駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

痴呆から認知への疑問

2008年01月29日 | 医療
 痴呆症という言葉には知能が低下し人格も崩壊してきて駄目になったというような語感があるようで、認知症という言葉に代わった。嘗て正常な知能と立派な人格を持った人がそれを失った時、痴呆とは呼びたくないという近親者の気持ちは理解できるが、それでは認知というのはどういう意味なのだろうかと考えてしまう。心地良くない名称を他の言葉で言い換えることで、重要な問題との正対を避けるのは、言霊の国の得意技なのだろうか。しばしばそうして難問を先送りにして、手遅れにしてきた歴史があったように思う。手遅れに敏感な医師としてはちょっと立ち止まって考えてみたくなる。
 認知という言葉も、元来の意味は哲学者や心理学者が使い続けるとしても、変容してしまった。
 やはり新しい言葉を充てるべきだったのではないかと思う。
 認知症の人の中には、志ん生並に飄逸な人が居る。記憶力の低下と想起力の低下を実に上手くはぐらかしてしまうのだ。「お年はおいくつですか」。「うーんと、先生はおいくつ」。「もう59ですよ」。「お若いねえ」。などと。非常に自然に逸脱するので、新米看護士などはころっと騙されてしまう。騙すこつ、騙すというとちょっと人聞きが悪いが、は本人もそう信じていて騙す気がない(ように振る舞う)ところにある。認知の人には騙そうという魂胆がないから、聞き手が架空の話を信じてしまいやすい。
 こうした飄逸なところの逸と痴呆の呆を取って、「呆逸症」というのでどうかと私は思っている。痴呆の痴が特に嫌われているのではないかと思うので呆は残した。惚もほうと読むので聞いた感じも病態を連想させるし、響きも悪くない。逸には優れるという意味もあるので、劣るという連想が避けられそうだ。もちろん、町医者に諮問は来ないので、暇にまかせた言葉遊びなのだが。
 格調高い認知もいづれ「親父、ちょっと認知が出てきましてね」。「母はもう認知がかっていますから」。などと使いこなされ、痴呆とまではゆかなくても、実態に即した位置に納まって行くと思う。命名者も進行した認知症の患者さんをご覧になれば、認知という言葉はどうもと思われるのではないか。
 最後に筆者からお読みになった方へのお願いです。開業医に代わる良い言葉を考えていただけませんか。GPとかいう横文字ではなく、日本語でもっと我々の機能を表した言葉を。素敵な新語が出来れば、ここから発信してみたい。
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