下の記事は,多くの私立大学社会科学系の学部では,学生のゼミ所属率が低く,卒論が必修でない例が多いことを問題視しています。
私はかつて,とあるマンモス私立大学の教育学部で,教育心理学を専攻していました。そこでは,卒論は必修でした。しかも,提出後は口頭試問(面接試験)が課せられました。その評価は,指導の先生(主査)に加え,他の先生(副査)も加わって行われました。卒論がきちんと書けるように,2年次から研究の方法論を学ぶことができるカリキュラムが組まれていました。ところがその母校の商学部では,卒論はゼミ論という名称で,ゼミ単位での提出と評価にとどまっていました。しかも,学生のゼミ所属率は50%程度でした。母校商学部に設置された大学院研究科に進学した時に,私はその状況を知り驚いたことを思いだします。まさに記事の通りでした。
なお,どこの大学でも,心理学系の専攻では,私が受けたような措置は普通のことのようです。人文科学系の他の専攻でも卒論が必修なのは珍しくありません。私立大学社会科学系学部の教育が特異なのかもしれません。
愛知学院大学商学部はどうなっているかといえば,赴任当初,学生のゼミ所属率は60%程度でした。卒論はゼミ内での評価にとどまり,学部において,研究の方法論や卒論執筆の作法を教える科目や機会はありませんでした。母校の商学部と同じ状況にありました。その後,本学商学部では,学生定員が大幅に減少したため,ゼミ所属率が上がり,今は90%程度になっています。その点では改善が見られています。ただし,今なお,学部のカリキュラム上,研究の方法論や卒論執筆の作法を教える科目や機会はありません。また,学部全体での提出後のプレゼンテーションや口頭試問の機会もありません。大半のゼミでは教員がきちんと指導していると思いますが,学部全体で上手に学生に卒論を書かせ,それを評価する仕組みがないため,士気が上がらず,何か本を写せば卒論になると思っている学生が存在しています。この点に改善の余地を残しています。
ともかく,卒論の重要性は昔から指摘されてきました。様々大学改革の施策が導入されても,これに変化はありません。研究活動が中心にあり,自学自習が基本である大学教育のあり方を典型的に表しているのが卒論です。改めてゼミ生にはその重要性を諭して行きたいと思っています。そして,ゼミ内で閉じた評価を行わず,私に加えて他の教員の評価も加える工夫や,体系だった執筆の方法論を学ぶ機会を設けていきたいと思っています。
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大谷大学は2万字の卒論が必修です。授業での教員向けや学生同士のプレゼンテーションで評価されたり、卒論提出後は教員の前で口述試問もあります。「大学なんだからそんなことは当たり前だ」と思う人も多いでしょうが、そうでない大学も沢山あります。
ある高偏差値のマンモス私大の社会科学系学部の先生は私に、「ウチがゼミや卒論が必修でないのは、学生の多様なニーズに応えたものだ」とおっしゃいました。一理あるでしょう。しかし、その学生が数百人で黙って講義を聞くだけの「経済学入門」だけで卒業していいのでしょうか?
学生時代に大講義を黙って聞くだけの学生生活を送っても、有名私大の文系学生は、受験時の基礎学力は高いため、割と良い会社に就職できます。でも、ゼミに所属せず、卒論を書かず、恩師と呼べる大学教員に一人も出会わない大学生活を送ることは、あまりにも空しくないでしょうか。
天下の慶應義塾大学経済学部でも、専門ゼミ所属率は6~7割です。言うまでもなく一橋は必修です。慶應では、「ゼミに入らなくても附属出身者は就職に強い」なんて話もありますが、望んでも入れなかった「ゼミなしっ子」は、入ゼミ生と比べて就職実績が劣ると内部の関係者に聞きました。
ある名門私大の経済学部長は、FD講演会で私に、「ゼミに入っていない50%の学生の就職など知らん」と言い放ちました。しかしそもそも、在学生の50%しかゼミに入れない仕組みを作り出したのは、当の大学側なのです。それならばいっそ、入学定員も半減させるべきでしょう。
今、スーパーグローバル大学を含む、多くの大学が取り組んでいる「グローバル化」は、英語の授業や留学制度の充実であり、必ずしも学部教育の水準がグローバル化しているわけではありません。大講義を一方的に聞くだけで卒業して、どこがグローバル水準の学部教育なのでしょう。
教員も事務作業や入試業務で疲弊し、教育・研究に時間を割けない大学の、どこがグローバルなのでしょう。もうお気づきでしょう。「自分たちはグローバルだ」と国内に向けて言っているのは、「日本はすごい」「日本は世界から認められている」と自分で言っている本やテレビ番組と同じなのです。
(山内太地 BLOGOS 2015年05月12日)
私はかつて,とあるマンモス私立大学の教育学部で,教育心理学を専攻していました。そこでは,卒論は必修でした。しかも,提出後は口頭試問(面接試験)が課せられました。その評価は,指導の先生(主査)に加え,他の先生(副査)も加わって行われました。卒論がきちんと書けるように,2年次から研究の方法論を学ぶことができるカリキュラムが組まれていました。ところがその母校の商学部では,卒論はゼミ論という名称で,ゼミ単位での提出と評価にとどまっていました。しかも,学生のゼミ所属率は50%程度でした。母校商学部に設置された大学院研究科に進学した時に,私はその状況を知り驚いたことを思いだします。まさに記事の通りでした。
なお,どこの大学でも,心理学系の専攻では,私が受けたような措置は普通のことのようです。人文科学系の他の専攻でも卒論が必修なのは珍しくありません。私立大学社会科学系学部の教育が特異なのかもしれません。
愛知学院大学商学部はどうなっているかといえば,赴任当初,学生のゼミ所属率は60%程度でした。卒論はゼミ内での評価にとどまり,学部において,研究の方法論や卒論執筆の作法を教える科目や機会はありませんでした。母校の商学部と同じ状況にありました。その後,本学商学部では,学生定員が大幅に減少したため,ゼミ所属率が上がり,今は90%程度になっています。その点では改善が見られています。ただし,今なお,学部のカリキュラム上,研究の方法論や卒論執筆の作法を教える科目や機会はありません。また,学部全体での提出後のプレゼンテーションや口頭試問の機会もありません。大半のゼミでは教員がきちんと指導していると思いますが,学部全体で上手に学生に卒論を書かせ,それを評価する仕組みがないため,士気が上がらず,何か本を写せば卒論になると思っている学生が存在しています。この点に改善の余地を残しています。
ともかく,卒論の重要性は昔から指摘されてきました。様々大学改革の施策が導入されても,これに変化はありません。研究活動が中心にあり,自学自習が基本である大学教育のあり方を典型的に表しているのが卒論です。改めてゼミ生にはその重要性を諭して行きたいと思っています。そして,ゼミ内で閉じた評価を行わず,私に加えて他の教員の評価も加える工夫や,体系だった執筆の方法論を学ぶ機会を設けていきたいと思っています。
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大谷大学は2万字の卒論が必修です。授業での教員向けや学生同士のプレゼンテーションで評価されたり、卒論提出後は教員の前で口述試問もあります。「大学なんだからそんなことは当たり前だ」と思う人も多いでしょうが、そうでない大学も沢山あります。
ある高偏差値のマンモス私大の社会科学系学部の先生は私に、「ウチがゼミや卒論が必修でないのは、学生の多様なニーズに応えたものだ」とおっしゃいました。一理あるでしょう。しかし、その学生が数百人で黙って講義を聞くだけの「経済学入門」だけで卒業していいのでしょうか?
学生時代に大講義を黙って聞くだけの学生生活を送っても、有名私大の文系学生は、受験時の基礎学力は高いため、割と良い会社に就職できます。でも、ゼミに所属せず、卒論を書かず、恩師と呼べる大学教員に一人も出会わない大学生活を送ることは、あまりにも空しくないでしょうか。
天下の慶應義塾大学経済学部でも、専門ゼミ所属率は6~7割です。言うまでもなく一橋は必修です。慶應では、「ゼミに入らなくても附属出身者は就職に強い」なんて話もありますが、望んでも入れなかった「ゼミなしっ子」は、入ゼミ生と比べて就職実績が劣ると内部の関係者に聞きました。
ある名門私大の経済学部長は、FD講演会で私に、「ゼミに入っていない50%の学生の就職など知らん」と言い放ちました。しかしそもそも、在学生の50%しかゼミに入れない仕組みを作り出したのは、当の大学側なのです。それならばいっそ、入学定員も半減させるべきでしょう。
今、スーパーグローバル大学を含む、多くの大学が取り組んでいる「グローバル化」は、英語の授業や留学制度の充実であり、必ずしも学部教育の水準がグローバル化しているわけではありません。大講義を一方的に聞くだけで卒業して、どこがグローバル水準の学部教育なのでしょう。
教員も事務作業や入試業務で疲弊し、教育・研究に時間を割けない大学の、どこがグローバルなのでしょう。もうお気づきでしょう。「自分たちはグローバルだ」と国内に向けて言っているのは、「日本はすごい」「日本は世界から認められている」と自分で言っている本やテレビ番組と同じなのです。
(山内太地 BLOGOS 2015年05月12日)