はじめまして。2018年春、川崎で小学生むけ[こくご]を中心とした塾を創業予定のamimです。思考・発表・文章にする・を柱に、ディベート・俳句アクティブラーニング・ビブリオ・ロールプレイングなどを取り込んだ授業をします。ブログは毎日更新しています。感じたこと、体験したことを文章にすることは「こくご」です。
「こくご食堂」本日調理する食材は[生きる]
1月20日土曜日、日本テレビ午後2時30分「記憶の澱」という番組を見ました。この日は、午前中に英語の集団授業の最終日で、生徒との別れがあり、帰宅してテレビをつけたら、偶然やっていました。
満州に開拓団としてわった方々が、敗戦後、満州国の人々からの略奪から守ってもらうために、ロシア兵たちに女性たちを差しだし、食料と安全を手にいれるということが行われていました。彼女達は「特殊夫人」と呼ばれる女性で未婚の18歳以上の女性たちでした。隣の開拓団では、全員自決という決断をした地域でした。しかし、この開拓団では、生きるという選択をしました。そして、結婚していない女性が選ばれます。その一人の方は、両親が死んでいて妹と弟を助けるために必死でした。妹が17歳だったため、開拓団のリーダーに
「この女性は18歳以上の女性にしてください。」
と嘆願したそうです。彼女達の中には性病にかかり死亡するものもいまいた。そして、彼女も、一度妹さんの前で半狂乱になり、一緒に死のうと刃物を持ち出したことがあるそうです。この「特殊夫人」のことは、秘密にされ、誰も口にしませんでした。表向きは。ある時この女性は、この開拓団の男性に
「減るもんじゃない。」
という言葉を言われたそうです。この女性は数年前に亡くなられましたが、妹さんに
「このことは、いつか伝えてほしい。」
と言っていたそうです。なげかけられた言葉は、とてもつらかったそうです。満州での出来事を世の中にしらせてほしい、というお姉さんの最後の願いだったそうです。
私がこの番組を見たのは途中からで、丁度男性がマイクを持って話をしている時でした。その方は中国の戦地にいるときは、中国の女性を強姦しており、それが悪いこととは感じていなかった。しかし、自分たちの目の前で他国の兵士が、自国の情勢を強姦しているのを目撃して助けることもできず、その兵士に煮えたぎる怒りを感じたそうです。自分達がしてきたことはすっかりわすれている。とお話されていました。
日本では、広島・長崎の原爆の話は昔からしていました。そして、原子爆弾投下についてアメリカでは学校で教えられていないといって、かなりショックを受けたことがありまいた。しかし、日本でも戦争で自国がしてきた負の部分を隠してきました。この番組で、他国でのことをお話されて兵士の方はとても勇気がいることだったと思います。みなさん御高齢です。80歳以上の方がほとんどです。この長い間、胸に閉まっておきましたが、その重みに耐えられなくなったのかもしれません。戦争を知らない人々のほうが圧倒的になったいま、私達は知る必要があるとおもいました。その方々を非難するということでなく、ただ、事実として。
この番組をみて、「生きる」ことの厳しさを改めて考えさせられました。満州開拓団の二つの選択。誰も被害者を出さないために、絶望のため「自決」するとう選択。開拓団の大勢の人を助け「生きぬく」ために、人柱となった女性達。
「特殊夫人」の中で御存命の方のインタビューがありました。その女性は、満州国の方々を恨んではいない。満州国の方々は、もともと自分達の土地であったところに、私達日本人が踏み込んでいって略奪したのだから、襲ってこられても仕方ない。この言葉がとても胸にしみました。
戦争が終わり日本に引き揚げてきてから、この開拓団は地域ごとに編成されていたので生まれ故郷に帰って方、また誰も知らない街にうつりすんだかたもいます。「特殊夫人」であったとこを、子供や孫たちにしられたくないということからです。それでも、時々「特殊夫人」であったかたと手紙の交換があったそうです。
「何があっても、頑張って生きよう。」
彼女達は遠くに住んでいても、お互いの心を支えあっていたそうです。
「生きる」とは自発的なのか?受け身なのか?「生きている」のか、「生かされている」のか。深く考えていました。この1週間。やっと文字にすることができました。できれば、「生きている」と、胸を張って言えるといいなと思いました。
「こくご食堂」本日調理する食材は[生きる]
1月20日土曜日、日本テレビ午後2時30分「記憶の澱」という番組を見ました。この日は、午前中に英語の集団授業の最終日で、生徒との別れがあり、帰宅してテレビをつけたら、偶然やっていました。
満州に開拓団としてわった方々が、敗戦後、満州国の人々からの略奪から守ってもらうために、ロシア兵たちに女性たちを差しだし、食料と安全を手にいれるということが行われていました。彼女達は「特殊夫人」と呼ばれる女性で未婚の18歳以上の女性たちでした。隣の開拓団では、全員自決という決断をした地域でした。しかし、この開拓団では、生きるという選択をしました。そして、結婚していない女性が選ばれます。その一人の方は、両親が死んでいて妹と弟を助けるために必死でした。妹が17歳だったため、開拓団のリーダーに
「この女性は18歳以上の女性にしてください。」
と嘆願したそうです。彼女達の中には性病にかかり死亡するものもいまいた。そして、彼女も、一度妹さんの前で半狂乱になり、一緒に死のうと刃物を持ち出したことがあるそうです。この「特殊夫人」のことは、秘密にされ、誰も口にしませんでした。表向きは。ある時この女性は、この開拓団の男性に
「減るもんじゃない。」
という言葉を言われたそうです。この女性は数年前に亡くなられましたが、妹さんに
「このことは、いつか伝えてほしい。」
と言っていたそうです。なげかけられた言葉は、とてもつらかったそうです。満州での出来事を世の中にしらせてほしい、というお姉さんの最後の願いだったそうです。
私がこの番組を見たのは途中からで、丁度男性がマイクを持って話をしている時でした。その方は中国の戦地にいるときは、中国の女性を強姦しており、それが悪いこととは感じていなかった。しかし、自分たちの目の前で他国の兵士が、自国の情勢を強姦しているのを目撃して助けることもできず、その兵士に煮えたぎる怒りを感じたそうです。自分達がしてきたことはすっかりわすれている。とお話されていました。
日本では、広島・長崎の原爆の話は昔からしていました。そして、原子爆弾投下についてアメリカでは学校で教えられていないといって、かなりショックを受けたことがありまいた。しかし、日本でも戦争で自国がしてきた負の部分を隠してきました。この番組で、他国でのことをお話されて兵士の方はとても勇気がいることだったと思います。みなさん御高齢です。80歳以上の方がほとんどです。この長い間、胸に閉まっておきましたが、その重みに耐えられなくなったのかもしれません。戦争を知らない人々のほうが圧倒的になったいま、私達は知る必要があるとおもいました。その方々を非難するということでなく、ただ、事実として。
この番組をみて、「生きる」ことの厳しさを改めて考えさせられました。満州開拓団の二つの選択。誰も被害者を出さないために、絶望のため「自決」するとう選択。開拓団の大勢の人を助け「生きぬく」ために、人柱となった女性達。
「特殊夫人」の中で御存命の方のインタビューがありました。その女性は、満州国の方々を恨んではいない。満州国の方々は、もともと自分達の土地であったところに、私達日本人が踏み込んでいって略奪したのだから、襲ってこられても仕方ない。この言葉がとても胸にしみました。
戦争が終わり日本に引き揚げてきてから、この開拓団は地域ごとに編成されていたので生まれ故郷に帰って方、また誰も知らない街にうつりすんだかたもいます。「特殊夫人」であったとこを、子供や孫たちにしられたくないということからです。それでも、時々「特殊夫人」であったかたと手紙の交換があったそうです。
「何があっても、頑張って生きよう。」
彼女達は遠くに住んでいても、お互いの心を支えあっていたそうです。
「生きる」とは自発的なのか?受け身なのか?「生きている」のか、「生かされている」のか。深く考えていました。この1週間。やっと文字にすることができました。できれば、「生きている」と、胸を張って言えるといいなと思いました。