母音が主となる日本語の響きは
一部ポリネシア地方に見られるだけで世界でも
他に類を見ない言語体系だと言われる。
それが古代から日本人の感性を培い
日本人独特の脳の働きを耕してきたと言う研究が一時話題となった。
日本語の言霊の響きや言葉そのものに関わっていたくて
折にふれて短歌を詠んできた。
去年の秋からは長年親しくしている友人のお父さんの
主催されている小さな俳句の会にも入れてもらった。
各地に住む会員が投句してみんなでいいと思う句を選ぶと言う形だ。
折にふれて短歌を詠んできた。
去年の秋からは長年親しくしている友人のお父さんの
主催されている小さな俳句の会にも入れてもらった。
各地に住む会員が投句してみんなでいいと思う句を選ぶと言う形だ。
世界最小の定型詩と言われ
「五七五や三十一文字に世界観を込める」
日本の言葉の世界に関わっていたい気持ちがある。
以前は興味はあったが自分とは遠い世界のことと思っていた。
いろいろな会派や決まりごとや権威等が
煩わしかったこともある。
今はそんなことはどうでもいいと思っている。
日本の言葉の世界に関わっていたい気持ちがある。
以前は興味はあったが自分とは遠い世界のことと思っていた。
いろいろな会派や決まりごとや権威等が
煩わしかったこともある。
今はそんなことはどうでもいいと思っている。
そうはいってもあれこれ忙しくしてたり
今年からどうもボイド(空)の時期に入ったらしく
短歌も俳句も全く詠めないと言うか
詠む気にならない状態が続いていたので
あんまり参加できていないのだが・・・
今年からどうもボイド(空)の時期に入ったらしく
短歌も俳句も全く詠めないと言うか
詠む気にならない状態が続いていたので
あんまり参加できていないのだが・・・
ほんのちょっと触れて見ただけの
全く自分の感覚の思いなのだが
俳句の世界は「知」すなわち「精神」の世界。
そこに哲学的感性や真理探究等がある世界のように思える。
客観的な視点がどこかに必要な気がする。
全く自分の感覚の思いなのだが
俳句の世界は「知」すなわち「精神」の世界。
そこに哲学的感性や真理探究等がある世界のように思える。
客観的な視点がどこかに必要な気がする。
短歌や和歌の世界は「情」の世界。
豊かな「感情」の世界だ。
修羅の世界でもある。
いかに客観的に見えようとあくまでも主観的・主体的な世界・・・
「写生」的な短歌であってもそのアタリの違いがあるような気がする。
豊かな「感情」の世界だ。
修羅の世界でもある。
いかに客観的に見えようとあくまでも主観的・主体的な世界・・・
「写生」的な短歌であってもそのアタリの違いがあるような気がする。
いかに和泉式部といえども五七五では
「男心」を捉えることはできなかっただろう。
三十一文字を使ってこその歌の世界だ。
「男心」を捉えることはできなかっただろう。
三十一文字を使ってこその歌の世界だ。
短歌も俳句も詠めなくなっていた原因の一つは
そのあたりがゴチャ混ぜになっていたこと
かもしれないなーといま思う。
そのあたりがゴチャ混ぜになっていたこと
かもしれないなーといま思う。
どちらの世界も
「それら」をはるかに超えた「世界」が生まれた時
「芸術」となり得るのだろう。
時を越えて人の心を惹き付ける表現となる。
日本の風土の中でそうした優れた作品が
どの時代も数多く生まれ
今この時代にもに受け継がれているのだろう。
「それら」をはるかに超えた「世界」が生まれた時
「芸術」となり得るのだろう。
時を越えて人の心を惹き付ける表現となる。
日本の風土の中でそうした優れた作品が
どの時代も数多く生まれ
今この時代にもに受け継がれているのだろう。
風の句
せせらぎに光交わすや恋蛍
口ずさむ枕草子蛍坂
睡蓮に何を語るかみどり雨
散紅葉メロディ奏で流れ居り
散紅葉一陣吹いて軸を成す
皺重ね旨み深みも柿すだれ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます