セルフドキュメンタリーについて色々と考えたのが昨日、今日のことであった。
昨日、S大学で映画「アヒルの子」を見てしまったからだ。
自分也に思うことがあり、書くことはかなりしんどいのだが、避けたり、ほっておくといよいよあやしくなりそうなので、とろとろとした無意識のようなものに抵触しながらも、それに向き合い、書いておきたいと思う。
監督は、思考というより行動し自分に深く浅く関わる人たちといままで思いながらも押し殺して来た自分の思いをぶつけ、その化学反応のようなものにフォーカシングしながら、自分を縛り続けているそこにたまった記憶とすさまじいまでに対峙する。
ある方に、モラルがないといわれたそうだ。
しかし、自分に照らし合わしても、この場合、モラルとはなにかをうたがうことさえできないまま、言ってはいけないの禁止、秘密を押し付けられたものたちの反撃をこそおもえ。とあえて言いたかったが、そこではその言葉が出なかった。
しかし、身体は違えど、魂のようなものがあるとするならば、そこいらでずるりと共鳴し、そのもののひとつ目か第三の目みたいなものと化した心持ちがした次第。
昨日、S大学で映画「アヒルの子」を見てしまったからだ。
自分也に思うことがあり、書くことはかなりしんどいのだが、避けたり、ほっておくといよいよあやしくなりそうなので、とろとろとした無意識のようなものに抵触しながらも、それに向き合い、書いておきたいと思う。
監督は、思考というより行動し自分に深く浅く関わる人たちといままで思いながらも押し殺して来た自分の思いをぶつけ、その化学反応のようなものにフォーカシングしながら、自分を縛り続けているそこにたまった記憶とすさまじいまでに対峙する。
ある方に、モラルがないといわれたそうだ。
しかし、自分に照らし合わしても、この場合、モラルとはなにかをうたがうことさえできないまま、言ってはいけないの禁止、秘密を押し付けられたものたちの反撃をこそおもえ。とあえて言いたかったが、そこではその言葉が出なかった。
しかし、身体は違えど、魂のようなものがあるとするならば、そこいらでずるりと共鳴し、そのもののひとつ目か第三の目みたいなものと化した心持ちがした次第。