明鏡   

鏡のごとく

おんなぎらい Mysogyny

2011-11-17 21:49:45 | 日記
上野千鶴子氏の講演会に行く。

氏によると、Mysogynyとは音の通り「三十路に」ではないそうで、「おんなぎらい」という意味があるらしい。

Mysogynyの定義:男が男である(になる)為に(劣等な)女でないことを証明する為の(女を他者化する)機制。

社会とは男性紐帯 male bondで、男が男に認められてなんぼの世界であるという。

では、女は。といえば、男に選ばれることによって女になるという(←これはとりあえず保留しておくべき仮(定)説ではあるが)。


Mysogynyを回避する女の戦略として、成り上がり戦略「私は別」例外戦略(なでしこじゃぱん的な自己実現的なもの)と成り下がり戦略(わたしはすでにそういう対象ではないのでねというフェードアウト的あるいはおばちゃん的強みみたいなもの)。
「味わったことがないわ」否認戦略。
「こだわったことがないわ」スルー戦略。
「関係ないわ」退避戦略。
等を上げていたが、おりてもおりてもおりられないのがMysogynyであるという(男にもおりてもおりてもおりられないものはなきにしもあらずであろうが)。

興味深かったのが、究極の支配とは「殺人」で、なかでも夫婦とは自分を殺す確率の一番高い関係性というお話。

我が家はこどもちゅうしんでふたりでいたより(古本屋巡りとか散歩とかのんびりやっていまもそうではあるが)ずいぶんやることが増えて変化に富み楽しみも苦みもちょこちょこと入り込んで来たが、夫とも男女格差?のようなものをそれほど感じない、なんでも思ったらいいあえる遠慮のあるようなないような友人的関係(上野仮説?では「関係ないわ」か「こだわったことないわ」か「味わったことないわ」の範疇?)であると思っているので、ちょっとその(究極の支配とやらの)範疇には入れないなと思いつつ、でんじゃらすなかんけいと言われると、まあ(別の意味でそれぞれ突拍子もない?というところで)仮にそうだとしても(我が実家はさておき)寝首をかかれる心配のない関係を築くには、それぞれしっかり生きるしかないとはつくづく思う次第であった。


しかし、うえのせんせ。

九州の男のイメージってそんなに上からなのですか(確かに我が父親は究極の寝首かかれそうな人ではありますが)。
予め募集していた質問・相談?された方々の話においては、確かにその傾向はありましたが。
いわゆる女を買ったと自慢にもならないことを自慢するという馬鹿くさいせくはら男がいて困ってますという相談に、そいつの耳元でゆっくりと確実に言葉で殺せ!という話には大いに共感(笑)しましたが、それは九州限定でもなく、世界的な一部の男の現象?なのかなと。

今時でもない我が夫も、昔からのじっくり話しのできる男性の友人知人も、それほどでもないので、ぴんときませんでしただ。

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