伸びきった髪を切ってから、八百屋に立ち寄った。
11年前の11日に、半身不随だった父とも一緒に八百屋に立ち寄って、苺を手に入れたのを思いながら。
せがれたちに、苺ば、こうちゃれ。
父が、1日に1回は外に出ないと気が済まない人だったので、子育てをしながらの介護で、朝、昼、夜の質素なごはんを作り、洗濯、掃除だけでも、しんどいところに、追い打ちをかけるように、じいちゃんの介護が上乗せされ、しんどさは底無しの毎日であった。
じいちゃんをお風呂に入れるにも、服を脱がせ、こけないように風呂に連れていくだけでも、へとへとになり、体は手の届かないところはブラシを使って自分で洗うというので、自分でできるところは自分でするという父の気持ちもあったので、最初の頃は、背中を洗ったりしていたが、徐々に自分でできることを増やしていくことが、希望ではあった。
夜の間は、トイレに行くにも、眠っているのいを起こしてまで行くのは憚られるので、尿瓶にたっぷりと溜まったおしっこを、次の朝、処分して、洗って、消毒しての繰り返しであった。
生きるということは、これほど、手間がかかることだったのかと、子供ならば、自分で全てできるようになるまでの間というほのかな希望があるが、衰えていくままの父を見ながらの生活は、希望はろうそくの炎のように儚いが、ここまで、ずっと一緒だったことがなかった、単身赴任の多かった警察官の父と初めて、本当に一緒にいて、話して、向き合ったことはなかったので、これは、何かしら意味がある気がしていた。一緒にいることの意味。あるのかないのかわからない、一緒にいることの意味。のようなもの。
苺ば、こうちゃれ。
父は、よだれを垂らしながら、車椅子の上で、何度も言う。
笑っているのか、怒っているのか、よく分からない、半分だけ固まったブルドックの口のようにとめどなく流れるよだれに、気づかないまま、何度も言うのだった。
苺ば買おうかね。
私は、つぶつぶの生きのいい苺を選ぼうと躍起になっていた。
そこに、ヘルメットをかぶった男が八百屋にやってきて、
東北の方で地震があった。
といった。
苺を買って、家に急いで戻ると、青黒い大きな津波が何度も何度も人や建物や木々を飲み込んでいく映像が流されていた。
原発も爆発し、放射能が漏れていると何度も言っている。
身内も東京にいた。
食料も、水も、電気も、滞っていた。
戦争のようだ。
と思った。
東京に姪っ子の世話をしに行っていた母にも電話がつながらなかったが、しばらくして、母とつながった。
なんとかなる。
母は、警察官であった父の仕事の関係で、外務省に出向になってイランにいるとき、イランにイラクが侵攻してきた戦争を体験しているのもあるが、破天荒な父と一緒にいたためもあってか、いざという時を、幾度もくぐり抜けてきたせいか、くそ度胸があったので、姪っ子もなんとか、なる気がしていた。
見える津波に飲み込まれた後の、見えない放射能との戦いのようになっていった。
車に乗り込み、一つだけこぼれ落ちた、洗ってもいない苺のヘタを持って、かぶりつきながら、そう思っていた。
つぶつぶが口の中で、波に混じった砂に混じった礫をかみ砕くようにして、苺を飲み込んだ。
母の上に、ヘタのように草冠が付いている。苺。母は草をかぶっていた。
苺のように、甘くはないが。
種がむき出しになって、鼻に毛穴の汚れのようにつぶつぶがあらわになっているように、毎日のように毒を吐きながら、他のものが出払った、私ししかいない家の中で呪詛のように、父のことを嘆いていたのだ。
草をかぶっている。母ではなくなった、草冠をかぶっている母のようで、母ではなくなったもの。
ロシアがウクライナを侵攻した。
という。フェイクニュースではない。事実である。
国連安保理で、ロシアがウクライナで生物兵器を作っていると言っている。炭疽菌、コレラ、コロナウイルスまで作っていると言っている。
テレビでは、一方的な侵攻で、証拠は出ていないと国連で、女性の口から言わせている。草をかぶっている。母ではない。甘くない苺のような、味のない、国連という甘い甘いケーキの一つのピースの甘くない苺がのっかった、テレビというショーウィンドウの中の甘くない一つのピース。
今度は、イランにまで飛び火させようと躍起である。国連のショウ劇場。
これが、戦争の一つのピースなのだ。
苺の味は、母ではないが、草をかぶったものの味。甘い甘い赤くて白い心臓の、ハートの形をした甘酸っぱい命のしゅる(汁)の味。
食べれない苺の味はない。味気ない。
ただただ、繰り言を繰り返すだけなのだ。
コロナウイルスを作っている。炭疽菌もこれらまでも。証拠はない。証拠はない。嘘だ。嘘だ。と。
口が虚しいものが、嘘なんだってさ。
食えない苺は、口が虚しいもんね。
食えない苺は、嘘なのだ。と。
11年前の11日に、半身不随だった父とも一緒に八百屋に立ち寄って、苺を手に入れたのを思いながら。
せがれたちに、苺ば、こうちゃれ。
父が、1日に1回は外に出ないと気が済まない人だったので、子育てをしながらの介護で、朝、昼、夜の質素なごはんを作り、洗濯、掃除だけでも、しんどいところに、追い打ちをかけるように、じいちゃんの介護が上乗せされ、しんどさは底無しの毎日であった。
じいちゃんをお風呂に入れるにも、服を脱がせ、こけないように風呂に連れていくだけでも、へとへとになり、体は手の届かないところはブラシを使って自分で洗うというので、自分でできるところは自分でするという父の気持ちもあったので、最初の頃は、背中を洗ったりしていたが、徐々に自分でできることを増やしていくことが、希望ではあった。
夜の間は、トイレに行くにも、眠っているのいを起こしてまで行くのは憚られるので、尿瓶にたっぷりと溜まったおしっこを、次の朝、処分して、洗って、消毒しての繰り返しであった。
生きるということは、これほど、手間がかかることだったのかと、子供ならば、自分で全てできるようになるまでの間というほのかな希望があるが、衰えていくままの父を見ながらの生活は、希望はろうそくの炎のように儚いが、ここまで、ずっと一緒だったことがなかった、単身赴任の多かった警察官の父と初めて、本当に一緒にいて、話して、向き合ったことはなかったので、これは、何かしら意味がある気がしていた。一緒にいることの意味。あるのかないのかわからない、一緒にいることの意味。のようなもの。
苺ば、こうちゃれ。
父は、よだれを垂らしながら、車椅子の上で、何度も言う。
笑っているのか、怒っているのか、よく分からない、半分だけ固まったブルドックの口のようにとめどなく流れるよだれに、気づかないまま、何度も言うのだった。
苺ば買おうかね。
私は、つぶつぶの生きのいい苺を選ぼうと躍起になっていた。
そこに、ヘルメットをかぶった男が八百屋にやってきて、
東北の方で地震があった。
といった。
苺を買って、家に急いで戻ると、青黒い大きな津波が何度も何度も人や建物や木々を飲み込んでいく映像が流されていた。
原発も爆発し、放射能が漏れていると何度も言っている。
身内も東京にいた。
食料も、水も、電気も、滞っていた。
戦争のようだ。
と思った。
東京に姪っ子の世話をしに行っていた母にも電話がつながらなかったが、しばらくして、母とつながった。
なんとかなる。
母は、警察官であった父の仕事の関係で、外務省に出向になってイランにいるとき、イランにイラクが侵攻してきた戦争を体験しているのもあるが、破天荒な父と一緒にいたためもあってか、いざという時を、幾度もくぐり抜けてきたせいか、くそ度胸があったので、姪っ子もなんとか、なる気がしていた。
見える津波に飲み込まれた後の、見えない放射能との戦いのようになっていった。
車に乗り込み、一つだけこぼれ落ちた、洗ってもいない苺のヘタを持って、かぶりつきながら、そう思っていた。
つぶつぶが口の中で、波に混じった砂に混じった礫をかみ砕くようにして、苺を飲み込んだ。
母の上に、ヘタのように草冠が付いている。苺。母は草をかぶっていた。
苺のように、甘くはないが。
種がむき出しになって、鼻に毛穴の汚れのようにつぶつぶがあらわになっているように、毎日のように毒を吐きながら、他のものが出払った、私ししかいない家の中で呪詛のように、父のことを嘆いていたのだ。
草をかぶっている。母ではなくなった、草冠をかぶっている母のようで、母ではなくなったもの。
ロシアがウクライナを侵攻した。
という。フェイクニュースではない。事実である。
国連安保理で、ロシアがウクライナで生物兵器を作っていると言っている。炭疽菌、コレラ、コロナウイルスまで作っていると言っている。
テレビでは、一方的な侵攻で、証拠は出ていないと国連で、女性の口から言わせている。草をかぶっている。母ではない。甘くない苺のような、味のない、国連という甘い甘いケーキの一つのピースの甘くない苺がのっかった、テレビというショーウィンドウの中の甘くない一つのピース。
今度は、イランにまで飛び火させようと躍起である。国連のショウ劇場。
これが、戦争の一つのピースなのだ。
苺の味は、母ではないが、草をかぶったものの味。甘い甘い赤くて白い心臓の、ハートの形をした甘酸っぱい命のしゅる(汁)の味。
食べれない苺の味はない。味気ない。
ただただ、繰り言を繰り返すだけなのだ。
コロナウイルスを作っている。炭疽菌もこれらまでも。証拠はない。証拠はない。嘘だ。嘘だ。と。
口が虚しいものが、嘘なんだってさ。
食えない苺は、口が虚しいもんね。
食えない苺は、嘘なのだ。と。