、半日では堪能しきれないほどの作品が展示されていたが、すべてに真剣に対峙すると疲れてしまうので、流すべきは流してホテルに戻った次第。

夜のブルックナーに備え、しばしの休息だ。



ゲルギエフ ブルックナー3夜連続演奏会 初日

2018-09-20 08:31:15 | コンサート


ゲルギエフ&ミュンヘン・フィルのブルックナー3夜連続演奏会。

初日「9番」の前プロは、ベルント・アロイス・ツィマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」。



結果的に、この前半が、昨夜のクライマックスとなった。

「2人の話者、バス独唱、オーケストラのための福音宣教的アクション」との副題が添えられており、テクストは旧約聖書「伝道者の書」により、一部ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第2部・第5篇「大審問官」からも採られている。

何という衝撃的な音楽だったろう。
否、音楽という括りには収まり切れない、演劇的要素も含んだ時間と空間の前衛芸術。
痛切なホーン・セクションの叫び、心の苦しみを抽出したかのような弦楽器群、肺腑を抉る打楽器群はまさに慟哭。

2人の話者の言葉は放たれた矢のように、或いは機関銃のように聴衆に迫り、バス歌手は歌い、語り、嘆きながらも、遂には存在そのものが絶望の涙となる。

悲劇的なラストが訪れる。
金管群によりコラール「我は足れり」が奏され、不協和音に満ちた世の中が平安となり、希望が訪れたかと思いきや、突如断ち切られ、暴力的に閉じるのだ。

ツィマーマンは、この作品を書き終えた5日後に、拳銃自殺を遂げたという。人に理解されず、世に受け入れられないことに苦悶した作曲家の魂は、果たして救われたのだろうか?

ふたりの話者とバス歌手は、絶賛に価する超絶のパフォーマンス。さらに、この難解なスコアを音にしたミュンヘン・フィルの底力には圧倒された。

Georg Nigl, Bariton
Michael Rotschopf, Sprecher
Josef Bierbichler, Sprecher

Leitung: Valery Gergiev

Eine Produktion der Münchner Philharmoniker in Zusammenarbeit mit Berliner Festspiele/Musikfest Berlin anlässlich des Bernd Alois Zimmermann Jahres 2018

(MPhil)



メインのブルックナーについては、これから「2番」「8番」と聴くので、多くは触れないでおこう。

ただ、ひとつ感じた疑問は、ゲルギエフが未だブルックナーを自らの音楽とできてはいないのでは? ということである。

トゥッティでガンガンいくところは、凄まじい音響が現れる(流石、ミュンヘン・フィルはブルックナーをよく知っている、と思わせる)のだけれど、ゲルギエフが確信を持って振れていないだろう箇所で、オーケストラは度々乱れるなど、全体に緩いアンサンブルとなっていた。

何より、チェリビダッケのような至高の美学、ヴァントのような徹底的な構築美、というような、ゲルギエフ独特の何か、が感じられなかったのが、惜しまれる。

しかし、これは、時差ボケの解消されないわたしの第一印象。今宵の「2番」、明晩の「8番」で、わたしの感じ方を覆してくれることを期待したい。