私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!
2019・10・21、親業と人生
[親は、子供を善悪、いずれの方向に向けるのか。]
どの親御さんも、子育てに関しては悩ましい問題ですね。『学齢期だけでなく、成人してからも、なにかと方向性を手探りする』ことになります。
私の場合は、子育てはほとんど妻に任せていました。出張がちで、出先では夫婦、親子、のつながりを語たり皮肉なものです。どれほどの重荷を、妻にかぶせていたのでしょうか。反省しきりです。
ただ、学校の進路方針の時は、私の担当でした。余裕のない生活で回っていたように思います。
妻は、こども達の近くで仕事をしていました。学齢に合わせて、次々に仕事を変えていきました。
そして、子供が中高生頃には、病院に勤めながら、看護師になっていきました。
家庭の中でなにかを学ぶには、親の生活態度にかかっています。
子供の希望を叶えるには、『親が目標を持ち、日々学ぶ姿勢を忘れない』ことです。
そして『人がらが加われば、鬼に金棒』です。『これを良い子に育ったね。』となります。
良いとは何か?『家族や人の態度が、気にいらないと責めるより、まず自分自身がどうであるか反省してみること』です。
『子は親の心をそのまま映し出す、親が変われば、必ず子も変わる。』ここです。
2019・10・20人生と信念
[はじめから、不退転の信念、勇気を持っているものではない]
人間はじめから『信念、勇気を持っていた』わけではありません。御神尊様も20才で深夜の天山の修行は怖かったと言われてます。
しかも、『2年4ヶ月の遍路の旅路』では、ともすれば挫折感にさいなまされ、『そんなことでどうするか、一人前にならんぞ!』と、道祖様の声が聴こえてきました。その声に励まされ孤独の旅路をまっとうすることができたのです。つまり信念養成の鍵は、親孝行の一念が根本でしょう。
私は、『信念とは無縁の青春時代』を過ごしました。19才で御神尊様にご縁を結び『人生の生き方、運命を教えられ』ました。そして、親を尊ぶことも教えられました。
その御神尊様の後ろ姿に、いつのまにか引き込まれ、『みじかな小さなことから始めて、次第に人様のお世話にまで心がはたらき、おかげで信念を培うことができたのです。』
それは、『真似て、真似て、笑顔』『直して、直して、直して、無口』これが始まり、人生を渡る信念ができましたよ。
2019・10・19、神のおかげ
[ご利益はいただくものではない]
人間は、神社仏閣に正月参りなど、信仰の有る無しにかかわらず、意外と近いものです。そして、なんらかのご利益を、期待しているところがあります。つまり受け身の姿勢です。
また、組織宗教に縁を持ち、そこには不幸せや、病気によって大きな課題を持って、信仰生活でおかげをいただこうとするのが現実です。我が家もそのような、道を通りました。
おかげほど、保証のないものはありません。『一度のお参りで、将来が保証される』ものでもなく。『1回の祈りで将来が約束される』ものでもありません。
ただ、日々の生活の中で、『❶念をこめて祈り、邪気邪念の虜とならず』『❷感情の処理につとめ、気の切り替えを早くする』『❸常に心明るく楽しきところへ、いようとする』
これができる努力の持ち主こそ、すでにおかげのなかです。
そして、『これを精進』といいます。
『精進は念を強いもの』にします。『念が弱ければ、おかげを引き寄せる』ことはできません。
2019・10・12、天地の公道
[人間は、他者を生かすために、生かされている]
何か大変なことのようですが、簡単にいえば『他者とは家族』から、そして『周りの人との関係』になります。
でも、他者とは、家族を飛び越えた関係だとの誤解があります。
私たちの人生は、その『他者を大切にするため、また生かすためにある』といわれています。
『その源泉は、合掌の力』にあります。
なぜなら、『他の人を生かす』ことは、よほど心のコントロールを要するからです。『心の中の手を合わせる』気持ちは、『❶人の心を穏やかに』『❷人の精神を素直に』『❸人間精神を浄化』『❹人格を善人に』『❺生活を円満に』そして、[生涯を幸福、健康にする]全てを導くちからが、あるからです。しかし、なかなか徹しきれません。
以下が、具体的です。
[人への合掌]❶(我が心を人に合わせること)(❷顔を人に合わせること)❸(口を人に合わせること)❹(耳を人に合わせること)❺(体を人にあわせること)
言い換えれば、『人への合掌、がそのまま、人への合掌の、誠』になるのです。『誠とは人を思う親切の行為です。
2019・10・7、因果と人生、
[人生は山彦だよ。]
私たちは幼い頃、山や谷に遠足に行く時など、友達同士で、大きな声で山に向かってさけんだものです。すると、必ず時をおかず、同じ言葉が返ってきたものです。
これを、山彦と言います。このやさしい表現そのまま、『人生や運命』に当てはめれば、『難解な運命の原理』も、『アッサリ解ける』ものです。
『人間関係では、愛すれば、愛される』『憎めば憎み返される』口をついて出た言葉は、そのまま自分に跳ねかえるものと言われます。『無口は、無口を呼び』『笑顔は、笑顔』でかえります。
それでいて、『相手が無口だからと、理屈をつけて、自己弁護する人』がいます。卑怯ですよ。誰が評価したか知らないが、そんなに貴方は偉い人なんですね。
『鏡をいつでもどこでも、見て下さい』『どんな表情でしょうか』『気持ちのない、愛想笑いは、周囲にいつのまにか無理解の壁を作ります。それが山彦の結果です。
2019・9・26、性格と運命、
[人間の力は、ひいき目に見ても、半人前]
私たちは、ついいわれた言葉に引っかかり、された行為に囚われ、いつまでも忘れきれず、悶々と悩み咎めはつきません。
特に夫婦は、全く異質な人間が一緒に生活しているわけですから、なかなか理解し難いことが多いものです。御神尊様は『相手の生い立ちをよく知らなければならない』といわれ、理解し難い原因は、生い立ちに隠されているのです。
家庭の基本は、夫婦にあるからこそ、その繋がりで家庭は営まれています。夫婦が切れると家族がきれてしまうからです。
考えてみれば、『夫の半人分と妻の半人分、を合わせて1人力。』夫も、妻も完全な人格ではありません。『その欠けたところを責める』から、『毎日が楽しくない、悲しい思いで生活』しなければならないのです。
だから、『自分の反省はせず、相手にだけ改めさせよう』とし、『変えようとする』のは、あまりに都合がよすぎます。自分の性格でさえ持て余しているのに、相手が、はいわかりました。とは言わないでしょう。それなら、自分の考え方を変えたが早いというもの。あっさり、にっこり、顔上げて行きましょう。同じ人生です。
2019・9・24、生活と運命、
[悩みは捨てがたい]
これまでも、『今について』述べてきました。『今とは変わる時』いつまでもためらうと、『変わるための転期』『何の変化もなしに時間だけがすぎさる』ものです。
その結果、『心中に残る』ものは、『深い絶望感であり、失望感』です。本当に、『悩みは捨てがたい』『捨てたいのに、すてられない』『捨てられたとしても、次の悩みをみつけだす』のです。
でもそれが、『人間の性でしょうか』そして、『憎しみは病気』になります。さらに、『病気になれば、死の心配に脅かされる』のです。
とにかく、『死にたくなかったら、病気を治す』よりないです。『病気を治したかったら、ここからが肝心』です。『憎しみを捨てる』よりありません。 『悩みの実態は、憎み咎めをしてしまうクセにある』のです。それは、『事情を主体に考える』からです。『事情は妄想妄念』の、渦の中に引き込む、力があります。
私はそこから、逃れるために、[いかなる苦難に遭遇しようとも、喜びと笑顔を失うことなかれ]と『合掌と祈りの連続である』ように努めています。
2019・9・19、信仰と人生
[信仰は、感謝の念の養成にあり]
この世に、『生を享けたのは両親のおかげ』『夫婦の縁は神わざ』です。『その夫婦が互いに支え合い、住みよい家を作ってこそ』の、幸せです。
『その根本には、天地の恵みのはたらき』があります。これには、最も感謝を捧げ、一瞬たりとも忘れることはできません。
しかし、すべてがいつのまにか、『当たり前』になり、そこから、『不幸せが生まれ』てきます。つまり、感謝不足のためです。
感謝の養成とは『ありがとう』の態度とことばです。
❶神仏に対する感謝、❷親子お互いの感謝、❸夫婦お互いの感謝、❹家族お互いの感謝、❺人様に対する感謝、❻社会に対する感謝、❼天地自然の御恵みに対する感謝。
感謝の思いをことばに乗せて、1人ひとりが、最善の環境を、合掌と祈りをもって、家庭社会を明るく楽しく、住みやすさを目指して、行動しましょう。
2019・9・15、人間関係と人生
[人間心は繋がっている]
人間と他の動物の違いは、ことば(言語)を持ち、読み書きができるところでしょうか?
人間同士、家族同士でも、『よく話し、よく語る』ことで、『心が繋がり、喜びを実感できる』のも、大きな特徴です。
その反対に『話さず語らず、無口の日暮らし』は、理由の主張に関係なく、不幸せから逃れることはできないようになっています。『それが天地の公道』だからです。
なぜ『無口は、不幸を招くのか?』『三大不幸』といわれ、❶死別、離別、で親の愛情にめぐまれない。❷義理の生活にくるしむ。❸無口の生活。
特に、『無口と言っても』『我慢の無口、無関心の無口、反抗の無口、思い余っての無口』しかし、口を開かずに思いが伝わるなら、こんな楽な人生はありません。
妙なもので、『意識せずに、食べる、呼吸』口の作用です。食べる、呼吸は、ほっといても、できますが、『自分の気持ちを正しく伝える』ことは、『口を意識しなければできません』
とにかく、『聞くの1字を』神は期待しています。そして、『聞く気のない人は、周りから人がいなくなる』のです。その正体は自己中心であったり、理屈屋さん、分からず屋であったり、人の気持ちを、忖度できない人、ここに情に欠ける生活があります。
『相手を批判するまえ』に、『自己批判もって和気の心、生活は藹々(あいあい)で人間関係、家族の関係』を、神は望まれています。
2019・9・13、沿革秘話(その1)
[いかなる事情があろうと、相手を赦しなさい]
『昭和15年、御神尊様35才』のころ、『長崎県平戸市赤坂山で50日間の修行』をされました。その跡地に、『昭和50年根本道場が建立』され、時間を作っては平戸に通われていました。
御神尊様は、近くに車を停めていました。『根本道場の建立』の作業をお手伝いしていた北村国夫氏が、とうとう見かねて、牛小屋を改造して、車庫にしてしまいました。
それからは、北村家の駐車場に停められて、子どもたちにお土産を手渡されては、道場建立の進み具合を、見られていたそうです。そして、落成式のあと、『7日間の御中行』に入られ、満願のお言葉が、『いかなる事情があろうとも、相手を赦しなさい。』と慈悲のこもる、笑顔で語られたそうです。
あさのことばにも、『何度も、神は事情に興味は、サラサラ無い』と伝えてきましたが、でも、『人間は事情がすきです。苦しくなるのにすきです』
『人生の最高の努力は、嫌いな人を好きになること』天も地も、どんな人にも差別なく、生きる糧を、与え続けています。赦し続けてくれています。