さすが、養老先生は「解剖学の権威」にして「知の巨人」であります。
その死生観を聞いていると、胸の痞えがスッキリ取れてしまいます。
「自らの死体を見ることができないように、自らの死を認識することはできない。当たり前だが、自分の死は自分の生き方に何の影響も与えない。個々人にとって『自らの死』は意味を持たず、まぁどうにでもなってくれといった事象。それを考えても仕方がない。いつか必ず人間は死ぬが、その時まで今を大切に生きていけば良い」
「あなたの死はあなたにとって意味を持たないが、家族や友人など周囲の人々にとって意味を持つ。悲しい、寂しい、あるいは死後に隠し子が出てきて大騒ぎが起きて、その迷惑に怒りがこみ上げたりと、周囲の人々にとって、その死は影響を与えるもの」
「一方、赤の他人にとっては、その死はまた何の意味も持たない。あ、そう・・という感じで、すぐに忘れ去られる。したがって、人の死は、「一人称」でも「三人称」でもなく「二人称」なのである」
この考えを聞いて、自分も『終活』の意味を考え直しました。最初は、自分がやり残したことをやり尽くすことばかり考えていましたが、もちろん、それも重要ですが、それ以上に重要なことは、家族や友人に迷惑をかけないように、できることは事前にすべて「整えておく」こと。これをしておかないと、自分が死んだときに、大事な家族や親せき、親しかった友人たちから「ろくでなし!」と罵られることになります。
死んだあとなのだから、それはそれで良いのかもしれませんが、少なくとも、死ぬ直前まで、そのことが気になって安らかに死に切れません。
という訳で、ワタクシの場合、まずは、「お墓」であります。
自分は次男なので「お墓」がまだありません。(続く)