私は現在商学部で専門教育を担当しています。長年の経験から,教育過程で,学生が知識を蓄えるためにはある程度専門領域を絞ったほうがうまくいくことを了解しているつもりです。専門教育を低学年から行い,分野を絞り込んで同様の知識を繰り返し学生に学習してもらうことが重要であると。
しかし,その一方で,大学にとって重要な教育は教養教育なのではないかという考えを捨てきれないでいます。専門教育は企業の内部教育でも可能であるし,専門学校のような大学以外の教育機関でも可能であるが,教養教育は大学ならではの教育であるからというのがその理由です。つまり,様々な学問知を駆使して,多様な目で物事を分析する力を養うことが,複雑な社会で長く生きていくためには必要であるが,それができる数少ない場の一つが大学であるという思いです。
最近ある本を読みその思いを強くすることになりました。デイビッド・エプスタイン『RANGE―知識の「幅」が最強の武器になる―』日経BPです。早期教育を施して専門特化するよりも,若いうちは様々な経験をし,幅広い知識を身に着けたほうが大成するということを,スポーツ,学問,ビジネス,文筆,絵画,音楽など色々な分野の事例を通して説明しています。
この本の中に専門家の愚かさを示す例が出てきます。米ソ冷戦時代の国際政治の専門家による短期と長期の将来予測8万以上を集め,それらと実際の結果を照合して,専門家の予測の成否を探った研究によると,専門家の予測は間違いだらけであったといいます。専門家の学位,経験,極秘情報へのアクセスの可能性などは予測能力には何ら関係せず,専門家がありえないといった出来事が15%の確率で起き,間違いなく起きるといった出来事が4回に1回は起こらなかったという。面白いことに専門家の知名度と予測を間違える確率は反比例の関係にあったといいます。
アメリカの政府機関が予測トーナメントを立ち上げ,政治経済に関する様々な出来事の予測を複数チームに競わせたところ,素人のボランティアチームが機密情報にアクセスできる専門家チームに圧勝したといいます。ボランティアチームには多様なバックグラウンドのメンバーが集まっていましたが,個々のメンバーも様々な経験を積んでいたそうです。
専門家は世界の動きに関する理論を自分の専門分野という一つのレンズだけを通して作り上げ,どんな出来事もその理論に合うように曲げてしまうことが間違う理由であるといいます。専門家は愚かであるということは大学に生息している私にとって理解可能です。(これ以上書くと怒られるので書きませんが・・・・。さらにお前はどうなんだと言われるでしょう。私は専門家として中途半端なので,最低ラインの人材であることは自覚しています。)
以上の例で出てくる専門家と大学の専門教育は異なる概念ですが,専門教育は専門家を養成することを想定しているので関連しています。ともあれ,多様な目を養成するために知識の幅を広げていく,経験を多様にしていくことの重要性を鑑み,学部における専門教育と教養教育のバランスや学び方を考え直す必要があると思います。幸い,愛知学院大学には教養部という部署があり,教養教育をおろそかにはしていません。今後,これが自分の学部の教育にどれほど有効か,つまりは学生たちに多様な目を身に着けてもらうことにつながっているか,確認する必要があります。
しかし,その一方で,大学にとって重要な教育は教養教育なのではないかという考えを捨てきれないでいます。専門教育は企業の内部教育でも可能であるし,専門学校のような大学以外の教育機関でも可能であるが,教養教育は大学ならではの教育であるからというのがその理由です。つまり,様々な学問知を駆使して,多様な目で物事を分析する力を養うことが,複雑な社会で長く生きていくためには必要であるが,それができる数少ない場の一つが大学であるという思いです。
最近ある本を読みその思いを強くすることになりました。デイビッド・エプスタイン『RANGE―知識の「幅」が最強の武器になる―』日経BPです。早期教育を施して専門特化するよりも,若いうちは様々な経験をし,幅広い知識を身に着けたほうが大成するということを,スポーツ,学問,ビジネス,文筆,絵画,音楽など色々な分野の事例を通して説明しています。
この本の中に専門家の愚かさを示す例が出てきます。米ソ冷戦時代の国際政治の専門家による短期と長期の将来予測8万以上を集め,それらと実際の結果を照合して,専門家の予測の成否を探った研究によると,専門家の予測は間違いだらけであったといいます。専門家の学位,経験,極秘情報へのアクセスの可能性などは予測能力には何ら関係せず,専門家がありえないといった出来事が15%の確率で起き,間違いなく起きるといった出来事が4回に1回は起こらなかったという。面白いことに専門家の知名度と予測を間違える確率は反比例の関係にあったといいます。
アメリカの政府機関が予測トーナメントを立ち上げ,政治経済に関する様々な出来事の予測を複数チームに競わせたところ,素人のボランティアチームが機密情報にアクセスできる専門家チームに圧勝したといいます。ボランティアチームには多様なバックグラウンドのメンバーが集まっていましたが,個々のメンバーも様々な経験を積んでいたそうです。
専門家は世界の動きに関する理論を自分の専門分野という一つのレンズだけを通して作り上げ,どんな出来事もその理論に合うように曲げてしまうことが間違う理由であるといいます。専門家は愚かであるということは大学に生息している私にとって理解可能です。(これ以上書くと怒られるので書きませんが・・・・。さらにお前はどうなんだと言われるでしょう。私は専門家として中途半端なので,最低ラインの人材であることは自覚しています。)
以上の例で出てくる専門家と大学の専門教育は異なる概念ですが,専門教育は専門家を養成することを想定しているので関連しています。ともあれ,多様な目を養成するために知識の幅を広げていく,経験を多様にしていくことの重要性を鑑み,学部における専門教育と教養教育のバランスや学び方を考え直す必要があると思います。幸い,愛知学院大学には教養部という部署があり,教養教育をおろそかにはしていません。今後,これが自分の学部の教育にどれほど有効か,つまりは学生たちに多様な目を身に着けてもらうことにつながっているか,確認する必要があります。