愛知学院大学青木ゼミのブログ

愛知学院大学商学部青木ゼミの活動を報告するためのブログです。

何のための改革か

2017年11月15日 | Weblog
以前,山口裕之『「大学改革」という病』(明石書店)を読んだ感想をブログに書きました。その本の指摘には同意せざるを得ません。すなわち,文科省の大学改革は大学を疲弊させるばかりで,本当に大学の教育や研究を改革することにはならないということです。なぜならば,文科省の改革の枠組みは,競争を導入し,資金の獲得のために,大学間・教員間を競わせ,それによって研究・教育の改善につなげるといいながら,実際には文科省による中央集権的・社会主義的大学統制になっているからです。競争の裁定者が文科省であるため,大学は文科省の意向を常に伺うことに最大限の注意を払うようになっているのです。資金獲得ができなければ,各大学は衰退を免れることができないので,実質的に文科省の号令に従うほか選択がないのです。実際,現場では,運営上の事柄について文科省がどう考えているのかばかりが話題になります。

文科省が「正しい」号令をかけているならば,文科省の裁定は意義のあることかもしれません。しかし,文科省は,「日本の大学をアメリカの大学のようにする」ことに腐心しているため,ピントのずれた改革号令になっている可能性があります。そもそもアメリカの大学や教育システムは本当にすごいのか?アメリカの教育システムは日本に適合するのか?これらがきちんと検討されてきたようには思えません。センター試験,AO入試,大学院拡充,専門職大学院,学長権限の強化などなど,みなアメリカ型大学到達への方策です。それらの中の一部はあからさまに失敗したように見受けられますが,どうなんでしょう。

なお,世界の大学ランキングにおいて,アメリカやイギリスの大学が上位に位置し,日本の大学が下位に甘んじていることがよく報じられます。そのランキングを根拠に,日本の大学はだめだ,アメリカの大学の運営を参考にしろという声がメディアに登場します。しかし,その大元の大学ランキングが,実は,イギリスやアメリカの大学が留学生を獲得するためのプロモーション・ツールであるという指摘があります。あらゆるランキングにありがちなことですか,何のためのランキングなのかよく理解されず,順位だけが独り歩きしているのかもしれません。

高等教育のあり方に詳しい竹内洋さんによる以下の記事は,予算や人員を削ったうえでの,矢継ぎ早の大学改革が現場を疲弊させている状況を指摘しています。2年前の記事ですが,今でも状況は変わりません。いやもっと酷くなっているように感じられます。竹内さんは,世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは,日本の大学教員をおいて他にないと書いています。そうまでして実現した大学改革が実情に合わないもので,しかも予算削減とペーパーワークの多忙さに疲弊して,教育と研究水準が下がってしまう。さらに,改革後の各大学が文科省による中央集権体制下で個性を失ってしまう。そうであるならば,何のための改革なのでしょうか。

過去10年間,主要国の中で日本が唯一論文発表数が落ち込んでいます。世界第2位から4位に転落しました。すでに大学の機能の一つである研究機能は破壊されつつあります。

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私はいまから半世紀ほど前の1961年に大学に入学したが、当時の大学は「教授天国」というべきものだった。雨の降る日は必ず休講にする教授さえいた。しかし、20世紀末からの大学改革によって、教授本位大学の時代に終止符が打たれる。教育重視の大学改革がはじまった。シラバス(授業計画)を詳細に記し、授業は半期(2単位)で15回(通年なら30回)厳守となった。休講した場合は補講が義務づけられている。教授本位大学から学生本位大学の改革だったが、大衆大学時代にはむしろ当然の改革だった。

文部科学省発信の大学改革は、そこにとどまることなく、大学や学部ごとの組織改革や目標実施計画などを次々と要請してきた。そのたびに大学には委員会が作られ、やたら会議がふえた。また地域連携などのイベントやその関係の仕事もふえた。大学教員の仕事において教育・研究以外の校務といわれる部分の比重が増している。かつての大学は研究本位をタテマエにしながらも、成果はそれほど重視されなかったが、研究成果も重視されるようになった。かくていまや大学教員は特権的高等遊民どころではなく超多忙職のひとつとなった。なかでも仕事量に占める割合で増大しているのが大学改革がらみの校務である。世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは日本の大学教員をおいて他にないだろう。にもかかわらず、次々に新しい改革案が大学に押し寄せる。大学改革が錦の御旗になってから文科省官僚をふくめての大学行政関係者にとっては、どれだけの大きな改革案を出すかのパフォーマンス競争のようになった気配すらある。教育改革の成果は時間がかかり検証しにくいから、思いつきの改革案が簡単にでることにもよるだろう。

調子づいてきた大学改革行政は、今年の6月には国立大学の人文社会科学系と教員養成系の改組、縮小、廃止についての文科大臣名の通知となってあらわれた。縮小や廃止をちらつかせながら改組を促すのは、その昔、お取り潰しや減封をもとに大名や旗本を戦々恐々とさせたのとそっくりの強権的手法である。大学などどうとでもなるとふんでの臆面なき大学改革にいたったのである。こうした大学改革に現場の教員はふりまわされ、疲弊しているのが現状である。

さきほどふれたように、大学改革によって授業回数は確保されたが、日本の大学生の自主的学習時間はきわめて少なくなっている。形式ばかりこだわる官僚的大学改革の副作用ともいうべきものである。現場と対話する地道な大学改革になってほしいものである。パフォーマンスのような大学改革案が打ち出されつづければ、「手術は成功したが患者は死んだ」という言葉のよう に、大学改革は成功したが大学は死んだになってしまうのではあるまいか。

竹内洋「正論」 SankeiNews 2015年10月1日 

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2017年11月14日 | 運営
ゼミの2,3,4年生は,論文コンテスト,研究発表会,そして卒業論文の締め切りを迎えようとしています。内容がまとまらなくて,全員頭の中がぐちゃぐちゃになっている様子です。

ここで全員に確認してほしいのが,研究発表を手掛けるために,最初に設定したテーマです。それは漠然としていましたが,自分たちなりに,何を知りたいのか,どんな主張をしたいのかを決めたはずです。迷ったら最初に戻ることが近道なのです。テーマを掲げた際に,それなりに動機があったはずです。その動機と併せて,何を知りたいと考えていたのか,どんな主張をしたいと思っていたのかを確認してもらうと,方向が見えるはずです。

方向を見失っては進むことはできません。研究発表では,正解は用意されていません。つまりは,明快な地図がないのです。したがって,道に迷うことは致し方ありません。しかし,方向を見失ってしまっては,どこにも到着しません。研究発表を経験することは,道に迷いながらも,きちんとコンパスで方向を見定めて,試行錯誤しながら,少しずつ進んでいく過程を味わうことと同じです。

以前,議論やアイディアの創出過程をきちんとノートに記録せよとゼミ生には諭しました。そのノートを振り返れば,元々向かうはずの方向はどこなのか,確実に地図上の残せる道は見つかったのか,道に迷ったのならばどのように道に迷ったのかを把握することができるはずです。

迷ったら最初に戻ることが近道。

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乱読

2017年11月08日 | Weblog
専門である経営学やマーケティング論以外の本もあれこれ乱読しています。最近読んだ専門外の本の中で面白いと感じたものを紹介します。これらを学生に薦めるわけではありません。ただ,読書の参考にしてもらえれば幸いです。

1つめは,旦部幸博『珈琲の世界史』(講談社現代新書,2017年) 。タイトルの通り,コーヒーがどこで生まれて,どのように飲まれてきたのかという歴史をコンパクトにまとめた本です。コーヒーが好きなので読みました。意外なことに,私の知る限り,一般向けのコーヒーの通史はあまりないので,重要な著作です。イスラム世界からヨーロッパへコーヒー文化が広まった経緯,紅茶大国であるイギリスでかつてはコーヒー文化が花開き,その拠点コーヒーハウスが政治や経済にまで影響を与えた歴史,最近のスターバックスの隆盛からサードウエイブ・コーヒーへと至る動きなど,興味深い内容をさらっと読むことができました。

この本でイスラム世界の記述を読んでいるときには,頭の中で,「昔アラブの偉いお坊さんが・・・」という歌詞で知られるコーヒールンバの曲が鳴っていました。なぜかサードウエイブ・コーヒーの記述を読んでいるときにもそれが鳴っていました。新手のサードウエイブ・コーヒーに懐かしい雰囲気を感じたようです。

2つめは,山口裕之『「大学改革」という病』(明石書房,2017年)。昨今,文部科学省による組織的な再就職あっせん問題が起き,多くの文部官僚が大学に天下ってきた例が報道されました。なぜ多くの文部官僚を大学が受け入れるのかといえば,大学にとって交付金・補助金の類を獲得するのに元文部官僚の存在が有利に働くことを知っているからです。大学人なら周知の事柄ですが,この本を読むと,この構造の根源は文科省が繰り出してきた大学改革にあることが分かります。大学改革の根底には予算の過少さがあげられます。少ない高等教育予算を何とか各大学に振り分けるために,改革の名の下競争的資金という概念を持ち出し,大学および教員・研究者間を競わせるようになりました。そして,競争こそが大学の教育や研究を改善するという考えを打ち出してきました。しかし,問題はその競争の裁定者は文科省だということです。結局は文科省が中央集権的・社会主義的に大学を統制することになっています。日本の高等教育行政は,競争によって各大学の個性が際立つようになるとしながら,実際には資金欲しさに文科省の方針に従う個性のない大学群が出来上がるというパラドックスに陥っています。しかも,資金獲得のためのペーパーワークに大学が疲弊するというおまけつき。

なお,これも大学人にはよく知られた事実ですが,過去10年間,主要国の中で日本が唯一論文発表数が落ち込んでいます。世界第2位から4位に転落しました。国立大学を独立法人化して国から切り離し,予算削減した直後から起きています。おそらく10年後には日本は科学立国とは名乗れなくなると指摘する声が多いのですが,それを納得させてくれる本です。

3つ目は,ナイジェル・クリフ『ホワイトハウスのピアニスト』(白水社,2017年)。500頁を超える大作の人物評伝です。しかし,数日間で一気に読んでしまいました。サブタイトルにヴァン・クライバーンと冷戦と記されている通り,1950年代ソ連で開催された第1回チャイコフスキーコンクールで優勝したピアニストのクライバーンが,商業的に大成功を収めながら,米ソ冷戦下の国際政治に図らずも巻き込まれてしまったいきさつを中心とする内容です。冷戦下ソ連が威信をかけ,自国の芸術水準の高さを世界に知らしめるため,ソ連の有為な音楽家が受賞することをもくろんで開催した国際コンクールで,あろうことか若いアメリカ人であるクライバーンが優勝してしまった経緯に引き込まれます。ソ連の一般聴衆たちはクライバーンの演奏に熱狂し,審査員も才能を認めざるを得なくなったのでした。米ソ両国でポップスター並みの人気者になったクライバーンは,母国でレコードがヒットし,コンサートは大盛況になりました。さらに,最高指導者フルシチョフを始めとするソ連の大物政治家にも愛され,御前で演奏する機会を度々持ちました。しかし,商業主義に疲れ,近しい人の死に悲しんで隠遁生活を余儀なくされます。その後,1980年代後半,立ち直ったクライバーンが,軍縮交渉のためにアメリカ大統領レーガンがソ連最高指導者ゴルバチョフをホワイトハウスに迎えての首脳会談中の晩餐会で,ピアノを演奏するシーンが登場します。クライマックスです。両国が対立し,硬直した会談の雰囲気を,クライバーンが和らげ,交渉妥結に向かわせたのではないかとこの本は示唆しています。

この本を読んだ後,クライバーンのコンクール優勝直後の演奏をCDで聞きました。チャイコフスキーやラフマニノフというロシアの作曲家によるピアノ協奏曲です。多くの演奏家は,それらを奏でるとき,どこか重々しく陰鬱な雰囲気を漂わせるのですが,クライバーンの演奏は,明るく,快活で,しかも少し素朴な感じがします。冷戦の重苦しい時代だったからこそ,この快活さに人々は魅せられたのかなと独断しています。
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