駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

茂木さんへの手紙

2008年05月14日 | 学思
 本屋に溢れる本には食指が動かない質なので、茂木健一郎さんの著書を読了したことはなかった。しかしながら、テレビで御本人を見て親しみを感じたので、一冊くらいはと思い、今回海外旅行の機中用に「脳内現象」を持参した。既視感について触れてあったが、自分はこの本の内容に既読感を持った。どこか岸田秀の壊れた本能に似ているように思ったのだ。文科系と理科系の違い、こういう分け方は粗くて本質を外すようで好まないがお二人の背景とアプローチの差を端的に言えば文系と理系と言えそう、があるが指摘されていることがどこか似ている??と思った。
 それともう一つ、遠い昔35,6年前研修医の時、自分が考えた事を思い出した。意識というのは脳の発振ではないかと考えたことがある、馬鹿なことをと神経内科の医師に一蹴されて、あまりにプリミティブで思い付きに過ぎないとすぐ捨てたのだが。今度は脳内現象を読んで意識はビートではないかと思い付いた。つまり記憶と現情報入力とのずれを脳は意識として捉えているのではないかというわけだ。現時点の情報入力で何らかの刷新があればそれが意識となる?。
 覚醒を最新脳科学がどのように定義あるいは理解しているのか不案内だが、覚醒している時、脳は今までのすべての記憶を常にオンしているのではないかと思う。ちょうど体細胞一つ一つすべてがゲノムを持っているように。旧い記憶を思い起こすと感じるので、どこかに格納されているのを取り出すように思えるのだが、実はすべての記憶は覚醒している時は常にオンの状態にあるのではないか。暗闇で探すのに手間取ることはあるにせよ。
 クオリアというのは詮ずるところ、記憶に由来すると思う。脳に世界の情報が蓄積されてゆけば、それがクオリアの元、クオリアはリファーされて生ずると思う。
 ものの名前というか言語というか概念化というか、これが人間が膨大な情報を蓄積し利用できる鍵だと推測する。まとめる能力の不思議にも脳科学は取り組んでいると思う。もの凄く難しく面白そうだが不勉強でよく知らない。遺憾ながら論文があっても、もはや十分には理解できない気がする。既に理解とは何かもよくわからないくらいだから。
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十万億土 第二歩

2008年05月13日 | 学思
 「もう棺桶に片足突っ込んでますから、はっはっは」。という爺さんが時々おられる。そうねえ、確かにと思いながら「いやまだ、そんな」。とお答えしている。こういうことを言われる方は実はまだまだ体力知力気力に自信をお持ちで、弱ってきたと言うより、片足以外はまだまだ元気だぞというメッセージなのだ。
 医者から見ると、この片足というのはあまり正確ではない。残りの部分が健全のように聞こえるからだ。命尽きるのはやはり蝋燭の火が消えていくようにという方が実態に近いように思う。部分でなく全体が少しづつ衰弱してゆくのが、黄泉への道程に見える。脳死か心停止死かが騒がれたことがあったが、畳の上の大往生では問題にならない。どちらももう向こう岸に着いているのだ。十万億土は絶対の音信不通、不可逆の距離を表現しているようだが、実際の道のりを表わしているような気もする。半分死んでいるなどと言うと、不謹慎なと言われる方がおられると思うが、本当にそう感じることがある。何と言っていいかわからないが、もう生きているのとは違う状態が訪れる。「立派なお庭ですね」。「そうさなあ」。とまるで月からの返事のように僅かな遅れがある。ゆっくり少し他愛もないことをお話しするのだが、どうも何か不思議な感じがつきまとう。意味というか意義が感じにくく内容に厚みがない。ああもっときちんとしたことを話した方が良かったかなと思っても、何を言えばよいのか。そっと手をさすって、二万億土の宙に浮く患者さんのそばから離れる時、僅か数十センチの空気が重く粘っこく感じられることがある。
 生きている者、まして元気で生きている者が死を語ることは難しい。臨終の床を辞する時、生きているお前はどう生を全うするかを考えなさいと言われているように思う。
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十万億土 第一歩

2008年03月25日 | 学思
 記録に付けて数える趣味はないので、もう何枚死亡診断書を書いたか定かではないが400枚近いと思う。その多くは何ヶ月も何年も経過を診ての別れだった。何枚だなどと不謹慎と思われる人もおられるかもしれない。しかしだから耐えてこられた面もあるので許して頂きたい。
 一般の方の百倍以上死と立ち会ってきたが、死が一体どういうものか他の職業人より、深く理解できたとはとても思えない。ただ、死にゆく過程をたくさん身近に診てきたので、実際がどうゆうことかはよく知っている。
 心象としては死は生きている者には永遠の音信不通にして唯一絶対そして不可逆の出来事、死んでいく者にとっては突然あるいは緩慢な解消というか消滅なのだろう。亡骸というが、解消消滅するのは意識、もっと言えば精神あるいは魂、つまりはその人と思う。亡骸に取りすがって、どんなに泣いても悲しいばかり、それでも涙があふれてくる。無能の医者として号泣の中、何度立ち尽くしてきたことか。
 尊厳死が話題になるが、それは生きている社会の言葉、そして待遇の問題に感じる、尊厳生はあるかもしれないが、それはこちら側のこと。死はそうした生きている者の都合を冷たく無言に拒絶している。
 書きにくい言いにくいことだが、死ぬのは人間には凄く大変なことだ。
 楽しい話題ではないかもしれない、しかし決して向こう側を見ることのできない鏡を見て、生を知ることができるように思う。折に触れて、また書いてみたい。
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昔聞き、今わかる

2008年03月10日 | 学思
 昔聞く 洞庭の水 今上る 岳陽楼 と 杜甫は詠った。自分が還暦を過ぎたなどとは信じ難いが、ああこのことかと思うことが多くなった。寿命というのは、天命としか言いようがないが、人生八十年の時代にも六十年を生きることができたのは僥倖と思う。親の恩を知ることができた。孫の顔を見ることができた。人生を味わうことができるようになった。
 話せばわかるとは限らないが、年を取ればわかると言えることはことは多いと感じている。逆に言えば若い人にはわからないことがある。夭折の天才といわれるような人の中には若くして老成した視点を持った人も居るようだが、若い人にはわからなくて、それでよいと思う。三十年もすればやがて解けるようにわかる。
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