今手許に本がないので正確な言葉を書き写すことは出来ないが、辻まことの言葉に確か優れた仕事は、学歴や役職など全ての付帯物を取り去ってもなお傑出した人に依って為されると云うのがあったと記憶する。それは城山三郎の粗でも野でも構わんが卑では困るという見解に通じるものだろう。
衆愚政治を避ける鍵は、人物の真贋適応を見破る眼力にあると思う。難しい理論を理解し該博な知識を身に付けることや米俵を担ぐ膂力や箱根の山を駆け上る体力を持つことは一部の選ばれた人達だけに恵まれることではあるが、人の真贋適応を見分けることは誰にも辛くもそして漸くではあるができるのではないか。
それでも、なんというかとどのつまりは善悪虚実賢愚はいつも五分五分、果たしてどうなってゆくのだろうかと危惧している。
菅という人はリーダーとしての力不足を露呈したと思っていたが、どうも卑しいところが垣間見えてきたと感じるのは私だけだろうか。
世の真実を追い求め、その力の一分でもいい、なろうとする人物にとってこれほど励みになる言葉はないと思います。
日本人は自分も含め、お上至上主義の意識が根強く善悪虚実賢愚がどうあれ「上が言った事」を絶対としそれに従う習性が強いと思います。
何かを成そうとするとき、その人物の肩書、立場、挙句は学歴までが問われる・・。
健全な社会建設にとってこのような考え方ほど大きな損失になるものはないと思います。
昨年「ニセ医者と呼ばれて 沖縄・ 最後の医介輔」のドキュメンタリー番組を見ました。
医師免許を持たず、それでも地域の人々の病苦を救うために黙々と医療に徹してきた医介輔。
その過程にはどれ程の屈辱と圧迫があったかと思います。
それでも医療を続けてこれたのは、人々の「病苦から解放された笑顔」であり、感謝の心であったのではないかと思います。
ひょんな事から医師のブログに迷い込み、今迄自分にとって聖域であった医療の世界を垣間見て、医療は万能ではない事、患者の立場医師の立場が違い医師にとって医療はある意味命がけだという事、切ないほどに患者を思い、それでも報われず患者や家族から罵倒され傷つく医師、医師の過酷な労働、今の医療がその過酷な労働と医師のモラルによって支えられている現実、医療問題を改革するために情熱を傾ける医師、それらを知るほどにどんな世界も冒頭の言葉を貫く人物が必要なのだと思いました。
「善悪虚実賢愚はいつも五分五分」・・本当にそう思うことが多いですが、それをコントロールするのは利害を超えて「何のため」という基準を持ち続けて行かれるかどうかにかかっていると思います。
民主党の力とは全く思いませんが、あらゆる努力の基盤があって見えてきた民主政治、それが衆愚政治にならないためには「真贋適応を見破る」国民の責任感と賢明さであろうと思います。
それを培える一人であらねばならないと思うこのごろです。