7月の初めに(このブログにも書いたが)
「ホ・オポノポノ」を<それなり>に理解して以来
この夏、自分流に実践してきた。
「ホ・オポノポノ」を<それなり>に理解して以来
この夏、自分流に実践してきた。
簡単に作れるということでブルーソラーウォターを
(綺麗なブルーのガラス瓶に水を入れ、それを太陽光に当てて)作り
毎日飲んだり料理に使ったり
たくさん作れた時には洗濯等に使ったりした。
まあ適当ではあるが。
(綺麗なブルーのガラス瓶に水を入れ、それを太陽光に当てて)作り
毎日飲んだり料理に使ったり
たくさん作れた時には洗濯等に使ったりした。
まあ適当ではあるが。
人を、自分を、「許す」ということ
人に、自分に、「愛を送る」ということが
非常に深い意味で言われ、
「それはどういうことか」自分なりに長い時間をかけて
感性や知性の深いところでで理解することが出来てきつつあったが
では「どうすればいいのか」が非常に難しかった。
人に、自分に、「愛を送る」ということが
非常に深い意味で言われ、
「それはどういうことか」自分なりに長い時間をかけて
感性や知性の深いところでで理解することが出来てきつつあったが
では「どうすればいいのか」が非常に難しかった。
「ホ・オポノポノ」は
「自分の前に現れる現実は全て自分が創っている」
ということの理解を前提とした上で
(きちんとした理解は高レベルにすぎるので、まあ理解できてなくても
いいのだろうが)
「自分の記憶の滞りをクリーニング」していくというもの。
クリーニングの方法は自分の記憶の滞りに対して
例えば「ごめんなさい」「許してください」
「愛しています」「ありがとう」を言うだけ!
「自分の前に現れる現実は全て自分が創っている」
ということの理解を前提とした上で
(きちんとした理解は高レベルにすぎるので、まあ理解できてなくても
いいのだろうが)
「自分の記憶の滞りをクリーニング」していくというもの。
クリーニングの方法は自分の記憶の滞りに対して
例えば「ごめんなさい」「許してください」
「愛しています」「ありがとう」を言うだけ!
それらの「言葉」を自分に向けて発していく中で
不思議なことに自分の「意識のベクトル」の方向が
変わっていくように感じる時がある。
「他の人」のことも「出来事」に対しても
「自分」の記憶に向けて「言葉」を発することで
自分の「意識の方向」が知らず知らずに変わるのだろう。
例えば「許す」ということ
「愛を送る」ということの「ひとつ方法」に成り得るような気がする。
「大いなる信頼」のツールとしても。
あくまでも「我欲」を満たすためのものではないところがいい。
不思議なことに自分の「意識のベクトル」の方向が
変わっていくように感じる時がある。
「他の人」のことも「出来事」に対しても
「自分」の記憶に向けて「言葉」を発することで
自分の「意識の方向」が知らず知らずに変わるのだろう。
例えば「許す」ということ
「愛を送る」ということの「ひとつ方法」に成り得るような気がする。
「大いなる信頼」のツールとしても。
あくまでも「我欲」を満たすためのものではないところがいい。
「魔法使いになれた」わけではないが
それなりに効果が現われていると言えば言える気がしている。
自分としては「見守ること」しかできなかったことが
よい方向に向かってきたり
「どうなるか」と心配した出来事が
それなりに上手く行ったり等々。
ツールを使って何処か遠くへ出かける時も
行く道筋に「ホ・オポノポノ」をして出かけた。
そのせいかどうか全て順調だった。
「ホ・オポノポノ」の実践等を通じて
自分の中の意識の持ち方が変わってきたことが大きいのだろうが。
それなりに効果が現われていると言えば言える気がしている。
自分としては「見守ること」しかできなかったことが
よい方向に向かってきたり
「どうなるか」と心配した出来事が
それなりに上手く行ったり等々。
ツールを使って何処か遠くへ出かける時も
行く道筋に「ホ・オポノポノ」をして出かけた。
そのせいかどうか全て順調だった。
「ホ・オポノポノ」の実践等を通じて
自分の中の意識の持ち方が変わってきたことが大きいのだろうが。
と言うことで何れにせよ今にところ
「ホ・オポノポノ」は私にとって
「パワフルなツール」としてとても役立ってくれている。
「ホ・オポノポノ」は私にとって
「パワフルなツール」としてとても役立ってくれている。