毎日が無事に過ごすことの幸福感
私たちの青年時代は、毎日の生活に変化を求め、何もない退屈な日々
を不満に思う傾向がある。そして、病気や大怪我などについては殆ど
意識することはなく、毎日のように刺激を求め行動していた。
当然に健康については、なかには家族の健康状態に影響されることも
あるが、殆どは健康であることの尊さを実感することはない。そして
健康が損なわれて初めて失うことの大きさを知らされる。
人間は「単調」「平凡」「無変化」と云うことを嫌いがちである。し
かし、好奇心や感受性の感度を高くしていれば、なにもない日常でも
充実感はあるものである。
私の現在の日常の生活を考えると、社会に対する生産性や貢献度は
些細なものかもしれないが幸福感はある。つまり、日々の中で楽し
かったり、嬉しいことが幸せではなく、日常の生活の中に幸せがあ
るのだと思う。
私は毎朝「神棚」に手を合わせ、「家族が今日も何事もなく一日を
無事に過ごせますように」とお願いしている。そして一日が無事で
終わることこそ幸せの実感であり、感謝の気持ちが生まれるのだと
思っている。