由良三郎 (1921-2004)は晩年になって小説を書き始めた推理作家である。処女作「運命交響曲殺人事件」で第二回サントリーミステリー大賞 (1984)を受賞した。その他、『ある化学者の殺人 』( 1985)、『象牙の塔の殺意』(1986), バイアグラ殺人事件 (1999)など多数の作品がある。本名は吉野亀三郎。東京銀座生まれで、旧制第一高等学校から東大医学部に進学した。卒業後は、横浜市大教授を経て、東大医科学研究所ウイルス学教授をつとめ、1982年に定年退官している。れっきとした医科学者であった。
この人の著に『ミステリーを科学したら』というエッセイ集がある。推理小説に登場する殺人などのトリックを話題にまとめたものである。この中に「権威」という掌編があり、読んでみると東大医学部教授の悪口がたくさん述べられている。以下引用する。
『平成二年三月八日の新聞を読んでいたら、驚くべき記事にぶつかった。それは、厚生省の中央薬事審議会が、唾液腺ホルモン注射剤パロチンの老人性白内障などに対する効力を再検討した結果、無効と断じたので、この薬の製造販売は中止され、一ヵ月以内に製品は回収されることになったという発表である。唾液腺ホルモンというのは、故東大名誉教授O博士が発見したもので、氏はその化学構造も決定し、さらにそれが骨の生成を助けるなどの生理的作用があることも見出だし、それら一連の発見により昭和十九年に帝国学士院賞恩賜賞、昭和三十二年には文化勲章を受けられているのである。その製品はパロチンという名で発売され、国内のどの病院でも採用され、広くいろいろな方面に応用されていたはずである。それが全然無効だというのだ。これが驚かないでいられようか!もっとも、この薬に関しては、どうも理解できないことが多々あった。その一つは、それだけ立派な発見であるのならば、当然世界中の医学教科書に紹介されていなくては嘘なのだが、それから五十年近く経った今日までどんな外国の医学書にも出ていない。外国の病理学の専門家に訊いても、誰も唾液腺ホルモンというものの存在を知らないのである。あまり変なので、昔O博士と共同研究をしていたK博士に尋ねてみた。K博士はO博士の指導を受けて唾液腺ホルモンの骨生成促進作用を研究し、連名で論文を発表している。そのK博士は、「唾液には気を付けなくてはいけないよ。昔から怪しい話は眉に唾を付けて聞けと言うじゃないか。私としてはそれ以上は教えられない」と答えられた。なんだか釈然としない話である』(以上引用)
ここに出てくるパロチン(parotin)は耳下腺から唾液とともに分泌されるペプチドホルモンで、骨の発育、白内障の予防、老化防止などの作用を持つといわれていた。これの発見と薬の開発は緒方知三郎 (1883-1973)、すなわちO教授であった。緒方洪庵の孫で1954年にパロチンなどの成果で文化勲章を受けた。当時の内分泌学界での最高権威であった。昔に発見された薬で20年以上生き残るものは少ない。新しい薬が開発されるためもあるが、「権威」者が亡くなったころに、童話の「裸の王様」に出てくる子供達のような医者が「効かない、役に立たない」と言い始めるからである。しかし、この緒方の弟子というK博士の話は本当だろうか?由良の『権威』の中には、他にも効かない薬として、やはり東大医のT博士とA博士が開発した強心剤Vの話などが出ている。なんとも情けなくなってくる。
由良はさらに『教授会』というエッセイでも東大医学の教授の悪口を露骨に述べている。教授会での人事選考におけるK教授の信じられない発言記録である。。
私も決戦投票ではAに一票を入れようと考えていた。彼の業績が他の二人より優れていると判断したわけではない。私にはそんな判断は無理だった。ただなんとなくそう決めたのである。強いて理由を挙げれば、Aを個人的に知っていたことと、他の二人には面識がなかったというだけのことだ。恥ずかしながら、こちらもあまりまっとうではなかった。そのときK教授がさっと手を挙げて発言を求めた。彼の言葉をできるだけ忠実に再現してみよう。それはこうだった。「どうも皆さんはAくんを推しているようだがね、僕はあいつみたいな人格劣等な男を、この教授会の一員に迎えることには、絶対に反対なんだ」これには一同もびっくり。さすがに議長が厳しいロを利いた。人格劣等とは聞捨てならないが、どういうことからそう言うのかと。するとK教授が眉間にしわを寄せつつ、ではお話ししましょう、と言って語ったことを聞いて、一同はまたまた驚いた。
「あいつが大学を出て、ここの助手として就職してきた直後だった。今から二十年も前の話さ。ここで恒例の秋の運動会があった。そのと特も最後の種目は全員参加の紅白玉入れだ。用意ドンで、一方は白、もう一方は赤の玉を宙吊り瞳に投げ入れる。そして、何十秒かの後に、止めの合図の空砲が鳴った。さあそのときだよ、諸君! ……Aはこそこそと簸に近付いて、手にした赤い玉を二つも簸に放り込んだのだ。……審判員が一人ずつ赤白の龍に付いて、龍から玉を出すと、皆が声を揃えて数える。なんと、その結果は、赤が一個多くて、赤の勝ちだった。僕は白だったので、実に残念だった。そのときの悔しさは、今でも忘れられないよ」
面食らってきょとんとした議長が、人格劣等説の根拠はそれだけか、と念を押して質ねると、K教授はしかつめらしい顔でうなずいた。さすがに、どの教授も、この話には付いて行けなかった。そして投票の結果は、Aが当選した。Aの名誉のために断っておくが、彼は稀に見る人格者であって、どんな人にも愛想がよく、その点大学教授としては例外的と言ってもいいくらいだ。むしろ、どっちかと言ったら、K教授のほうがよっぽどおかしかった。だがそのK博士も亡くなられてからすでに久しい。ついでに追加すると、K博士は日本で最初にある学会を創設した功労者で、その道では世界的にも有名な学者だったのである』(以上引用)
1960年代の大学紛争の頃、団交で大学教授が世間の常識に外れた発言をするので、学生は彼らを「専門バカ」と呼んだが、パロチンの話は「専門もバカ」だったのではないかと思わせる。しかしながら当時においても、東大の先生だけがバカだったわけはなく、他の大学の先生はもっとバカだったのだろう。ただ、東大というそびえ立つ「権威」のために、世間や学会に与えた迷惑も大きかったようだ。こういった「権威者」が死んでいなくなるまで、効かない高価な薬を飲まされつづける一般庶民こそ、いい迷惑だった。
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