韓国の国家的英雄といえば李舜臣と安重根ではなかろうか。この対極として日本を代表する嫌われ者が加藤清正と伊藤博文であるらしい。
私も現地釜山で見たが、釜山港を見下ろす龍頭山公園中央には、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の英雄「李舜臣の銅像」があって、はるか東の方角の日本を睨みつけているのだそうだ。
李舜臣将軍は1545年ソウルに生まれた。朝鮮水軍の将軍として各地を転戦、亀甲船を発明して秀吉軍を撃退した救国の英雄である。1598年、撤退中の秀吉軍を追撃中に戦死。その遺功を称え子孫に伝えるため、1955年にこの銅像が建てられた。
この秀吉の朝鮮出兵のときには秀吉麾下の多くの武将が朝鮮半島へわたっているのだが、後世にもっとも名前を残しているのが虎退治で有名な加藤清正である。
日本手話における「加藤」の手話単語の1つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがあるが、これは加藤清正の虎退治の故事にちなんだものと言われる。
加藤清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:안중근、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮において初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を暗殺したテロリストならびに民族主義者。元死刑囚。
大韓民国において安重根は、抗日闘争の英雄と評価され、「義士」と称され、国民的英雄である。ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている。
彼の功績を称えて、韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用い、同様の理由でテコンドーの型にも彼の名は用いられている(国際テコンドー連盟4級で習得する安重)。また伊藤博文暗殺から100年にあたる2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催された。
伊藤 博文(いとう ひろぶみ)は、周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。1909年、ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺された。
反目しあう国家間、民族間においてはこちら側から見たテロリストが相手側の英雄だったりする。歴史認識と一口には言うがなかなか難しい問題なのである。
ところで、韓国の独立記念日、所謂、光復節(カンボッチョル)は1945年8月15日と言うことになっているが大韓民国の本当の独立日は1948年8月13日である。因みに日本がサンフランシスコ講和条約に調印して国家主権を回復したのは1952年4月28日のことである。
光復節(カンボッチョル、日本からの独立記念日)は、8月15日と思っている方もいるだろう。しかし韓国の本当の独立日は8月13日が正しいのだ
昭和20年8月15日、日本の無条件降伏に伴い、当時の朝鮮総督、阿部信行・陸軍大将と、朝鮮軍司令官、上月良夫・陸軍中将の二人が、朝鮮総督府から日章旗(日の丸)を下ろし、太極旗(現・韓国国旗)を掲揚させると共に、朝鮮建国準備委員会を結成させ、朝鮮に自治権を付与した。つまり、終戦の日、朝鮮は「自治権」を獲得したのであって、決して日本から「独立」したのでは無い。
このように、終戦と同時に韓国は日本から自治権を与えられたが、その自治権も、同年9月8日、米軍が南朝鮮(後の韓国)に進駐してくると、解消されてしまう。進駐してきた米軍は、ソウルの空にはためいていた太極旗を引きずり下ろし、再び日章旗を掲揚させたのだ。
つまり、1945年8月15日以降も韓国は日本の領土(アメリカ軍政下)だったと、アメリカ軍から言われてしまったのである。
そして、進駐の翌日(9月9日)、連合国軍最高司令官 ダグラス=マッカーサー元帥が、南朝鮮に対して、アメリカによる「軍政」を布告、ソウルの空には星条旗(アメリカ国旗)が翻(ひるがえ)る事となったのだ。つまり、韓国の前身 ── 南朝鮮は、終戦の日、日本から「独立」すること無く、今度はアメリカによる「軍政」の下に置かれる事となった訳で、8月15日は、決して「祖国の解放」(独立)等では無いのだ。 沖縄同様、アメリカの軍政下にあった南朝鮮が「独立」を達成したのは、終戦から3年後の昭和23年8月13日である。つまり、韓国にとって本当の意味での「祖国の解放」(独立) ── 「光復節」は、8月13日だった訳である。
1948年8月13日に韓国はアメリカ軍から独立を認められた。日本から独立したわけではない。当時の日本はオキュパイドジャパンつまり占領下の日本であって韓国を独立させる国家主権は存在していなかったわけである。
と、いうわけで、韓国は8月13日が本来の「独立記念日」であるのにもかかわらず、敢えて、8月15日を「光復節」としたのには、多分に「政治的配慮」が働いていたと言う事だ。つまりわざと日本の無条件降伏の日に独立記念日を重ね、韓国が日本の植民地支配より開放されたとすることによって愛国心を煽ったのである。この点を知っておかないと歴史問題が重要なキーワードになる日韓関係に大きな過ちを残すことになるだろう。
歴史認識を云々する前にこのような姑息な手段を改めて8月13日を光復節なり独立記念日なりにしたほうが正しい歴史認識といえるのではないだろうか。
私も現地釜山で見たが、釜山港を見下ろす龍頭山公園中央には、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の英雄「李舜臣の銅像」があって、はるか東の方角の日本を睨みつけているのだそうだ。
李舜臣将軍は1545年ソウルに生まれた。朝鮮水軍の将軍として各地を転戦、亀甲船を発明して秀吉軍を撃退した救国の英雄である。1598年、撤退中の秀吉軍を追撃中に戦死。その遺功を称え子孫に伝えるため、1955年にこの銅像が建てられた。
この秀吉の朝鮮出兵のときには秀吉麾下の多くの武将が朝鮮半島へわたっているのだが、後世にもっとも名前を残しているのが虎退治で有名な加藤清正である。
日本手話における「加藤」の手話単語の1つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがあるが、これは加藤清正の虎退治の故事にちなんだものと言われる。
加藤清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:안중근、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮において初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を暗殺したテロリストならびに民族主義者。元死刑囚。
大韓民国において安重根は、抗日闘争の英雄と評価され、「義士」と称され、国民的英雄である。ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている。
彼の功績を称えて、韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用い、同様の理由でテコンドーの型にも彼の名は用いられている(国際テコンドー連盟4級で習得する安重)。また伊藤博文暗殺から100年にあたる2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催された。
伊藤 博文(いとう ひろぶみ)は、周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。1909年、ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺された。
反目しあう国家間、民族間においてはこちら側から見たテロリストが相手側の英雄だったりする。歴史認識と一口には言うがなかなか難しい問題なのである。
ところで、韓国の独立記念日、所謂、光復節(カンボッチョル)は1945年8月15日と言うことになっているが大韓民国の本当の独立日は1948年8月13日である。因みに日本がサンフランシスコ講和条約に調印して国家主権を回復したのは1952年4月28日のことである。
光復節(カンボッチョル、日本からの独立記念日)は、8月15日と思っている方もいるだろう。しかし韓国の本当の独立日は8月13日が正しいのだ
昭和20年8月15日、日本の無条件降伏に伴い、当時の朝鮮総督、阿部信行・陸軍大将と、朝鮮軍司令官、上月良夫・陸軍中将の二人が、朝鮮総督府から日章旗(日の丸)を下ろし、太極旗(現・韓国国旗)を掲揚させると共に、朝鮮建国準備委員会を結成させ、朝鮮に自治権を付与した。つまり、終戦の日、朝鮮は「自治権」を獲得したのであって、決して日本から「独立」したのでは無い。
このように、終戦と同時に韓国は日本から自治権を与えられたが、その自治権も、同年9月8日、米軍が南朝鮮(後の韓国)に進駐してくると、解消されてしまう。進駐してきた米軍は、ソウルの空にはためいていた太極旗を引きずり下ろし、再び日章旗を掲揚させたのだ。
つまり、1945年8月15日以降も韓国は日本の領土(アメリカ軍政下)だったと、アメリカ軍から言われてしまったのである。
そして、進駐の翌日(9月9日)、連合国軍最高司令官 ダグラス=マッカーサー元帥が、南朝鮮に対して、アメリカによる「軍政」を布告、ソウルの空には星条旗(アメリカ国旗)が翻(ひるがえ)る事となったのだ。つまり、韓国の前身 ── 南朝鮮は、終戦の日、日本から「独立」すること無く、今度はアメリカによる「軍政」の下に置かれる事となった訳で、8月15日は、決して「祖国の解放」(独立)等では無いのだ。 沖縄同様、アメリカの軍政下にあった南朝鮮が「独立」を達成したのは、終戦から3年後の昭和23年8月13日である。つまり、韓国にとって本当の意味での「祖国の解放」(独立) ── 「光復節」は、8月13日だった訳である。
1948年8月13日に韓国はアメリカ軍から独立を認められた。日本から独立したわけではない。当時の日本はオキュパイドジャパンつまり占領下の日本であって韓国を独立させる国家主権は存在していなかったわけである。
と、いうわけで、韓国は8月13日が本来の「独立記念日」であるのにもかかわらず、敢えて、8月15日を「光復節」としたのには、多分に「政治的配慮」が働いていたと言う事だ。つまりわざと日本の無条件降伏の日に独立記念日を重ね、韓国が日本の植民地支配より開放されたとすることによって愛国心を煽ったのである。この点を知っておかないと歴史問題が重要なキーワードになる日韓関係に大きな過ちを残すことになるだろう。
歴史認識を云々する前にこのような姑息な手段を改めて8月13日を光復節なり独立記念日なりにしたほうが正しい歴史認識といえるのではないだろうか。