明鏡   

鏡のごとく

『鯖の煮込み』

2012-11-15 01:16:18 | 小説
 タコ足物干しの足が何本ももげてしまった。
 もろすぎるか細いタコ足にタオルを干しただけだったが、横からの力に殊の外弱く、あっさりと4,5本もげてしまったのだ。

 空港の近くに買いに行こうと思った。
 洗濯物の重みに耐えられるような図太い支えのあるタコ足を手に入れるために。

 空港の近くを通ると、いつものようにカメラを持って張りついている人がいた。黒いタートルを着て、望遠カメラで何かを狙っていた。
 飛行機の肚を撮るのが生きがいというわけでもなさそうで、アニメのキャラクターの飛行体を収めたいわけでもなく、まして飛行機マニアというわけではなく、いわゆる戦闘機やヘリの監視をしているプロだかアマだかしらない市民団体所属風の男だった。
 監視しなくとも、いつも戦闘機もヘリも旅客機も飛んでいた。
 鳥も飛んではいたが、空気銃でおいたくられていた。
 見えない空気銃の音がなったと思ったら、見えない鳥の羽ばたきの音だけがどこまでもついてくるように鳴り響いていた。

 空から、見えない空気銃の抜け殻みたいに、ぱらぱらと雨がふりだした。 
 寒くなった。
 もう鳥の羽音はいなかった。

 向こう側では、雲の切れ切れから、太陽の残骸のように天使のはしごが見えていたが、雨は相変わらずほどほどに降っていた。

 今日は鯖の煮込みを作った。
 タコ足を買ったついでによった店で、生きのいいごまさばがやすく手に入ったので。
 生臭さを消したいので生姜も手に入れた。
 ゴツゴツと干からびた脂肪肝のように露骨に、白い発砲スチロールのトレーに乗っかっていた。
 脂肪でなくとも、これだけあれば、あたたまることだろう。

 せがれがかえってきた。


 ねえ おかあさん。 
 近所で人がなくなったって。
 張り紙を見たともだちがおると。
 外には鑑識の人がおったと。
 落ちたか飛んでしまったのかもしれんね。
 男の人かおばあさんじゃないかって。いいよったよ。


 鑑識の人が駆けつけているらしく、辺りは重苦しい空気が覆いかぶさるように夜になろとしていた。 人がよそよそしく通り抜けていった。
 さっきの雲も天使の梯子も外されたみたいに、もうなくなっていた。

 鯖は肚のどす黒いものをすべて取り除かれ、ぶつぎりにされて、とろとろとしてきた皮がところどころ剥がされながら、味噌に浸かって、ぶつぶつと煮えたぎっていた。ふいに、


 生姜を入れなくては。


 と思った。

 
 生臭さが煮詰まっていく前に。
 その白く固まった身に残り、執拗に離れようとはしなかったが、生姜を刻むことで、少しずつ生臭さから開放され、白く固まりかけた胃を再度内部から溶かしていくように鼻孔をくすぐった。

 死の始まりの合図が生臭さであるならば、死の完結は骨であった。


 さっき、飛んだと思われる人を知らないから、のうのうと鯖を煮込んで死を思うのではなく、ほんの近くで飛んだというのに鯖の味噌煮込みに生姜を入れていることが生臭さの始まりであり、己も又、飛ぶか飛ばないかは別にして、死へは誰でも飛ぶものだということを考えつつも、湯気に包まれてほろほろにほぐれていく鯖の味噌煮込みを食らいながら、その日あった死を飲み込んだ。

 明日も又、死を飲み込むのだ。己が死に飲み込まれるまで。