池井戸潤の小説に続いて、葉室麟の時代小説に夢中になっています。
最初に読んだのは、2012年に直木賞を受賞した「蜩の記」でした。
藩の要職にあった主人公:戸田秋谷は、前藩主の側室と密通した罪で、十年後の切腹と 歴代藩主の事跡の記録をまとめることを命じられます。幽閉された主人公のもとで、その監視と記録の手伝い、密通の真相の究明を命ぜられたのが、壇野庄三郎です。壇野は友との間に不始末を犯し切腹となるところでしたが、その引き替えに家老の指示で秋谷のもとへ遣わされました。物語は、この壇野から見た秋谷の姿を中心に描かれていきます。秋谷という人物がどんな人柄や考えの持ち主か、また罪とされた事実が本当のことなのかどうか、その背景にどんな企みが隠されていたのかが、壇野の視点を通して明らかにされていきます。その過程で、壇野自身が変わっていきます。秋谷という人物を知り、真実が明らかになることで、自分に課せられた役目を越えて、秋谷への信頼と敬愛の念を抱くようになっていきます。そんな壇野の思いに、読み手である私も深い共感を覚えました。
助かる道もありながら、それは未練とみなして切腹を受け入れる秋谷、その姿を見守る家族の悲しくも辛い思い、秋谷という人物を慕いその死を惜しむ人々の思い、最後の場面ではそれらが蜩の鳴き声と共に重なり合って心に響いてくるような気がしました。
歴代藩主の事跡をまとめた三浦家譜ができあがり、切腹を前にした秋谷が、心をよせる慶仙和尚と対話する場面があります。家譜が仕上がり、娘の祝言と息子の元服を見届けた秋谷が、この世に未練はないと語ると、和尚は「それはいかぬな。まだ覚悟が足りぬようじゃ」と語り、さらに
「未練がないと申すは、この世に残るもの者の心を気遣うてはおらぬと言っておるに等しい。この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が生き暮れよう」 と諭します。
生きることと死ぬことの意味を深く問いかける 心に残る言葉だと思いました。葉室麟の書かれた他の物語にも、こういった心に残る文言が織り込まれています。
~『秋月記』 より~
「山は山であることに迷わぬ。雲は雲であることを疑わぬ。ひとだけが、おのれであることを迷い、疑う。それゆえ、風景を見ると心が落ち着くのだ。」
~『いのちなりけり』 より ~
「ひとは生きて何ほどのことができるか、わずかなことしかできはしない。山に苗を一本植え、田の一枚も作ることぐらいのことかもしれない。しかし、そのわずかなことをしっかりとやることが大事なのです。ひとはなぜ死に、つぎつぎ生まれてくるのか。一人がわずかなことをやりとげ、さらに次の一人がそれに積み重ねていく。こうして、ひとは山をも動かしていく。ひとはおのれの天命に従う限り、永遠に生きるのです。そう思えば死は怖れるに足らず、生も然りです。」
~『潮鳴り』 より~
「落ちた花は二度と咲かぬと誰もが申します。されど、それがしは、ひとたび落ちた花をもう一度咲かせたいのでございます。それがしのみのことを申し上げているのではございません。それがしのほかにもいる落ちた花を、また咲かせようと念じております」
「所詮は高望みだな」
「さようかもしれません。ただ、二度目に咲く花は、きっと美しかろうと存じます。最初の花はその美しさを知らず漫然と咲きますが、二度目の花は苦しみや悲しみを乗り越え、かくありたいと咲くからでございます」
時代小説でありながら、人としての在り方や生き方を問う『哲学書』のような側面を持った小説であることに、魅力を感じています。また、登場人物の人柄や志、愛する人への一途な思いにも深い共感を覚えます。全作品を読みとおしてみたいと思っています。