駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

冬の目覚め

2010年01月02日 | 学思
 年寄り(自覚は中年)の冷や水と揶揄されるかもしれないが、萎縮し始めた脳にも新しい発見がある。ブログを始めて、政治に目覚めた。医師会の仕事などで忙しかった時は非医学系の本にほとんど目を通さなかったのだが、ブログを始めて自分の考えを披瀝する機会ができたら政治的な事柄に興味が湧き、少しではあるが政治社会学的な本に目を通すようになった。
 これはおそらく万人共通の現象で、誰しも五十年生きれば、生きることになにがしかの考えを持つものだ。政治は単に個々の生活圏や人間関係が大きくなったのだけの世界ではないが、明らかに共通する動きや関係性があり、もの申すことが可能になる。
 しかしそれにしては視力の悪い人が多い印象があるのだが、この印象は偏ったマスコミの政治報道によって醸し出されたもので、実際には多くの国民はもっと深く鋭く物事を見ているだろう。
 驚くべきことに政治報道の世界では根拠なくしばしば意図的に物を言うことが許容されているらしい。憶測に基づいた誹謗でも視聴者に受ければ合格という、漫才師もびっくりの基準もあるようだ。食べ物の履歴が検索できるように、報道も書いた人を追跡可能にする必要がある。質の悪い記者ほど取材源の守秘を振り回すだろうが、それは守るとして誰が書いたかは十年二十年と追跡可能にしたい。書きっぱなしを許さず、政治記者の資質を高める必要がある。入社時は優秀でも金魚の糞では劣化は必然だからだ。
 大きな嘘は見えにくい。嘘というと語弊があるので虚構と云うべきか、時として虚妄とも思えるのだが、それを明らかにして行くのは町医者には手に余るとしても、少なくともそれに気付いていたいと思う。
 エイゼンシュタインのモンタージュ手法もどきの見え透いた鳩山小沢を筆頭とする民主党を貶める報道など、何のために誰のためにと不思議な気がする。
 とまれ、今はインターネットがあるのでこれを活用し、事実を追って行きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町医者は考える

2009年01月16日 | 学思
 町医者の仕事は取り留めもなく収束することがない。あれこれ様々な繰り返しで、しばしば中断を余儀なくされる。臨床では次どんな患者が来るか何時呼ばれるか予測しがたい。なんだ俺の私の仕事に似ていると思われる方も多いだろう。抜きん出て人を制するのではなく、広範囲を対象に蛇行しながら平衡を保ち、こつこつと歩き続けて行く仕事だ。
 こうした仕事のあり方と心持ちは実は社会の健康に欠かせないと思っている。誤解を恐れずに言えば、単純な目標を設定しひたすら努力邁進することは、必ずしも難しい仕事ではないと思う。たとえばある物を一番多く売るという使命設定はそれだけを最優先に生活することを正当化し、悩むことや迷うことを排除し極端に言えば善悪さえ捨象してしまう。実際に一番になれれば確かに凄いことではあると思うが、それでもそれが即立派なことにはならないだろう。立派だと賞賛に値するかは一番になった後に明らかにされてゆく性質のことのように思う。
 たった一つの目標を定めて突き進むことは、抜きんでた仕事を達成するために時に必要な方法だが、逸脱挫折切り捨ての温床になる危険性を孕んでいる。生きることに唯一単純な目標などありはしまい。多種多様の人が生きる社会では広い視野を保ち、辛くも平衡を保つことが(天才は別かもしれない)、普通の人には求めるられていると思う。簡単な答えや単純な目標に潜む陥穽に気付き、自分の知らない世界や理解できない世界の存在を認める謙虚さを忘れてはならないと町医者は自戒しつつ考える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人感はさまざま

2008年10月16日 | 学思
 健常人は誰しも見る聞く嗅ぐ味わう触るという五感を持っている。中に生来か訓練の賜か、特別に研ぎ澄まされた感覚を持つ人達が居る。例えば旋盤工や外科医の中には僅かな滑らかさの違いを指先で感じ取れる熟練者がいるし、指揮者の中にはオーケストラの演奏中にどの楽器の誰がミスしたかを聞き分ける人もいる。臭覚味覚視覚にもそれぞれ特に優れる人達がいる。
 こうした知覚と同列に扱ってよいか多少疑問だが、感覚として捉えられるものに女の感、第六感そして個人感(駅前医者造語)がある。女の感は恐らく雌が子孫生存のために雄を囲い込もうと備えている感覚(異論もあると思う)ではないかと思う。第六感は恐らく知識や経験の積み重ねで習得される思考の閃きのようなものだと思う。女の感や第六感は有益なことが多い?が、逆に現代では視野を狭くしかねないので注意が必要なものが個人感とでも呼びたい感覚である。
 個人感と仮に名付けた感覚は個人の体験からその事象が置かれた位置感覚のことで、その人の見方考え方というべきものだが、瞬時に意識されずに判定されるので感覚と呼びたい。たとえば眼がぱちりと大きい女性を事務員に雇用したら役に立たなかった経験を繰り返すとあの目は事務に向かないと感ずるようになる。健康診断で高血圧を指摘されても自覚症状がないので放置していたら脳出血で倒れ、幸い大きな後遺症もなく回復すると、血圧が病気の根源のように感ずるようになる。こうした個人的な体験から学ぶことはその人が生きて行くのにきっと役に立つことなのだと思う。しかしそれをあまりに普遍化されると、いろいろ問題が出てくる。
 偏りなく体験するには人生は短く、人は遺伝的に個性的でしかも異なった環境の中で生きている訳で、あなたがそうだからみんなもそうとは限らない。自分の体験から得た感覚を誰にでも当てはめて説こうとする人は女性や芸能人に多い。こうした人達は影響力があるので困る。血圧に細心の注意を払っていても大腸癌で死んではつまらない。 
 狭い範囲では正しいことも広い範囲ではしばしば間違っている(不十分である)ことがあるのを分かって欲しいと、患者がみんな帰った後で思うことがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修行と研修

2008年08月09日 | 学思
 包丁一本さらしに巻いて板場の修行と言うが、板場の研修とは言わないようだ。
 国家試験に合格し第*****号の医師免許を取得しても、本人はもとより誰も一人前の医師とは認めない。ほぼ一人前の力量を付けるには、専攻科や才能によって多少の長短はあるが、まあ4,5年の修行が必要だろう。
 研修と言わず修行と言ったのは、時代錯誤かもしれないが、医師が一人前になる過程にそうした要素があった方が良いと思っているからだ。現在は卒後教育として研度医制度と呼ばれるシステムができており、きめ細かいカリキュラム従った教育が大学や総合病院でなされている。そこでの研修に修行の要素がいくらか残っているだろうか。
 研修と修行とどう違うかと改めて問われると、なかなか説明が難しい。修行には自発的精進で多少の理不尽には耐えて頑張る姿勢を感じ、研修には自律的研磨で定められた項目を滞りなく納める姿勢を感ずる。どうも取って付けたような説明だが、まあこれは私の個人的見解だ。
 古くさいかもしれないが、修行にまつわる薫陶や禁欲が技術の習得に必要と思っている。時には反面教師の臭い薫陶もあるかもしれない。禁欲というのは実は何よりもの食前酒である。まあそうして光と陰があるのだが、技術は人から学ぶと身に付き、基本の伝承には曰わく言い難きというか問答無用の部分があるので、今の卒後教育にも修行の要素があればと思う。
 もっとも嘗ての指導医がこれを読まれれば、あの生意気だったお前がそんなことを、と苦笑されるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もっと広く生きよう

2008年06月07日 | 学思
 NHKの囲碁将棋の番組を楽しみに見ている。ザルでヘボなのだが、解説付きなら楽しめる。十回に一回くらいは手が当たるのも嬉しい。将棋のルールは小学校の時から知ってはいたが、周囲に指す人がおらず、回り将棋や将棋崩しをやっていた。碁は地方の総合病院に赴任するまでルールも知らなかった。昼休みにやられているのを横目で見ていたら、先輩が手ほどきしてくれて打ち方を知った。
 少し根を詰めてやったのは開院後2年ほど。医院が最初閑古鳥が鳴いて暇だったので、町の道場に通った。四十半ばと年を取っており、それに才能もなかったようで大して強くなれなかった。忙しくなったのと勝負ごとはあまり休養にならないと感じることがあり、自然足が向かなくなった。どうも観戦するのが一番良いというのが私の場合の結論だ。
 矛盾したことを言うようだが囲碁将棋の世界は狭いが、そこで世の中の広さを知った。学業の成績も良かったし、なんだか「先生」と呼ばれるので、優秀のような錯覚に陥っていたが、囲碁将棋では中学生といい勝負、下手をすると小学生に負けてしまう。大変失礼な言い方だが大工さんやタクシーの運ちゃんにも強い方がいて、ころりと負けてしまう。世の中には表面に現れない様々な才能があるのだと驚いた。同時に、いろんな才能が狭さと偏りのために生かされないことがあると気付いた。本当はある程度生かされてはいるだが、妥当な評価を受けていないと言った方がいいのかもしれないが。
 この体験は仕事にも役立った。もっと広く生きることをそれとなくお話しすることがある。病は気からは今も真実で、狭い世界に囚われていると病気が忍び寄る。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする