袴田事件(はかまだじけん)とは、1966年(昭和41年)に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定した袴田 巖(はかまだ いわお、1936年3月10日-)死刑囚が冤罪を訴え再審を請求している事件である。
【事件および裁判経過】・・・・以下、ウィキペデアより抜粋。
1966年6月30日 - 味噌製造会社専務の自宅が放火された。焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見される。一家の中では別棟に寝ていた長女が唯一生き残った。
1966年7月4日 - 静岡県警清水警察署が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時味噌製造会社の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。
1966年8月18日 - 静岡県警が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕。
1966年9月6日 - 犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前に一転自白。
1966年9月9日 - 静岡地検が起訴。
1966年11月15日 - 静岡地裁の第1回公判で袴田が起訴事実を全面否認。以後一貫して無実を主張。
1967年8月31日 - 味噌製造工場の味噌タンク内から血染めの「5点の衣類」が発見される。
1968年9月11日 - 静岡地裁、死刑判決。
1976年5月18日 - 東京高裁、控訴棄却。
1980年11月19日 - 最高裁、上告棄却。
(省略)
2004年9月1日 - 弁護側、最高裁に特別抗告。
2008年3月24日 - 最高裁で棄却。第一次再審請求終了。
2008年4月25日 - 弁護側、静岡地裁に第二次再審請求。
2010年4月20日 - 衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立総会を開催。
【裁判の主な争点】
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と同日に取られ、唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされているくり小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。2011年2月、弁護側により、ズボンについていたタブのアルファベットコードはサイズではなく色を示しているとして、警察が誤認した疑いが指摘された。
【取調べ・拷問】
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。
睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。
さて、なんで私が袴田事件に触れるのかというと、ほんの僅かながらの接点があるからである。昭和41年の事件発生当時、私は横浜市南区大岡町に居住して、東京銀座4丁目の事務所に通勤するというサラリーマン生活を送っていたから事件とは全く接点が無い。
接点というのは昭和53年に当時、静岡市瀬名川に所在した大坪建設㈱に転職したことに起因する。大坪建設には建設機械の整備などを業務とする大洋建機という子会社があって、新潟鐵工所製のコンクリートポンプ車などの整備をしていたが、その大洋建機の営業社員にM氏がいた。
M氏は当時50歳前後で、清水商業卒。袴田事件の発生当時は「こがね味噌」の営業販売員をしていたそうである。古い記憶なので曖昧な点は否めないが、M氏は味噌製造会社の経営者一族とは縁戚関係にあり、事件当日は伊豆の修善寺とかに出張中でアリバイがあったというようなことを聞いた記憶が残っている。
そして、事件に関して積極的に喋ろうとしないM氏の発言の中でよく覚えているのは「商売物の味噌の中へ犯行着衣を隠すということは、食品製造に従事する者として考えにくいことである。いくら塩辛い味噌であっても、湿った状態の味噌の中では犯行着衣がふやけて伸びることはあっても縮むということは考えにくいのではないか」と、いうことである。34,5年も前のことであるが、私は芸者遊びが好きでお座敷芸に長けたM氏のことを一瞬ではあるが事件と関係あるのではないかと疑ったことを今でもよく覚えている。
【事件および裁判経過】・・・・以下、ウィキペデアより抜粋。
1966年6月30日 - 味噌製造会社専務の自宅が放火された。焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見される。一家の中では別棟に寝ていた長女が唯一生き残った。
1966年7月4日 - 静岡県警清水警察署が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時味噌製造会社の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。
1966年8月18日 - 静岡県警が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕。
1966年9月6日 - 犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前に一転自白。
1966年9月9日 - 静岡地検が起訴。
1966年11月15日 - 静岡地裁の第1回公判で袴田が起訴事実を全面否認。以後一貫して無実を主張。
1967年8月31日 - 味噌製造工場の味噌タンク内から血染めの「5点の衣類」が発見される。
1968年9月11日 - 静岡地裁、死刑判決。
1976年5月18日 - 東京高裁、控訴棄却。
1980年11月19日 - 最高裁、上告棄却。
(省略)
2004年9月1日 - 弁護側、最高裁に特別抗告。
2008年3月24日 - 最高裁で棄却。第一次再審請求終了。
2008年4月25日 - 弁護側、静岡地裁に第二次再審請求。
2010年4月20日 - 衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立総会を開催。
【裁判の主な争点】
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と同日に取られ、唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされているくり小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。2011年2月、弁護側により、ズボンについていたタブのアルファベットコードはサイズではなく色を示しているとして、警察が誤認した疑いが指摘された。
【取調べ・拷問】
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。
睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。
さて、なんで私が袴田事件に触れるのかというと、ほんの僅かながらの接点があるからである。昭和41年の事件発生当時、私は横浜市南区大岡町に居住して、東京銀座4丁目の事務所に通勤するというサラリーマン生活を送っていたから事件とは全く接点が無い。
接点というのは昭和53年に当時、静岡市瀬名川に所在した大坪建設㈱に転職したことに起因する。大坪建設には建設機械の整備などを業務とする大洋建機という子会社があって、新潟鐵工所製のコンクリートポンプ車などの整備をしていたが、その大洋建機の営業社員にM氏がいた。
M氏は当時50歳前後で、清水商業卒。袴田事件の発生当時は「こがね味噌」の営業販売員をしていたそうである。古い記憶なので曖昧な点は否めないが、M氏は味噌製造会社の経営者一族とは縁戚関係にあり、事件当日は伊豆の修善寺とかに出張中でアリバイがあったというようなことを聞いた記憶が残っている。
そして、事件に関して積極的に喋ろうとしないM氏の発言の中でよく覚えているのは「商売物の味噌の中へ犯行着衣を隠すということは、食品製造に従事する者として考えにくいことである。いくら塩辛い味噌であっても、湿った状態の味噌の中では犯行着衣がふやけて伸びることはあっても縮むということは考えにくいのではないか」と、いうことである。34,5年も前のことであるが、私は芸者遊びが好きでお座敷芸に長けたM氏のことを一瞬ではあるが事件と関係あるのではないかと疑ったことを今でもよく覚えている。