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ミクシィ内で見かけたものより抜粋
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実事求是 ~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
実事求是11 林子平の「三国接壌図」に対する韓国側の誤解
それは1853年6月、小笠原島に立ち寄ったペリー提督の『日本遠征記』でも確認ができる。ペリーは翻訳された林子平の『三国通覧図説』を引用し、小笠原島の最初の発見者を日本人としているからだ。保坂氏が主張するように、江戸幕府がフランス語版の「三国接壌図」を使い、小笠原諸島を日本領としたというのはフィクションの世界である。
同様に、「三国接壌図」には「竹島が朝鮮領と明記されている」とする保坂氏の主張にも根拠がない。「三国接壌図」には、竹島が描かれていないからだ。保坂氏は、「三国接壌図」に描かれた竹嶋に「朝鮮ノ持也」の文言があることを根拠に、欝陵島と竹島が朝鮮領にされたと解釈した。だがその竹嶋には、「此嶋ヨリ隠州ヲ望/朝鮮ヲモ見ル」と記されたもう一つの付記がある。これは林子平が「三国接壌図」を作図する際、その中心に置いた長久保赤水の『日本輿地路程全図』に由来する文言で、齋藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用文である。そこに林子平が改めて「朝鮮ノ持也」と注記したのは、『日本輿地路程全図』では欝陵島を日本領として認識していたからで、注記の対象は欝陵島だけになるからだ。
さらに「三国接壌図」と長久保赤水の『日本輿地路程全図』を比較すると、林子平の「三国接壌図」には今日の竹島が描かれていない。それは林子平が「全形を挙げず」とするように、「三国接壌図」では『日本輿地路程全図』の全てを写してはいないからである。それを保坂氏が、「三国接壌図」に描かれた欝陵島の右上にある小島を竹島とするのは、文献批判をしないまま「竹島」と独断しただけのことで、文献的根拠があってのことではない。
現に「三国接壌図」の欝陵島は、1711年に朴錫昌が提出した「欝陵島図形」の系統を引くもので、小島は「竹嶼」とするのが妥当である。それを保坂氏は「三国接壌図」では竹島を朝鮮領としたとし、竹島問題研究会の最終報告書を批判するが、それは当たらない。
この保坂氏の主張に対し、領南大学校の独島研究所の金和経所長は、「三国接壌図は国家間の領土紛争で公的な資料として活用され」、「歴史的資料として大きな意味を持つ」とコメントしている。だがそれは文献批判を怠った保坂氏の主張に盲従する、妄言である。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04_r.html
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返信
[56]2012年10月03日 21:14
みのる (前のコメントから)
ここで結論になりますが、
韓国の教科書にまで載っているのに申し訳ないですが、
林子平の地図は「日本とアメリカの小笠原領土紛争にな関係ない」が正解です。
****
『風雲児たち』の小笠原諸島とペリーのエピソードについて
2012/02/14 00:03マンガ・アニメ・特撮
【質問4】
日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だという証拠と主張している。しかし、19世紀に日本がアメリカとの小笠原群島問題の際に提出した地図には独島(竹島)が韓国の領土だと明示されている。これについて説明を願いたい。
【回答】
ご意見ありがとうございます。韓国で質問にあるような見解が発表されたので、改めて事実関係を調べてみましたが、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実そのものが存在しないことを確認しました。伝えられるところによれば、韓国での議論は、(A)アメリカのペリー提督が日本に開国を求めて来航した際、小笠原諸島の帰属が問題となり、日本は、林子平の三国通覧図説を示してアメリカ側の主張に反駁したというものです。さらに、(B)三国通覧図説の絵図では竹島が朝鮮領となっているので、それをアメリカとの外交交渉に用いた以上、三国通覧図説の絵図は日本政府が公的に認めたことになる、という議論だと承知しています。
(A)の話は、林子平の各種の伝記に登場するエピソードでありながら小笠原諸島の領有の経緯を扱った学術文献には全く出てこないことに疑問を持ち、この話の来歴を辿った人がいます。その方の研究によれば、『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタだそうです(若松正志「小笠原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536, 2007.4, p.103)。この新聞小説の連載第44回(1924年11月16日)には、次のような話が載っています。「...ペルリが来航した時、先づ小笠原島に入りピールアイランド殖民政府といふものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。...幕府では頗る窮迫したが、偶仙台の林子平が天明中に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、これを独逸で翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペルリに提示した...」。ペリーの記録は、1856年に米国上院文書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.79)として議会に提出されその後単行本として版を重ねた『ペリー艦隊日本遠征記』を始めとして、同じく上院に海軍長官が提出した報告書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.34)、ペリーの秘書官R・ピノーの日誌、同じく中国語通事S.W.ウィリアムズの日誌などがあります。これらには、上記のような話が出ていないばかりか、ペリーは小笠原寄港後香港に赴き、そこで英国政府の代表に対し、三国通覧図説(クラップロートによる訳本)を引用してボニン諸島という名称が日本に由来するものであることを説き、英国の「発見」に基づく領有主張を退けています。1853年12月つまり「日米和親条約」締結交渉が行われる前年のことです。無論、ペリーが日本での幕府との交渉で小笠原を要求したとか幕府が林子平を引き合いに出して反駁したというような記録は、日本側にもありません(『大日本古文書』など)。
(B)の三国通覧図説の絵図で竹島が朝鮮領となっているかを検討するまでもなく、そもそも(A)の話は新聞小説に端を発した俗説であって、史実ではないのです。 (事務局:総務課)
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/60b378585393d312e9e0d922ed0c4cf0
●小笠原年表
■小笠原諸島に関係する主な出来事
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/ogasawara/travelguide05.htm
小笠原・火山(硫黄)列島の歴史
http://www.iwojima.jp/ogasa2.html#Anchor69697
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実事求是 ~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
実事求是11 林子平の「三国接壌図」に対する韓国側の誤解
それは1853年6月、小笠原島に立ち寄ったペリー提督の『日本遠征記』でも確認ができる。ペリーは翻訳された林子平の『三国通覧図説』を引用し、小笠原島の最初の発見者を日本人としているからだ。保坂氏が主張するように、江戸幕府がフランス語版の「三国接壌図」を使い、小笠原諸島を日本領としたというのはフィクションの世界である。
同様に、「三国接壌図」には「竹島が朝鮮領と明記されている」とする保坂氏の主張にも根拠がない。「三国接壌図」には、竹島が描かれていないからだ。保坂氏は、「三国接壌図」に描かれた竹嶋に「朝鮮ノ持也」の文言があることを根拠に、欝陵島と竹島が朝鮮領にされたと解釈した。だがその竹嶋には、「此嶋ヨリ隠州ヲ望/朝鮮ヲモ見ル」と記されたもう一つの付記がある。これは林子平が「三国接壌図」を作図する際、その中心に置いた長久保赤水の『日本輿地路程全図』に由来する文言で、齋藤豊仙の『隠州視聴合記』からの引用文である。そこに林子平が改めて「朝鮮ノ持也」と注記したのは、『日本輿地路程全図』では欝陵島を日本領として認識していたからで、注記の対象は欝陵島だけになるからだ。
さらに「三国接壌図」と長久保赤水の『日本輿地路程全図』を比較すると、林子平の「三国接壌図」には今日の竹島が描かれていない。それは林子平が「全形を挙げず」とするように、「三国接壌図」では『日本輿地路程全図』の全てを写してはいないからである。それを保坂氏が、「三国接壌図」に描かれた欝陵島の右上にある小島を竹島とするのは、文献批判をしないまま「竹島」と独断しただけのことで、文献的根拠があってのことではない。
現に「三国接壌図」の欝陵島は、1711年に朴錫昌が提出した「欝陵島図形」の系統を引くもので、小島は「竹嶼」とするのが妥当である。それを保坂氏は「三国接壌図」では竹島を朝鮮領としたとし、竹島問題研究会の最終報告書を批判するが、それは当たらない。
この保坂氏の主張に対し、領南大学校の独島研究所の金和経所長は、「三国接壌図は国家間の領土紛争で公的な資料として活用され」、「歴史的資料として大きな意味を持つ」とコメントしている。だがそれは文献批判を怠った保坂氏の主張に盲従する、妄言である。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04_r.html
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返信
[56]2012年10月03日 21:14
みのる (前のコメントから)
ここで結論になりますが、
韓国の教科書にまで載っているのに申し訳ないですが、
林子平の地図は「日本とアメリカの小笠原領土紛争にな関係ない」が正解です。
****
『風雲児たち』の小笠原諸島とペリーのエピソードについて
2012/02/14 00:03マンガ・アニメ・特撮
【質問4】
日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だという証拠と主張している。しかし、19世紀に日本がアメリカとの小笠原群島問題の際に提出した地図には独島(竹島)が韓国の領土だと明示されている。これについて説明を願いたい。
【回答】
ご意見ありがとうございます。韓国で質問にあるような見解が発表されたので、改めて事実関係を調べてみましたが、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実そのものが存在しないことを確認しました。伝えられるところによれば、韓国での議論は、(A)アメリカのペリー提督が日本に開国を求めて来航した際、小笠原諸島の帰属が問題となり、日本は、林子平の三国通覧図説を示してアメリカ側の主張に反駁したというものです。さらに、(B)三国通覧図説の絵図では竹島が朝鮮領となっているので、それをアメリカとの外交交渉に用いた以上、三国通覧図説の絵図は日本政府が公的に認めたことになる、という議論だと承知しています。
(A)の話は、林子平の各種の伝記に登場するエピソードでありながら小笠原諸島の領有の経緯を扱った学術文献には全く出てこないことに疑問を持ち、この話の来歴を辿った人がいます。その方の研究によれば、『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタだそうです(若松正志「小笠原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536, 2007.4, p.103)。この新聞小説の連載第44回(1924年11月16日)には、次のような話が載っています。「...ペルリが来航した時、先づ小笠原島に入りピールアイランド殖民政府といふものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。...幕府では頗る窮迫したが、偶仙台の林子平が天明中に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、これを独逸で翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペルリに提示した...」。ペリーの記録は、1856年に米国上院文書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.79)として議会に提出されその後単行本として版を重ねた『ペリー艦隊日本遠征記』を始めとして、同じく上院に海軍長官が提出した報告書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.34)、ペリーの秘書官R・ピノーの日誌、同じく中国語通事S.W.ウィリアムズの日誌などがあります。これらには、上記のような話が出ていないばかりか、ペリーは小笠原寄港後香港に赴き、そこで英国政府の代表に対し、三国通覧図説(クラップロートによる訳本)を引用してボニン諸島という名称が日本に由来するものであることを説き、英国の「発見」に基づく領有主張を退けています。1853年12月つまり「日米和親条約」締結交渉が行われる前年のことです。無論、ペリーが日本での幕府との交渉で小笠原を要求したとか幕府が林子平を引き合いに出して反駁したというような記録は、日本側にもありません(『大日本古文書』など)。
(B)の三国通覧図説の絵図で竹島が朝鮮領となっているかを検討するまでもなく、そもそも(A)の話は新聞小説に端を発した俗説であって、史実ではないのです。 (事務局:総務課)
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/60b378585393d312e9e0d922ed0c4cf0
●小笠原年表
■小笠原諸島に関係する主な出来事
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/ogasawara/travelguide05.htm
小笠原・火山(硫黄)列島の歴史
http://www.iwojima.jp/ogasa2.html#Anchor69697
『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫 下條正男著を読み終える。
わかりにくい日韓のやり取りを、著者なりの理解した道筋で論証した書である。
日本人も韓国人も他の国の人も読むとある程度、理解が進むと思われる。
歴史認識が、事実を逸脱しすぎる面を正すことが必要なことは言うまでもないが、偏った研究ばかりの中、日本は冷静になってことのなりゆきを丹念に世界に伝えてくために、今からでも遅くはないので研究をさらに深め、理不尽な韓国の主張を覆す必要がある。
1693(元禄6)年4月18日の午後2時、安龍福と朴於屯を乗せた大谷家の二百石積船は隠岐島に向け、鬱陵島を出帆した。後年、朴於屯は隠岐島に連れ去られる途次の航海について、「隠岐島に着くまでひどい船酔いに苦しんだ」という証言を残している。ともあれ、二人を乗せた船が隠岐島の福浦に着いたのは二十日だった。
安龍福の持っていた腰牌の裏には「庚午」=西暦1690年、「釜山佐自川一里/第十四統三戸」=釜山の佐自川一里が住所で水軍萬戸営に所属と記されており、表には「東莱(とんね)/私奴、用卜(よんぼく)、年三十三」=出身地は東莱、本名は用卜、私奴()とあった。
安龍福が日本語を話せたというのは、近くに対馬藩の出先機関である倭館が置かれているので、その倭館との関係が考えられるが、日本に密入国した犯罪人であり、その当時国を代表するような身分ではなく、私奴()であったということで、日本と交渉する権限も持っていなかったということは重要である。
その後、鳥取藩は江戸幕府から指示を受け、朝鮮人は以後、竹島(鬱陵島)には渡海しないように厳しく伝え、長崎に護送せよ、というものだった。
対馬藩は越境侵犯の質人として扱った。『竹嶋紀事』によると、対馬藩ではすでに1693(元禄六)年、五月十三日、この事件につき老中土屋相模守の指示を受けていた。二人を長崎で引き取って朝鮮に送還し、朝鮮漁民の越境を朝鮮政府に抗議する、というものであった。
朝鮮国慶尚道の内、釜山浦の安ヨクホキ(安龍福)、蔚山の朴トラヒ(朴於屯)は、竹嶋(鬱陵島)で、「あわび、わかめかせぎ」をするためとしていた。
対馬藩は安龍福の証言に基づいて、朝鮮漁民の越境行為を朝鮮に抗議する文案を練り、「国禁を顧みず」、朝鮮の「漁民四拾余口」がその当時の日本が竹島と呼んでいた韓国名鬱陵島で密かに「漁採をなし」ていたとしたためられてた。
~続く~