「火宅の人」を読む。
檀一雄のが原作の大林監督の映画「花筺」を見てからというもの「花筺」をずっと探していたのだ。
この映画は、監督の遺言のようであり、象徴がいたるところに、月に光る白蛇のように這いまわっていた。
ゾッとするようなヌルヌルとした美と肉の魂のようなものが這い回るのだ。
物語の中を。記憶の中を。海水の上を。道の上を。
屋根の上から飛べない臆病すぎる息子に、
「お飛び」
という母親と飛べない息子の物語のような。
飛んでいく男たちと飛べない男の物語のような気がして、それを確かめたいがために。
「花筺」をずっと探していたのだが、古本屋にはなく、なぜか昔から「火宅の人」を倦厭していたのを思い直して、手に入れておいたがなかなか読めずにいたものを届けてもらい、入院中のベットで読んだのだった。
自分は、図らずも、不意に屋根から飛んでしまったようなところもあり、「花筺」を読みたくてしょうがなかったのだが。まだ、読むに至っていない。
「花筺」が原作に忠実であったとするならば、おそらく、飛べなかった架空の主人公の男が、飛んだ後の生々しい男の物語に成り果てたような、檀一雄の生きた時代にあった戦争の後先の檀一雄自身の変わり果てた姿のようで、ここまで、人は変わるものだということを見せつけられたような気がした。
欲望のままに飛んだ、欲望に忠実になった男がそこにいた。
それから、能古島の檀一雄の終の住処を訪ねたことを思い出した。
子供の手を引き、船で渡った能古島の、ももち浜が見えるような場所だったと記憶している。そこから、生まれたであろう「火宅の人」は二十年をかけて書き続けたものだという。
彼の生きた証のようで、彼は今もその中で生きている。
最後の宿の中で、真新しいスリッパを用意して、いつか来るであろう「何か」を待っているように、檀はあの家で、「何か」を待っていたのではないだろうか。
などと思いながら、もがくように書き続け、生き続けた男が、自分の中にもいるようで、その「何か」を待っている自分を見つけたような気がした。
檀一雄のが原作の大林監督の映画「花筺」を見てからというもの「花筺」をずっと探していたのだ。
この映画は、監督の遺言のようであり、象徴がいたるところに、月に光る白蛇のように這いまわっていた。
ゾッとするようなヌルヌルとした美と肉の魂のようなものが這い回るのだ。
物語の中を。記憶の中を。海水の上を。道の上を。
屋根の上から飛べない臆病すぎる息子に、
「お飛び」
という母親と飛べない息子の物語のような。
飛んでいく男たちと飛べない男の物語のような気がして、それを確かめたいがために。
「花筺」をずっと探していたのだが、古本屋にはなく、なぜか昔から「火宅の人」を倦厭していたのを思い直して、手に入れておいたがなかなか読めずにいたものを届けてもらい、入院中のベットで読んだのだった。
自分は、図らずも、不意に屋根から飛んでしまったようなところもあり、「花筺」を読みたくてしょうがなかったのだが。まだ、読むに至っていない。
「花筺」が原作に忠実であったとするならば、おそらく、飛べなかった架空の主人公の男が、飛んだ後の生々しい男の物語に成り果てたような、檀一雄の生きた時代にあった戦争の後先の檀一雄自身の変わり果てた姿のようで、ここまで、人は変わるものだということを見せつけられたような気がした。
欲望のままに飛んだ、欲望に忠実になった男がそこにいた。
それから、能古島の檀一雄の終の住処を訪ねたことを思い出した。
子供の手を引き、船で渡った能古島の、ももち浜が見えるような場所だったと記憶している。そこから、生まれたであろう「火宅の人」は二十年をかけて書き続けたものだという。
彼の生きた証のようで、彼は今もその中で生きている。
最後の宿の中で、真新しいスリッパを用意して、いつか来るであろう「何か」を待っているように、檀はあの家で、「何か」を待っていたのではないだろうか。
などと思いながら、もがくように書き続け、生き続けた男が、自分の中にもいるようで、その「何か」を待っている自分を見つけたような気がした。