以前,山口裕之『「大学改革」という病』(明石書店)を読んだ感想をブログに書きました。その本の指摘には同意せざるを得ません。すなわち,文科省の大学改革は大学を疲弊させるばかりで,本当に大学の教育や研究を改革することにはならないということです。なぜならば,文科省の改革の枠組みは,競争を導入し,資金の獲得のために,大学間・教員間を競わせ,それによって研究・教育の改善につなげるといいながら,実際には文科省による中央集権的・社会主義的大学統制になっているからです。競争の裁定者が文科省であるため,大学は文科省の意向を常に伺うことに最大限の注意を払うようになっているのです。資金獲得ができなければ,各大学は衰退を免れることができないので,実質的に文科省の号令に従うほか選択がないのです。実際,現場では,運営上の事柄について文科省がどう考えているのかばかりが話題になります。
文科省が「正しい」号令をかけているならば,文科省の裁定は意義のあることかもしれません。しかし,文科省は,「日本の大学をアメリカの大学のようにする」ことに腐心しているため,ピントのずれた改革号令になっている可能性があります。そもそもアメリカの大学や教育システムは本当にすごいのか?アメリカの教育システムは日本に適合するのか?これらがきちんと検討されてきたようには思えません。センター試験,AO入試,大学院拡充,専門職大学院,学長権限の強化などなど,みなアメリカ型大学到達への方策です。それらの中の一部はあからさまに失敗したように見受けられますが,どうなんでしょう。
なお,世界の大学ランキングにおいて,アメリカやイギリスの大学が上位に位置し,日本の大学が下位に甘んじていることがよく報じられます。そのランキングを根拠に,日本の大学はだめだ,アメリカの大学の運営を参考にしろという声がメディアに登場します。しかし,その大元の大学ランキングが,実は,イギリスやアメリカの大学が留学生を獲得するためのプロモーション・ツールであるという指摘があります。あらゆるランキングにありがちなことですか,何のためのランキングなのかよく理解されず,順位だけが独り歩きしているのかもしれません。
高等教育のあり方に詳しい竹内洋さんによる以下の記事は,予算や人員を削ったうえでの,矢継ぎ早の大学改革が現場を疲弊させている状況を指摘しています。2年前の記事ですが,今でも状況は変わりません。いやもっと酷くなっているように感じられます。竹内さんは,世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは,日本の大学教員をおいて他にないと書いています。そうまでして実現した大学改革が実情に合わないもので,しかも予算削減とペーパーワークの多忙さに疲弊して,教育と研究水準が下がってしまう。さらに,改革後の各大学が文科省による中央集権体制下で個性を失ってしまう。そうであるならば,何のための改革なのでしょうか。
過去10年間,主要国の中で日本が唯一論文発表数が落ち込んでいます。世界第2位から4位に転落しました。すでに大学の機能の一つである研究機能は破壊されつつあります。
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私はいまから半世紀ほど前の1961年に大学に入学したが、当時の大学は「教授天国」というべきものだった。雨の降る日は必ず休講にする教授さえいた。しかし、20世紀末からの大学改革によって、教授本位大学の時代に終止符が打たれる。教育重視の大学改革がはじまった。シラバス(授業計画)を詳細に記し、授業は半期(2単位)で15回(通年なら30回)厳守となった。休講した場合は補講が義務づけられている。教授本位大学から学生本位大学の改革だったが、大衆大学時代にはむしろ当然の改革だった。
文部科学省発信の大学改革は、そこにとどまることなく、大学や学部ごとの組織改革や目標実施計画などを次々と要請してきた。そのたびに大学には委員会が作られ、やたら会議がふえた。また地域連携などのイベントやその関係の仕事もふえた。大学教員の仕事において教育・研究以外の校務といわれる部分の比重が増している。かつての大学は研究本位をタテマエにしながらも、成果はそれほど重視されなかったが、研究成果も重視されるようになった。かくていまや大学教員は特権的高等遊民どころではなく超多忙職のひとつとなった。なかでも仕事量に占める割合で増大しているのが大学改革がらみの校務である。世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは日本の大学教員をおいて他にないだろう。にもかかわらず、次々に新しい改革案が大学に押し寄せる。大学改革が錦の御旗になってから文科省官僚をふくめての大学行政関係者にとっては、どれだけの大きな改革案を出すかのパフォーマンス競争のようになった気配すらある。教育改革の成果は時間がかかり検証しにくいから、思いつきの改革案が簡単にでることにもよるだろう。
調子づいてきた大学改革行政は、今年の6月には国立大学の人文社会科学系と教員養成系の改組、縮小、廃止についての文科大臣名の通知となってあらわれた。縮小や廃止をちらつかせながら改組を促すのは、その昔、お取り潰しや減封をもとに大名や旗本を戦々恐々とさせたのとそっくりの強権的手法である。大学などどうとでもなるとふんでの臆面なき大学改革にいたったのである。こうした大学改革に現場の教員はふりまわされ、疲弊しているのが現状である。
さきほどふれたように、大学改革によって授業回数は確保されたが、日本の大学生の自主的学習時間はきわめて少なくなっている。形式ばかりこだわる官僚的大学改革の副作用ともいうべきものである。現場と対話する地道な大学改革になってほしいものである。パフォーマンスのような大学改革案が打ち出されつづければ、「手術は成功したが患者は死んだ」という言葉のよう に、大学改革は成功したが大学は死んだになってしまうのではあるまいか。
竹内洋「正論」 SankeiNews 2015年10月1日
文科省が「正しい」号令をかけているならば,文科省の裁定は意義のあることかもしれません。しかし,文科省は,「日本の大学をアメリカの大学のようにする」ことに腐心しているため,ピントのずれた改革号令になっている可能性があります。そもそもアメリカの大学や教育システムは本当にすごいのか?アメリカの教育システムは日本に適合するのか?これらがきちんと検討されてきたようには思えません。センター試験,AO入試,大学院拡充,専門職大学院,学長権限の強化などなど,みなアメリカ型大学到達への方策です。それらの中の一部はあからさまに失敗したように見受けられますが,どうなんでしょう。
なお,世界の大学ランキングにおいて,アメリカやイギリスの大学が上位に位置し,日本の大学が下位に甘んじていることがよく報じられます。そのランキングを根拠に,日本の大学はだめだ,アメリカの大学の運営を参考にしろという声がメディアに登場します。しかし,その大元の大学ランキングが,実は,イギリスやアメリカの大学が留学生を獲得するためのプロモーション・ツールであるという指摘があります。あらゆるランキングにありがちなことですか,何のためのランキングなのかよく理解されず,順位だけが独り歩きしているのかもしれません。
高等教育のあり方に詳しい竹内洋さんによる以下の記事は,予算や人員を削ったうえでの,矢継ぎ早の大学改革が現場を疲弊させている状況を指摘しています。2年前の記事ですが,今でも状況は変わりません。いやもっと酷くなっているように感じられます。竹内さんは,世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは,日本の大学教員をおいて他にないと書いています。そうまでして実現した大学改革が実情に合わないもので,しかも予算削減とペーパーワークの多忙さに疲弊して,教育と研究水準が下がってしまう。さらに,改革後の各大学が文科省による中央集権体制下で個性を失ってしまう。そうであるならば,何のための改革なのでしょうか。
過去10年間,主要国の中で日本が唯一論文発表数が落ち込んでいます。世界第2位から4位に転落しました。すでに大学の機能の一つである研究機能は破壊されつつあります。
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私はいまから半世紀ほど前の1961年に大学に入学したが、当時の大学は「教授天国」というべきものだった。雨の降る日は必ず休講にする教授さえいた。しかし、20世紀末からの大学改革によって、教授本位大学の時代に終止符が打たれる。教育重視の大学改革がはじまった。シラバス(授業計画)を詳細に記し、授業は半期(2単位)で15回(通年なら30回)厳守となった。休講した場合は補講が義務づけられている。教授本位大学から学生本位大学の改革だったが、大衆大学時代にはむしろ当然の改革だった。
文部科学省発信の大学改革は、そこにとどまることなく、大学や学部ごとの組織改革や目標実施計画などを次々と要請してきた。そのたびに大学には委員会が作られ、やたら会議がふえた。また地域連携などのイベントやその関係の仕事もふえた。大学教員の仕事において教育・研究以外の校務といわれる部分の比重が増している。かつての大学は研究本位をタテマエにしながらも、成果はそれほど重視されなかったが、研究成果も重視されるようになった。かくていまや大学教員は特権的高等遊民どころではなく超多忙職のひとつとなった。なかでも仕事量に占める割合で増大しているのが大学改革がらみの校務である。世界水準からみて教育・研究時間を圧迫するほどの校務に時間を割いているのは日本の大学教員をおいて他にないだろう。にもかかわらず、次々に新しい改革案が大学に押し寄せる。大学改革が錦の御旗になってから文科省官僚をふくめての大学行政関係者にとっては、どれだけの大きな改革案を出すかのパフォーマンス競争のようになった気配すらある。教育改革の成果は時間がかかり検証しにくいから、思いつきの改革案が簡単にでることにもよるだろう。
調子づいてきた大学改革行政は、今年の6月には国立大学の人文社会科学系と教員養成系の改組、縮小、廃止についての文科大臣名の通知となってあらわれた。縮小や廃止をちらつかせながら改組を促すのは、その昔、お取り潰しや減封をもとに大名や旗本を戦々恐々とさせたのとそっくりの強権的手法である。大学などどうとでもなるとふんでの臆面なき大学改革にいたったのである。こうした大学改革に現場の教員はふりまわされ、疲弊しているのが現状である。
さきほどふれたように、大学改革によって授業回数は確保されたが、日本の大学生の自主的学習時間はきわめて少なくなっている。形式ばかりこだわる官僚的大学改革の副作用ともいうべきものである。現場と対話する地道な大学改革になってほしいものである。パフォーマンスのような大学改革案が打ち出されつづければ、「手術は成功したが患者は死んだ」という言葉のよう に、大学改革は成功したが大学は死んだになってしまうのではあるまいか。
竹内洋「正論」 SankeiNews 2015年10月1日