今年は「間質性肺炎」の宣告を受けてから、真剣に「終活」を考えて行動するようになりましたが、「終活」というとやはり、「宗教」に関しても気になることが多く、特に宗教家、例えば仏教の僧侶の方とか、プロテスタントの牧師の方のお話を聞きたくなって参ります。
当たり前ですが、人間が「死」に直面すると、「死んだらどうなるのか?」という疑問というか、不安に駆られるので、これに対して、腹に落ちるようなお話が聞きたくなるのが人情。
仏教だと「輪廻」といって、次から次へと、別の生き物に生まれ変わっていくという世界観ですから、「目の前の死に拘っても仕方ない、だから1日1日を大事に生きていこう」ということになります。
また、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教のような唯一神の世界観では、「最後の審判」で天国へ行くか地獄へ行くかが決められてしまいますから、「毎日毎日生きてる間は、とにかく善行を尽くすことに注力する」となります。
まぁ、そういう風に安らかに死を迎えられる仕組みが宗教の意義ですから、そのあたりは良く出来ている訳であります。
しかし、どうしても腹に落ちないのが、聖書やコーランに書かれた内容の中で、動物に関する下り。
旧約聖書の中で、楽園にいたアダムとイヴを誘惑して「善悪の知識の実」を食べさせたのが「蛇」。その結果、人類は今のように働かなければいけない生活を余儀なくされるのですが、神の掟に背いた罪によって、蛇は現在のような手足のない醜い姿になったとあります。でも、蛇の姿はけして醜くないですし、蛇は蛇で、地球の生態系の中で重要な役割を担いながら、一所懸命に日々生きている動物。何で蛇だけが、忌み嫌われる存在と位置付けられているのかが疑問です。
また、イスラムのコーランでは、豚肉は食べてはいけないものと指定されて書かれており、その理由を「豚は不浄な生き物だから」とイスラム教徒は考えています。でも、豚はもともと、人間が猪を家畜化した動物であり、豚を不浄と言うならば、それをブリードした人間も不浄だということになります。
どうも、キリスト教における蛇の扱い、イスラム教における豚の扱いには、納得できないものがあります。だいたい、この世界の創造主たる神からすれば、すべての生き物は神の創造物であって、忌み嫌われるべき生き物などは存在しないはず。どう考えても、この動物に関する聖書やコーランの下りは「?」としか思えません。
神は間違いなど行いません。またけして間違ったことも言いませんから、こうした下りが聖書やコーランに残っているのは、「預言者」が聞き間違えたか、思い違いをしたかということになります。高貴な預言者と言えども、人間ですから、間違いは必ずあります。
そうした間違いは「後世で修正して良い」としないと、間違った教えが永遠に残ることになってしまいます。にもかかわらず、「後世による修正」が許されないのが宗教の世界。
こういうところで、気持ちが萎えてしまうのです。
所詮、人間が作った便利な仕組みが「宗教」。国境を越えて人間を支配したり統治するための便利な手段。ある意味、法律や倫理よりも使い勝手が良く、一度浸透させてしまえば、代々自然に伝承もしてくれる便利な集団管理システムであります。
そう考えると、「終活」の中で「宗教への帰依」は優先順位が低くなってしまいます。
自分には、最後まで関係のない世界かもしれません。