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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(32」

2020-07-15 09:30:09 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(32」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/142(2020/7/13/月】カミサンは今週末から母(小生にとっては義母)の三回忌で奄美大島に帰郷する予定だったが、コロナ禍が終息していないので中止になった。

大島と言っても半日もあればのんびりドライブできる小さな島で、人口はわずか4万人強しかない。ちょっと歩けば同級生などに出会うという、一種の閉塞された町村である。面識がない人でも知人の知人あたりで共通項がめでたく見つかる世界だ。

風俗嬢にでもなれば一日で島中の話題になり、2日目には周辺の小島でも話題になる。だから風俗嬢はすべて本土からのワケアリ移民、出稼ぎだ。そういう島。

現在の島での最大の話題はコロナである。感染した島民は数人ととても少ないが、いずれも遊漁船、飲食店関係者で、本土から来島した客から移されたとか。

そうなると最低でも2週間は商売できない。風評被害で1か月、2か月は開店休業もあり得る。

島民は高齢者がとても多いためもあって50%ほどが生活保護を受けており、義妹に「島の景気はどーよ?」と聞くと、「景気がいいという体験をしたことがないから・・・ずーっと今のまま」。名産の大島紬がほぼ壊滅し、それに代わるこれという産業もなく、国の支援による公共事業でまあまあ暮らしている感じだ。

そういう暮らしにあってコロナ禍で休業を強いられたら、元々少ない預貯金はたちまち底を打つ。だから感染を恐れて近所の人でも寄ってこないだろう、まるで村八分状態ではないか。

へたをすれば村や街自体が忌避されかねない。島での暮らしはもともとが人間関係が濃厚でウェットだから、若者は息苦しさと就職難から外に出たがり、結局、濃厚度は高まるばかりかも知れない。孤立しては生きていけないのだ。

(若者が出て行ってしまうから親は否応なく生活保護に依存せざるを得ないというカタチ。これが完全に根付いており、誰も疑問に思わない。思っても口に出せない)

孤立を招く感染を恐れる、菌を持ち込むのではないかと本土からの人を恐れる、法事でも万一感染となれば大変な人災になる・・・かくして土建会社の二代目である義弟は法事の中止を決断したわけだ。従業員や現場の他社の人たち、元請け、施主のことを考えればやむを得ない措置だ。

日本中、特に過疎地では、感染者が少なくてもコロナを恐れる気持ちは都市部の匿名社会とは比較にならないほど大きい。小生らができるのは“渡航自粛”ぐらいしかないが、それは観光産業を破壊することでもある。せめて政府の手厚い支援を願いたい。

なんとも二進も三進もいかないどん詰まりのようで、まるで膠着状態の戦争みたいだ。「進んで灯りをつけませう」・・・こんな話はどうだろう。

昨日、多摩川を渡った調布市でピカピカの「日活調布撮影所」を発見した。近くには古びた巨大な建物が2棟ほどあったが、これがスタジオ、つまり汗と涙の戦場で、ピカピカは表玄関、管理棟のようである。

<約4万5000平方メートルの敷地内に5つのスタジオと、編集室、スタッフルーム棟、大道具・小道具関連の建物が所狭しと建っており、かつて東洋一と謳われたスタジオの面影は薄れているが、現在でも膨大な数の映画・テレビドラマ・CMがこの地で作られている。

2012年には日活100周年に合わせてスタジオ全体の大幅な改修工事を完工し、慢性的な問題であった駐車スペースの拡充やスタッフルームの増設・食堂のリニューアルが行われた>(WIKI)

小生の世代だと、日活と言えば1971年からの「ロマンポルノ」であるが、社会人になりかけていたからあまり見ていない。大体、あれは見るものではなく、するものだ。

学生時代は高倉健、鶴田浩二、藤純子らの「昭和残侠伝」(東映)はそこそこ見た。大体、あれは見るもので、するものじゃない。その認識がなかったから転んで怪我したが、怪我の功名もなかったわけじゃないけれど・・・まあ、複雑な思いはするね。

映画好きの友は毎日のように映画館巡りをしていたが、面白かった、感動した、以外に得るものがあったのかどうか。勉強になった、人生が変わったとか、あるのだろうか。

小生が人生で一番影響を受けた映画は「アルジェの戦い」。1970年前後に見て「俺は革命のために無差別テロができるのか」とぞっとし、肌が粟立った。いくら大義があろうとも小生にはそれはできない。

しかし、除染の機会がなく、洗脳され続ければ、やがてオウムのように、日本赤軍のように実行したかもしれない。

暴走しかねない小生に友は何も言わなかったが「この本を読んでごらん」と共産主義の圧政に殺された人々の多くの物語を差し入れてくれた。義兄は殴りかからんばかりに強く諫めてくれた、「党の命令ならお前は親でも殺すのか!」と。

振り返れば多くの善意によって俺は生かされてきたのだと思う。愛してくれている人、心配してくれている人がいたから今の自分がある。有り難いなあと思う。何だかウルウルしてきた。除染が効いてきたのか。

今日はどうもチャラケタ話にはならなかったが、いよいよ昇天の前触れか。大岡昇平がジャングルの中でポツンと現れた少年のような米兵を撃たなかった、撃てなかった気持ちが少し分かってきた。(2020/7/13)







雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(31」

2020-07-14 08:03:37 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(31」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/141(2020/7/11/土】周囲から怪しまれないように、ちゃんとした作業着を着ようかな、専修大学の先に専門店が確かあったから行ってみよう・・・

この安直な思いが小生の体と脳みそに強烈なムチを与えることになるとは全くの想定外。一寸先は闇とはよく言ったものだ。この作業服店には自転車ではまず行けないのだ! 知らぬが仏、後の祭りのような冒険譚を一席。

我が家から車なら川崎街道(府中県道)へ出て、小田急線をまたぐ跨線橋を渡り、世田谷道りに出るのが最短だが、自転車だとそもそも跨線橋には歩道がないのだから立往生。グチャグチャに曲がりくねった細い「永遠の仮設」的下道を行くか、遠回りするしかない。

「どうなっているんだ、如何にせん」と茫然としていたらタクシーが来て、慌ててバックしていった。下道はプロでも分からないほどの迷路なのだ。一帯は再開発で旧道は消えて臨時の迂回路などができるので、たまに来ると大いに困惑する。

どうにか難関を突破したが、多摩丘陵を越えなければならない。自転車を押しながら緩やかな坂を上って行ったが、勾配が少しずつきつくなる。休み休み上るが、ヒーヒー、ハーハー、汗びっしょり。

やがて坂道の両側は専修大学生田校舎群(生田キャンパス)になり、今は部室になっている古い建物や、解体を待つような閉鎖された建物、栄耀栄華の昔を忍ばせる重厚な建物まであり、まるで城塞都市みたい。住所表示は「桝形」で、近くには戦国時代の山城「桝形城址」もある。

道路はうっそうとした木々に覆われ、小雨は降り出す、土曜なので学生の姿もない、カーブを曲がっても曲がっても頂上が見えない、今さら帰るに帰れない、結構心細くなる・・・と、ピカピカのまるで建築デザイナーの作品ような建物が現れた。周囲を睥睨し、本丸、天守閣のよう。ようやくここが頂上だ。

駅から遠く、上り下りの激しいキャンパス、学生は若いから苦にしないのか。ネットではこんな声が。

<駅から徒歩15~20分はかかるので便利とは言えない。駅周辺にはスーパーやご飯屋さんもあるので、一人暮らしの人は生活も困らないし、遊ぶところがありすぎないので勉強もはかどる>

<東京都の神田キャンパスは法学部のみで、それ以外の文系学部や理系は神奈川県の生田キャンパスにあります。神田というと、中央線などが走っていて、新宿や御茶ノ水などにも程近い位置という印象で、かなり都会という感じがすると思います。

逆に生田キャンパスは神奈川県民でもなかなかこの地域に行くことが少ない(僻地)と思います。専修大学を目指している方は、この生田キャンパスで学ぶ可能性が高いということは覚えておきましょう。

生田キャンパスは駅から結構離れているので、ちょっと不便かもしれません>

周囲は山また山の僻地と言えば僻地。歩きを含めて新宿まで1時間はかかるアクセスの悪さは勉強するにはいい環境かも知れないが、社会勉強(バイト、遊び、飲む打つ買う、人間観察)ではどうなんだろう。

若者にとってアクセスは「便利とは言えない」「ちょっと不便」だが、ヂヂイにとっては山裾から頂上まで片道30分はかかり、難行苦行だ。わしゃ、もうアキマヘン。

専修大学が箱根駅伝の常連校であるのは納得した。否応なしに脚力は鍛えられる。因みに開校に際しては福翁も協力したそうだ(だから悪口は言いません)。

頂上から下ると浄水場、その先には作業服店があるはずだが、小生はもうヘロヘロ、ギブアップ。新築マンションだらけの浄水場通りを勢いよく下って絶叫マシンの爽快感を楽しみ無事帰還した。

毎日面白おかしく過ごしていると、この世への未練が増すようで何となく不安ではあるね。未練たらたら、執着とか。「それが自然」と言われればそうだけれど・・・

両親と義母は眠るように死んだが、その少し前までそれなりに意識ははっきりして苦しみもなかったから、まあ大往生だろう。「じゃりン子チエ」のテツそっくりの義父は60歳ほどだったから「理不尽だ!」と暴れたそうだが・・・

最期まで理性をもっていたいから(モルヒネなどによる)安楽死は嫌だ、苦しみに耐える、という人もいるけれど、看取りの人はかなり辛いのではないか。

落ち着きと平常心で「死を受け入れる」・・・言葉は美しいけれどとても難しそうだが、「立派な自裁」は今の時代では「介錯」制度がないので超難関だ。

西郷先生、松陰先生のような無私、潔さ、美しさ・・・強烈な意志がないとできるものではない。三島由紀夫、森田必勝、三浦重周・・・西部邁は介錯させれば同志が刑務所行きになるから入水を選んだのだろうが、ちょっと気の毒だ。

小生にできるのはせいぜい諦観、最期は封印解除で飲みまくり、急性アルコール中毒で逝く、というのは魅力的かつ現実的だ。どじって緊急措置入院、精神科急性期閉鎖病棟に再びぶち込まれ、ナースやカウンセラーから「あら、出戻り」なんて白い眼で観られたり。太宰曰く「悪い予感はよく当たる」。

「日本と中国の死生観における相違点について」(教えて!goo)から。

<中国の死生観の伝統的な特徴は、大家族制度と祖先崇拝によります。古代からのもので、儒教はこれらを肯定しますが、中華人民共和国になり、儒教は否定されました。

しかし、大家族制(宗族)と大結社制、そして祖先崇拝は相変わらず中共にあります。どこどこ県の「李」であるとか、何何省の「張」というように、祖先を同じくする共通の一族だという考えです。

家族連累は100万人とか300万人とか、途轍もない話になり、しかも、それらが互いに家族の連絡組織などを持っています。

派閥制度も、大家族制度と並んで全国的に巨大なものがあり、「裏の社会」は、日本など比較にならない、複雑で巨大な結社が競合しています。大結社や大家族の後ろ盾を持つ者が、政治、経済の指導者になったりします。

中国文化は元々現世的・現実的で、「あの世」とかを考えませんでした。不老長寿の仙人という考えはありましたが、仙人は「不死」ではありません。

人が死ぬと、祖先崇拝から「祖先の霊(祖霊)」に報告したり、捧げものをしますが、祖霊は曖昧で、いてもいなくてもどちらでも良いという考えのようにも思えます。

中国では、人は孤独では生きられないため、大家族または大結社の後ろ盾で世に出ます。現世的成功をおさめるのにコネを使うのが中国の伝統です。

「死生観」は、現代の若者だと中国も日本もあまり変わりがないように思えますが、中国では事実上、宗教禁止、無神論の唯物主義です。(その代わりに)先祖崇拝、家族結社があるのです。

「死」は、中国人には「無」でしょう。しかし、名を残し、子孫を残し、祖先崇拝と記憶のなかで「誉れある者たらん」というのが死後のヴィジョンでしょう。

なにごとか現世で大きなことをするに「死」を恐れないという気風がまだ現代にも残っていると思います。

日本人にとって「死」は今や「無」になって来たのですが、年長者は「生命の更新」という意味の死後の転生を無意識的に望み、祖霊となって子孫を見守ろうという考えが、心のどこかにあると思えます。

中国は元々、非宗教的、現世的で、仏教や道教は「この世でいかに生きるかを教える宗教」になったとも言えるでしょう。伝統的な中国人の理想の生死は、「子孫が多く、富み栄え、長寿で、病がない」ということです。死後の世界については「あるなしを語らず」です。

日本は、流転する自然の四季における更新される自然・生命という原始的な信仰がありました。これに仏教、道教などが重なると、輪廻転生とか、あの世とか、極楽地獄の思想になります。中国にもそういう思想は芽生えましたが、日本の方がずっと強度があり、影響力が大きかったのです。

中国で仏教として残ったのは、禅のような現世思弁的なものか、この世をいかに生きるかの世俗的倫理的な教えです。閻魔などは信じていなかったと思います。

日本と中国は祖先崇拝は同じでも、中国は「現世利益のための結社の軸としての祖先崇拝」であり、日本では「現世の利害を超えた、自然で、やすらかな、漠然とした祖先崇拝」です。

中国人は心の奥底で、死後の生を「考えていない」。日本人は心の奥底で、死後の生を「信じている」。中国人は未来を切り開こうとし、日本人は生きるのに疲れて惰性で生きている、というのが現状でしょう>(以上、要約)

なるほどね。最後の一節は「?」だが、よく分かりました。中国人の強烈な現世利益志向、日本人の柔和な欣求浄土志向――

日清戦争で従軍記者として戦場にいた岡本綺堂は、「昨日敗退した清兵2人が今日から我が班の雑役夫として雇われた。親身になってよく働いてくれ、曽我兄弟に因んで五郎、十郎と名付けられ、皆からとても愛された」と書いていた。

小生は「どうなってるんだ」を思っていたが、清兵の多くは無理やり拉致された若者で、ほとんど奴隷。清軍への忠誠や、日本軍への敵意があるはずもなく、雑用して稼げるのなら日本軍に従軍しようというわけだ。

現世利益志向とは「儲かればすべて良し、実利が大事」ということである。日本軍は「立派に死ねば名誉と天国がある、命惜しむな、名こそ惜しめ」、突撃も辞さない。どちらが勝つか、明白だ。

支那事変でも多くの庶民は日本軍が来ると匪賊盗賊が逃げ出し治安が良くなるので歓迎した。毛沢東も「日本が蒋介石・国民党軍を叩いてくれたので勝てました」と感謝した。

習近平の中共軍も督戦隊がなければさっさと逃げる「張り子の虎」だろう。4000年の遺伝子が変わるわけはない。同盟国と連帯し中共を潰せば13億の人民から「厭離穢土」と感謝されるだろう。(2020/7/11)



雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(30」

2020-07-12 08:21:35 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(30」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/140(2020/7/10/金】わが街界隈でデパートと言えるのはマルイ(神奈川県・溝の口)と高島屋(東京都・二子玉川)しかない。ちょっとセレブの買い物、例えばお祝いの品を買うとなれば、どうしても高島屋の包装紙でないとダメなのだ、女どもは。


「バラの包みの高島屋」、中身はさておき、この包みに大なる価値があるわけ。ファッション、装いなわけね。


男は「中身が肝心だよ、中身が!」と外装を震える手でとっぱらって、とにかく手を出す、両手を合わせて拝んだら、いっただっきまーす、さっさと食べちゃう、邪魔が入らないうちに。


外装なんて枝葉末節、美味ければいい、実質重視、デパートだろうが場末の店だろうが屋台だろうが、美味しければ出自を問わない、安ければなおいい、たまにビョーキをもらったって「ナマは足が速いから、道端で売ってるのは気をつけた方がいいなあ、まあ、勉強にはなった・・・明日は朝一で病院だな、チッ!」でオシマイ。


先日、ちらちら小雨が降ったりやんだりの中、多摩川土手を下り、二子橋(ふたこ、道路)と二子橋梁(東急電車)が並んでいるところまで行った。対岸は高島屋やショッピングセンターなど高層ビルが5棟ほど林立する二子玉川、通称ニコタマ。神奈川県側のこちらは二子新地。


今は川を挟んでいるが、この二つの街は昔は一つだったのだろう。橋は昔からの大山街道(今は並行して国道246がある)に続いており、江戸と大山を結んでいる。川崎国道事務所によると――


<大山街道の起点は赤坂御門とする説が有力とされ、現在はその石垣を残すのみとなりましたが、江戸時代の大山詣りには欠かせない重要な出発地点でした。


赤坂御門を出発して青山を過ぎると、渋谷の宮益坂に差し掛かります。往時の宮益坂は富士見坂と呼ばれ、その名のとおり富士山を眺めることができました。頂上付近の見晴らしのよいところには、牛や馬をつなぎ、一休みできる「立場茶屋」があったとされています。


宮益坂、そして道玄坂を過ぎると、江戸から厚木までの四十八坂のうちでも大きな坂であった「大坂」があります。


渋谷・三軒茶屋・用賀をへて、多摩川の「二子の渡し」(冬は「仮橋」)を渡ります。幕府が江戸攻略を恐れて架設許可をしなかったため、渡し場が設けられていました。


渡しを渡って少しばかり行くと「溝口・二子宿」に。街道沿いには多くの商店が軒を連ねています。二子名主大貫家や溝口の問屋丸屋など、上方から「下り荷」と共に、伊豆の乾魚、椎茸、駿河の茶、真綿、秦野の煙草が集積され、出荷調整が行われている「物流センター」としての役割をはたしていました。


この他、需要に応じて街道沿いの村々から、炭や薪、生鮮食品や醤油、油等が大山街道を上り、多摩川を下って江戸へ送られました>


天皇様のおられる京都が「上」だから江戸へ向かうのは「下り」。一流のいいものは京都あたりから将軍のいる江戸に「下って」来るが、そうでないものは「下って」来ない。「下らない」の語源だそうだ。


閑話休題。上記の二子名主「大貫家」は豪商。爆発したタローの母上、ロシア革命に洗脳されて「一夫一婦制なんて許さない!」という翔んでるトンデモ女、岡本かの子の実家だ。近くには死ぬまで「俺の父親は誰だろう」と苦悩したタロー作「岡本かの子文学碑」がある。


我が父は近衛兵になるまでは実家の農業を手伝っていたが、名産「多摩川桃」の出荷時期(7、8月が最盛期)になると大八車に桃の箱(12個入り)をどっさり乗せて二子橋を渡り、瀬田、用賀まで(等々力渓谷から武蔵野台地への)結構急な坂を上るのだが、「そこが一番の難所だった」と言っていた。それを越えたあたりに集荷所があったのかもしれない。


(瀬田の坂上には大平正芳総理の私邸があり、急逝した際は弔問者や記者でごったがえしていた)


大山街道は今は国道246に交通大動脈の役割を譲ったが、歴史ある旧街道だけに立派な寺や老舗の風情は残っており、ちょっとした旅行気分を味わえる。道、両側の建物、人が馴染んでおり、いつもは密集地を嫌う小生の心が和やかに落ち着いていたのは不思議だった。


荷風は玉の井など怪しげな陋巷が大好きだったが、再開発できれいさっぱり消えてしまう前に大山街道周辺を探ってみよう。


街はよそ行き風の包装紙で包んだ「表通り」、一歩入った生活臭漂う「裏通り」、さらにちょっと怪しげな「陋巷」があってこそ風情があるのではないか。


清潔で美しく整然とした美と機能一点張りの街・・・確かにシャンゼリゼは美しかったが、小生は裏通りが好きだった。カメラが趣味の先輩は何気ない裏通りに「ああ、パリだなあ、いいなあという発見、感動があるんだ」と言っていたから、その影響もあるだろう。


(先輩も表裏があり、裏ではホテルオークラの従業員を殴り飛ばした事件が本社にばれてクビになった。裏の顔は時に怪しい)


都内なら小生は新宿がいいなあ。


新宿には残念ながら「おしゃれと清潔」は表通りでも全くない。そもそも品性なんて皆無だ。


カネ、汗、精液、涙、血、薬、欲望、愛、恋、性欲、食欲、ゴミ、汚物、人種、犯罪、野性、喜怒哀楽、そして小さな花とわずかな知性がトッピングされた異次元的な裏通り。そして怪しく危険に満ちた陋巷。


現代によみがえる「ソドムとゴモラ」、世界遺産級である。


新宿駅西口の怪しい解放区の暇人を眺め、汚物の臭いの小便横丁を抜け、紀伊国屋で書籍を物色し、裏通りのエスニック臭に満ち溢れた料理店街を逃れ、コマ劇場からこの世の天国と地獄、美醜、LGBT何でもありの歌舞伎町、さらに花園神社、旧赤線地帯の花園通りまで、テレテレ散策すればあっという間の3時間、眩暈するほどのオツムと体をドトールのアイスコーヒーで癒していく・・・


「ああ、世界のSHINJUKU、リトルポンド・リリーの城下町よ、お前の醜悪が俺の心と脳みそをガラガラポン。俺の五感は刺激に酔い、嘔吐し、疲れ果て、そのダメージが俺を止揚する。大嫌いなのに離れられない、ときどき無性に会いたい、リリー女王様、もっともっと強く、イスラム風のムチを・・・」


自虐的なマゾか。


新宿は道徳で抑えられていた人間の本能、本性をとことん(疑似的に)解放するテーマパーク「Tokyo Barbarian Resort & Spa」として世界にアピールすべきだな。1泊2日ダイヤモンドチケット50万円でも世界中から禁欲を強いられてきた善男善女が押し寄せるだろう。


総合監督はもちろん中共帰りの巨匠・蒼井空センセイ、広報宣伝部長はエジプト帰りのリリー様。わしゃソープの下足番だな。ま、3密規制が解除されてからの話だが。


トコトン汚いとか、身の毛もよだつ怖いもの見たさ、というのも一種の嗜好か。無礼講、お祭りは皆好きだろう。ヒステリー、失神も許容範囲。心神耗弱、心神喪失による悪事は「責任を問われない」だけに最悪の蛮行だが、それ以外の不道徳はええじゃないか、ええじゃないか、の世界。


破壊本能とかサドマゾ嗜好は結構、多くの人が持っているのではないか。上品な奥様が「イライラしてどうにも我慢ができなくなると、庭でビール瓶を思いっきり割るの、すっきりするわ」と言っていた。


運命(destiny)、本能(instinct)、遺伝子(gene)――智慧とか理性でコントロールできない部分は結構あるのじゃないか。「考える葦」たらんとしても、


「つい出来心で」「ムラムラして」「成り行きで」「ノーと言える雰囲気じゃなかった」「今さら引き返せない」「もう運命」。ひどいのになると「何となく」「できちゃったし」「あざなえる縄ということで」。軽佻浮薄、小生みたいな奴だな。


「人生は賭けだよ、賭け! 熟慮断行してしくじった奴、石橋を叩き壊しちゃった奴、いっぱいいるよ、狂の一字で吶喊するしかないという場面もあるし」と居直ったり。単純短絡、これも小生みたいな奴だ。


前を向いてしっかり歩くのもいいが、ちょいと横丁に入ったり裏道を探ったりというのも楽しい。荷風はそれで名を成したのだから、大したものだ。


大体、人生は子育てが終わればゴールで、公式ゲームは終わり。その後の余生は迷惑をあまりかけないよう散歩するとか、少年に帰って戦争ごっこ(シミュレーション)するとかがお勧めだな。


米国では火付け、強盗、器物損壊、射殺事件が急上昇、蛮行のパンデミック状態。殺人は日常茶飯事だから「政治的利用価値なし」の殺しはニュースにもならないという、ほとんど無法地帯、ジャングルだ。下劣。


現役世代が仕事もせず就活もせずにアカに踊らされて暴れ放題の革命ごっこ。政治・政策により教育や就職で優遇措置をとったところでロバはロバ、馬にはならない、民度は向上しない、と多くの人は理解したのではないか。


米国も世界もこれからはマイノリティに優遇措置をとったり、生活保護をばらまくことは控えるだろう。ブラックパンサーは言っていたものだ、「黒人はどんどん子供をつくれ、ピッグ(白人)が育てる」と。


ポストコロナの世界は、「忍耐、寛容、互助、平等、博愛」といった戦後民主主義のバラ色の包装紙はなくなり、「自由、民主、人権、法治」+「自己責任」の初期設定に戻るだろう。そもそも経済成長はおぼつかないから「ない袖は振れない」。


平時から戦時へ、という時代に「バラマキ福祉? 努力もせず、それどころか足を引っ張っていながらよー言うわ」と普通の人は思うのではないか。ケネディのスピーチライターは「国家が何をしてくれるかではなく、国家のために何ができるかを考えよ」と国民の奮起を促した。米国と世界、特にEUが正気を取り戻すことを期待したい。


なんか偉そうなことを書いてしまい、恥ずかしい気分。病膏肓、ついに産経脳か。キチ〇イの妄想と嗤って許してくらさい。(2020/7/10)











雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(29」

2020-07-09 10:27:33 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(29」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/140(2020/7/9/木】日本は基本的に単一民族だ。日本人=日本民族=日本人種で、これは世界でも珍しい部類だろう。


日本人のご先祖様を辿れば「源平藤橘」とかになる(?)そうだが、それ以前の石器時代、縄文弥生時代でも単一民族の「委人」である。支那が名付けた「小柄な人、チビ」という意味だ。それ以前は「東夷、東の蛮族」で、やがて「奴らは人間らしい」からと人偏をつけて「倭人」になったようで。


ちなみに現在の日本を罵倒する「小日本」は「取るに足らないチンケな日本」、「日本鬼子」は「鬼畜生の嫌な奴」。一方で支那を罵倒する日本語は「チャンコロ」、小生は「アカ」「中禍」「阿Q」をよく使うが、やはり漢字を発明した支那人の方が上手いね。罵る言葉はとても多いとか。


世界の中心に咲き誇る花だから「中華」。これはいただけない。慎み、遠慮を知らず、臆面もなく己の夜郎自大、無知蒙昧、唯我独尊をさらしているようなものだ。


視野狭窄の病める大国・・・毛流チャルメラ笛吹き男について行けば14億の民は「大厄震」、今こそ中華版「乙巳の変」を! 毛沢東曰く「革命は銃口から生まれる」。


閑話休題。ちなみに朝鮮人の蔑称は「二鬼子」で「日本鬼子の子分」という意味とか。可哀想な半島人、三国人。主役になれない「下司徒、ゲスト」、被害妄想の「マゾピー」というのはどうか。


多民族国家の経営は実に難しい。遠交近攻が個人や集団の初期設定で、「みんな仲良く」は理想かも知れないが、まずあり得ない。無理筋なのだ。


旧ユーゴは、チトーの求心力、タガが外れると民族間の血で血を洗う殺し合いになってしまった。


<ユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。


これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。


このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。


1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した・・・2006年、ユーゴスラビアを構成していた6共和国はばらばらに解体される事になった>(WIKI)


あまりにものグチャグチャのガラガラポンで、小生には何が何だか分からないが、「凄惨、壮絶な内戦と憎悪の果てにユーゴは消えた」のだ。


米国は「人種の溶け合う坩堝(るつぼ)ではなく、人種がそれぞれ自己主張しているサラダボールだ」と司馬遼は書いている。2010年の国勢調査(10年に一度)は自己申告ではあるが、以下の人種構成である。


・白人 2億2360万人/72.4%
・アフリカ系黒人 3890万人/12.6%
・アジア系 1470万人/4.8%


このビッグ3で9割を占めている。


・先住民 290万人/0.9%
・太平洋先住民 50万人/0.2%
・その他 1910万人/6.2%*
・複数人種 900万人/2.9%


ヒスパニック系(5千万人)はそれぞれの項目に分散しているが、「*その他」の人種では97%がヒスパニック系(6割はメキシコ出身)である。(WIKI)


以上の数値を見ると、米国籍の人々は、米国民、米国人であっても、米国民族、米国人種という色分け、くくりはないようだ。色々な素材が鍋で煮られてコラボしているのではなく、サラダボールに「俺は俺」と乗っかっているだけみたい。


公私の「私」ばかりで「公」がない感じ。個人主義というか、私利私欲の利己心だけで、人種がバラバラ、心もバラバラ、国民の紐帯がずいぶん弱い感じだ。


自国を「わが祖国」と思うとか、「愛国心」を持っている、「イザという時は国のために戦う」という比率は、日本の場合はGHQとリベラル≒アカモドキ≒アカ、日教組の洗脳(さらに平和ボケ)で下がりっぱなしだが、米国は大丈夫なのか。


<米国人の愛国心が退潮、16年から6ポイント下落


(CNN2018.7.7) 米国民であることに自負心を持つ比率は4分の3以下で2016年以降、6ポイント下落した。


調査は米世論調査企業「ギャラップ」が実施し、減少の主因は「民主党支持者の間の愛国心の後退」としている。米国人であることに「強烈な誇りを持つ」とした同党支持者の比率は16年の45%が最新調査では32%に落ち込んでいた>


小生の反共バイアスのオツムは、こう解釈する。


<米民主党の支持者は概ね低学歴で、単純労働が主流であり、貧しい人、福祉、バラマキに頼る人が多い。その人たちの支持を得なければ選挙に勝てないから民主党は「福祉、バラマキ、生活優先の内向き」で、「国防、外交、世界秩序への関与は二の次」である。民主党はリベラル≒アカモドキ≒アカ、オブラートに包んだ共産主義者の政党>


アカだから「対外戦争を内乱に転化して革命で金持ちを一掃し、独裁体制を創り、自分たちがオイシイ思いをし、残飯を庶民・奴隷にやればいい、文句を言う奴は殺せ」、これが最大の目的、結果である。


貧乏人とアカがコラボしているのだから愛国心は邪魔であり、レーニンは「教育には自虐史観が大事だ、愛国心は革命の邪魔である」と主張した。


革命後は一転、「共産主義国はこの世の天国」と愛国心を煽って煽って煽りまくる。若者は概ね単純で洗脳されやすいから「中共万歳! トランプ死ね!」というネチズンも多いようだ。


米中冷戦や「米連合(日英豪加印台など)vs中」のバトルは熱くなるばかりだろうが、「強い米国を敵にはしたくないけれど、美味しい14億の市場を捨てるわけにもいかないし」と政治家、経済界は大いに悩むだろう。


しかし「どっちつかずの曖昧な私」では、米中双方から「急の役に立たぬ奴、腰のすわらなぬ洞ヶ峠め!」と信用を失うことは間違いない。


二兎追うものは一兎も得ず。怪しいドイツは洞ヶ峠を選んだようだが、トランプは早速、ドイツに駐留する米軍3万4674人中の9500人を撤収させると脅しをかけた。


グレネル前駐独米国大使によると、ドイツだけでなくシリア、アフガニスタン、韓国、日本でも米軍の縮小を計画しており、各国はハムレット、いずれは「我々は故あって〇〇にお味方いたす」と蔵前籠を演じなくてはならない。


泰平の 眠りを覚ます トランプ王 いかにせんとて 夜も眠れず


日本も平和ボケから覚める時だ。「オカミサン、時間ですよ!」(2020/7/9)



雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」

2020-07-08 09:19:03 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0

【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。

(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)

どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。

両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。

小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。

国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。

2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。

一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。

結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。

ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。

というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。

振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。

この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。

独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。

いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・

現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。

孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。

街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。

こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。

わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。

「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」

「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。

16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。

サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。

現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。

米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。

<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)

初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。

要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。

「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。

そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。

人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」

前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。

「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」

市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。

昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。

ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。

農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。

明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。

以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。

(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)

黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!

日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――

<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。

「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>

女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・

何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)

<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。

このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)

同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。

人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。

嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。

米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。

「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」

出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)

ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。

中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)
























雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。


(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)


どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。


両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。


小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。


国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。


2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。


一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。


結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。


ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。


というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。


振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。


この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。


独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。


いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・


現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。


孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。


街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。


こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。


わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。


「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」


「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。


16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。


サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。


現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。


米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。


<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)


初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。


要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。


「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。


そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。


人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」


前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。


「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」


市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。


昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。


ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。


農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。


明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。


以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。


(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)


黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!


日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――


<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。


「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>


女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・


何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)


<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。


このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)


同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。


人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。


嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。


米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。


「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」


出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)


ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。


中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)










雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(28」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/139(2020/7/7/火】好奇心はいいものだ。小さい頃からオモチャ、ラジオ、双眼鏡、拳銃・・・「どうなっているんだろう」と何でもばらしていた。


(拳銃:ベルギー製のFNブローニングM1910で、帝国陸軍の官給品。生家は米軍キャンプ座間近くで、酔った米兵が女を求めて深夜に徘徊するため父が護身用に備えていた。父が夜勤のとき、20代の母は外から雨戸を開けようとする音に震え上がったという。「黒人兵は怖かった」とよく言っていた)


どうにか分解してタメツスガメツ「ふーん、なるほど」とか「分からん、複雑怪奇」とそれなりに納得すると、また復元していた。


両親は呆れながらも「この子はエンジニアになりそうだ」と何となく期待していた様子で、怒られることはなかった。


小生も何となく「エンジニア」という、敗戦後にGHQがもたらした外来語に引かれてはいたが、就学して分かったのは自分が理科、化学、物理、地学・・・つまり理系学問がまったく分からないし、ほとんど興味がないことだった。父母に読書の習慣はなかったため、国語も苦手だった。


国語がダメ、レベル以下だと致命的である。そもそも全教科の内容がよく分からない、さらに試験問題の設問が理解できない、理解するまでに時間がかかる。


2月生まれだから同学年でも最大10か月ほどの体力差、知能差、ハンディがある。これはきつかった、焦る。小5のときに5段階評価の通信簿で「2」がなくなりオール3になった時はちょっと嬉しかった。


一方で4、5月生まれの子はさしたる苦労もせずに結構できるから、やがて遊びやオシャレに夢中になるようで、中高あたりになると早生まれとの差は解消されて同じようなレベルになる。


結局、社会人になると、総合的な学識・教養・知性といった基準では、ほとんどの人は良くて中2レベル、優秀でも高2レベル、それ以上は稀だ。


ただ、現実の社会では「専門分野での能力」が買われる、評価されるから、「物知りの世間知らず、頭でっかちだが雑巾一つも縫えやしない」人より、「変人だけれど実にいい仕事をする、ありゃあカリスマだな」という人に仕事は来る。


というわけで学業≒試験勉強はパッとしない「ドン亀」だったが、文系組ではどうにかバカの一つ覚え=暗記力で英数だけはトップクラスになれた。「ウサギとカメ」。


振り返ると英文和訳がそこそこできたことと、工作機械や道具を使ってのモノ作り、大工さん、電気屋さんなどの職人仕事に小さい頃から興味津々だったのは良かった。


この「興味津々」、正確に言えば「創造的・生産的な知識欲・遊び心」というのは男にとってはとても重要で、前進、挑戦する気概になる。従兄弟が武蔵工大に進んだこともあって、漠然と「建築士はどうだろう」とは思っていたが、まさか文字を書いて食うようになるなんてまったく夢にも思わなかった。


独房では読書と日記=思索しかやることがないのだから、嫌でも文字に親しむ。「落ちたところが上り坂」「人間万事塞翁が馬」、その気になれば敗者復活できる、ということで、日本はいい国だ。


いつも興味津々、退屈知らずだと、老いても脳みその劣化は緩やかで済むような感じがするが・・・


現役時代でも隠居した今でも、記事、文章を書く上で「これどうなっているんだろう」という好奇心、興味がキモになる。日常生活でも「旨そうだな、食ってみよう」「この路地の先はなんなんだ」とかしょっちゅう思う。


孫が通う神奈川県川崎市立下布田(しもふだ)小学校。先日、多摩川を越えて東京側を散策していたら下布田という町名があった。川は蛇行するものだから、昔は一つの村でも、川が移動するとニつに分かれて「飛び地」になったりする。


街の史書などには「多摩川は昔はずっと南の多摩丘陵沿いにあった」とか書かれており、それが北に移動したため「ふたつの下布田」になったのだろう。ツインビレッジ・・・お祭りしたら面白そうだ。


こういうことを知るとか発見するのは面白い。川一本隔てただけなのに東京側の小田急線・狛江駅前通りはびっしりと建物が並んでおり、1階はほとんど店舗。どこまで続くのかと自転車を漕いでいったら京王線・調布駅まで続いていた。


わが街だと駅前商店街はせいぜい150~200メートル、それくらいで間に合う人口=市場=購買力で、物価も川向うの東京より安い。賃貸住宅も同じ家賃なら川向うより一部屋多い。それでも「お住まいはどちら?」と聞かれて「都内です」と「神奈川県です」ではイメージが違う。


「結構、シカとかイノシシが出るんでしょ?」「まあ、出ますね」
「ジビエ料理、皆さん食べます?」「昔から食べてますから飽きられているみたいで・・・今はコウモリ、ハクビシン、それからヒトを食ってます。奥さんみたいな霜降りはキロ3万円はしますね・・・ほんとに美味しそうですねえ、ヒッヒッヒ」


「都内は一流ブランド」、隣接していても神奈川(横浜を除く)、埼玉、千葉は二流以下なのだろう。在宅勤務が増えると、生活費が安くて自然も残っているような二流以下に引っ越す都民が増えそうだ。「出エジプトリリー記 多摩川を渡れ!」とか。


16世紀のサブサハラ・アフリカは「大西洋を渡れ!」だった。ボタンの掛け違え・・・当時の悲劇が今なお続いているようだ。


サブサハラ・アフリカ(Sub-Saharan Africa)。サハラ砂漠より南のアフリカは、アラビア人の北アフリカとは大きく異なる世界のようだ。ネグロイド(黒人)が主に居住する地域で「ブラック・アフリカ」とも称される。


現在、サブサハラについて先進国は何となく「触らぬ神に祟りなし」、その隙を中共がついて縄張りにしつつある。


米大陸の黒人のルーツはブラック・アフリカの大西洋側、ルアンダのようだ。不運の地なのか、デフォルトなのか、今でもフツとツチの部族抗争の傷は癒えていない。


<ルアンダは(日本では信長が台頭した)1575年にポルトガル人によって植民され、黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。奴隷供給源の喪失はブラジル植民地にとって大打撃だったからである>(WIKI)


初期に新大陸に自ら入植した黒人は「新大陸で一旗揚げよう」という、まるで明治以降の日本人移民のようだった。ところが新大陸は聞くと見るとで大違い、「話が違う」と怒ったところで財布もすっからかんどころか借金だらけで、帰るに帰れない。


要は、裸一貫で入植した白人も黒人も騙されたというか、リクルーターの甘言に乗せられたのだ。こんな具合。


「諸君、神は我々に新大陸を下された。波頭を乗り越え艱難辛苦、我らの先人は畑、農園を作って頑張っている、しかし慢性的に人手不足だ。


そこで私は、優秀で熱意あるがカネがないから新大陸に行けないという諸君を支援したい。渡航と就職先が決まるまでの費用はすべて貸そう。働きながら返してくれたらいい。


人生はチャレンジだ! このまま既得権益でガチガチの旧大陸で惨めな一生を送るのか? 叩けよ、さらば開かれん! 新大陸にはたっぷり稼げる仕事がある、すこぶる安い農地がある、自分の道を選べる自由がある、勇気ある青年は申し込んでくれ、先着100名、運命を切り開け!」


前借金という身売りだ。牛詰めになって命からがら新大陸に着き、就職市場のセリに若者が立つ。


「ルアンダ産、オス、16歳、健康、30ドルから始めます(ばんばん!)、はい40、はい60、ほい70・・・上ないか、上ないか、ほい75、80・・・上ないか、上ないか、(ばん!)80でシーチン農場!」


市場で値がつくと、カネ主は買い手に「前借金+諸経費+斡旋料」をもらって一件落着。若者は借金を全額返すまでは買い手、即ち農場オーナーの奉公人になる。


昔の娼妓、お女郎さんと一緒。借金を返しながらも衣食住で新たな借金をするから5年奉公10年奉公ならいい方で、死ぬまで奉公人というケースは珍しくなかっただろう。たとえ独立できたとしても、いくら安いとはいえ農地を買って功成り名を遂げる人は稀だった。


ヨーロッパから来た前借金の白人も同様だったが、職人(技術者)は引っ張りだこの高給で、多くが出世した。広大な農場(プランテーション)では労働者も多く、女、子供もどんどん増えていった。繁殖すれば売って儲けることもできるからだ。


農場は大きな村であり、熟練工を必要とした。大工、鍛冶屋、靴・皮革職人、ロープ職人、煉瓦焼き、醸造職人、織物職人・・・最初は高給でプロを招き、やがては奉公人が技術を学ぶ。


明治の初めみたいだが、日本の年季奉公は少年を一人前のプロに育てる職業訓練所でもあり、前借金で縛る奴隷制度とは全く違う。お女郎さんでも故郷に錦を飾った人は珍しくないだろう。


以上は戦後アメリカでマッカーシー旋風を「私はアカじゃない、社会主義者だ」とごまかして難を逃れたアカの理論家、レオ・ヒューバーマン著「アメリカ人民の歴史」を参考にした。


(アカは今でもFDRやジョージ・マーシャルを讃えているから、ヒューバーマンは読み継がれているだろう。1957年には大内兵衛、向坂逸郎に牛耳られた総評の招きで来日している)


黒人は言語能力、思考力、労働技術力に見るべきものがなかったのか、やがて単純労働、家畜並の動物扱い、反抗する知恵も術もなく借金漬けで奴隷にされてしまったのだろう。夢の新大陸が悪夢の地獄に・・・人生は想定外だ!


日本でも奴隷みたいな労働者は珍しくなかったのではないか。例えば――


<契約社員として奥地のダム工事現場に派遣され、やがて飯場での博打と女で前借金が増え、工事が終わっても親方から他の会社への出向を命じられ、給料も押さえられ、退職も許されない。やがて娼妓上がりのような女を与えられて子もなした。


「でも、何だか俺、奴隷とか唐行きさんみたいだなあ、“ナンダカンダ分からん人生”・・・ま、置かれた場所で咲きなさいって神様が言っているし、そのうち何とかなるかもしれない・・・でも何でこうなったんだろう、不思議だよなあ>


女に騙され惑わされて働きづめ、たまの休みでもドブ掃除や洗車、ペンキ塗りをさせられたり、タバコも外、酒は取り上げられ、家族旅行の参加資格もなく留守番・・・「アンタ、犬の散歩と金魚の世話もちゃんとやってよ!」まるで奴隷・・・


何となく 歌って踊って 恋をして 気付いて見れば 老いたる奴隷(修)


<植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある。オランダ船がメキシコへ向かうイスパニア船と交戦し50~60人の奴隷化されたアフリカ人を奪取した。


このイスパニア船はマニラで慶長遣欧使節から買い取ったサン・ファン・バウティスタ号であり、ルアンダから350人の奴隷を調達し輸送する途上だったという説がある>(WIKI)


同志諸君! 光秀、秀吉、家康がいなかったら日本人は慶長遣欧使節の船でアメリカに送られ、奴隷にされていたかもしれない。危うかった。


人種、民族がそれぞれの良さを活かしながら、それぞれの国、町村で、それぞれの桃源郷を創ればいいが、やがて仲良しクラブ、派閥ができて争う。もう、これ、人間の宿命だ。


嗚呼、昔「愛の巣」、今「愛の留守」、良い予感は概ね外れ、悪い予感はよく当たる、誤解はやがて悲劇か喜劇かドタバタか・・・「大団円で幕」というのはまずないね、せいぜい戦い済んで日が暮れて・・・諦観で終わればいい方だな。


米国の人種問題を解決するにはワシントン州・オレゴン州は黒人自治区にするとか、縄張りをはっきりと決めた方がいいのではないか。一度、別居してクールになってみることが大事ではないか。国造りの苦労をしないと分からないことはいっぱいある。


「あんたぁ最初からワシらが担いどる神輿じゃないの、神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ」


出ていくわ 勝手にするから 手切れ金 まずは寄こせと 恐喝まがい(修)


ありそうな話。内憂外患、大国になれば悩みも大きいから大変だなあと思うが、日本はEEZを含めると結構縄張りが広いから「対岸の火事」と、のほほんとはしていられない。


中共、半島、ロシアちゅう世界有数のゴロツキ連合と対峙しておるんやで、ガラガラポンの仁義なき戦いにそなえにゃ、ええようにやられるで、のう。褌締めて、腹くくって、チャカ用意して、兄弟仁義の組と足そろえて喧嘩に備えにゃあならん。のほほんと危機感がない組は負けよ、最後にバカが泣く。あんた、ボーッとしとるけど分かってんのかい?(2020/7/7)