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明鏡   

鏡のごとく

『果肉日記』

2011-07-14 15:13:56 | 小説
「御堂関白記(みどうかんぱくき)」と名付けられた藤原道長の日記が世界文化遺産に推薦されたと言う。

「御堂関白記(みどうかんぱくき)」は直筆で書かれた日記であると言う。

今、私が書いている日記は直筆でもなく、ネット空間を彷徨うが如くある言の葉の巻物であり、とある防衛庁の御用達の会社からクレームをつけられて、そちらのクレーム内容を公開していたら、突然、その内容を見えなくされて、おまけになぜか自分自身のブログにアクセスできなくなってしまったと言うお粗末さである。

それでも、こうして書き続けているのは、血のなせる技なのかもしれない。

書かずにはおれない、歌わずにはおれないようなもののある種の宿命のようなものであるとも言えなくもない。

というのは、先日、親戚のおじさんが亡くなって、葬式に伺った時に聞いた話から、勝手に思い込むようになった血の匂い、血族の末端を担うものとしての自分の名前を、そこで見たからであった。


おじさんは心臓の周りに脂肪を溜め込んでなくなった。

美食家だったので、いつも会うときはおいしいものを食べに連れて行ってくれたものだった。

家に愛人と遊びに来たときにも、母親が奮発して手に入れて来たステーキ肉もお気に召さなかった。

なんで親戚でもない人とうちに遊びにくるのかよくわからなかったが、私の父親も女性との交流関係に関しては身体を壊してまでも続けるような人であったので、こどもであった私は言葉もなく、ただ贅沢なステーキ肉が冷えていくのを横目で見ていたくらいであった。


 冷めている。大人はわからない。


おじさんの父親で私の曾祖父に当たる人は、映画好きで、福岡の渡辺通り沿いに映画館を昔持っていたが、映画好きが過ぎて、あこがれの映画の故郷の亜米利加に渡ってしまって、ユタ州で働いていたが、戦後、着の身着のまま日本に帰って来たのを、私の祖父が引き取って面倒を見たということだった。
ユタで何をしていたのかはよくわかっていない。
もしかして、戦争中であったから、敵国人と見なされ、ウラン鉱山などで外国人労働者として働かされていたのではないか等と、密かに思っていたりしたが、誰もよく知る者はいなかった。


 なにも、そこまでして。そこに走ることがわからない。



おじさんが焼き場から出て来て、皆でお寿司等を食べていると、半身不随の私の父親がやって来た。

父は脳出血で介護が必要な身体となり、しばらく私の家にいたが、ここに来る前に逃げてきた愛人に携帯で、


おいしいものを食べてるか。


等と話しているのを聞いて、携帯で話しているのは誰だともみ合いになっている時に、古い携帯がまっぷたつになり壊れてしまって、そのまま怒って家を身体を引きづりながらも飛び出してしまった、まるで思春期の男の子のような血気盛んな人であった。

しばらく顏も見ていなかったのだが、何事もなかったように、席の斜め横で、


白身の魚と海苔巻きを取ってくれ。


等と私に言ってくる。


 おとななのかこどもなのかわからない。


父はすまして醤油につけて左手で箸を上手に使い、寿司をほおばっている。


隣りに座っていた姪が、


じいちゃんね。最近、運転したいって云い出したとよ。誰も横に乗りたがらんけど。


と笑いながら言った。


 父ならやりかねない。それならわかる。


すると、テーブルの向こうに座っていた品のよいどこかで見かけたことのあるおばあさまが、


私もつい最近まで、車に乗ってたんですれど、もう八十を過ぎたのでやめましたの。


とおっしゃった。


そうなんですか。やはり、車を運転される方が乗れなくなると寂しいものなのでしょうね。


と話しかけると、そのおばあさまは目をくりくりして、


それにしても、なくなったやっちゃんとは、よく子どもの頃、かけっこして遊んだんですよ。
妹のしーちゃんもいっしょになって走り回って。
やっちゃんもしーちゃんも足が速かったわ。
あなたのおかあさんのじゅんちゃんは、まだちいさかったから、一緒に遊んでなかったけど。


とおっしゃった。


おいちゃんもその話を聞いてなんだか話しにかたって(くわわって)きそうな気がしたが、写真の中に収まったまま、動かず笑っていた。


そのおばあさまが、ちょこんと座った足下の鞄から、いつも持ち歩いていそうな、巻物を取り出した。


これね。私たちの家系図なのよ。


私は、古びた手書きの方眼紙を横長に繋げたような家系図を手渡された。
巻物を延ばしていくと、末端に自分の名前が書かれているのを見つけた。


 横にのびていく根っこの先にぶら下がっている果肉が、私なのだ。


何かに繋がった気がしたのは、これが初めてであった。
家系図の中の自分。確かに血と肉で繋がっていたと言う証のようなもの。


藤原家とは縁があるんですのよ。私はそのことで今ルーツを探して、研究しているところなのですよ。


と、そのおばあさまの横に座っていたおばさんがいった。
どちらも名前は知らないが見たことがあった顏であった。


ねこもしゃくしも藤原、藤原の時代があったでしょう。


と母から同じことを言われて、笑っていたこともあったが。


 家系図を見せられて、たとえねこでもしゃくしでも、藤原家ということはわかった。


木曽さんも親戚にいるのですよ。


とおばさんにいわれた。

そちらは相撲の贔屓筋というか胴元みたいなこともしていたというので、改めて、血というものの縁に思いを馳せながら、血は亡くなったとしても骨になったおいちゃんの焼き場から出て来た生暖かい骨たちが、家系図のように横になっていたのを思い出していた。

 
 思えば、ほんの5,6年前に女子相撲の映画を撮っている福岡の在住の監督さんとプロデューサーの方のお手伝いをして、なぜか映画の中で戦争反対の詩を読ませてもらい、父親の仕事の関係でイランに住んでいたこともあり、イランでロケもしたいということだったので、そのコーディネートもさせてもらったことがあったが、父親や曾祖父や親戚がやって来たことが、今の自分に少なからず、意識的にも、無意識的にも影響を与えていることに、改めて気付いたということでもあった。


 さいごに関白となくなった祖先にささげし歌 

 果肉 食べるか 落ちついて さいごは骨になろうとも
 果肉 種まく だれかれと さいごは骨になろうとも