私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!
2019・12・21・人格と運命
[人の幸せをうらやまず]
私たちは人を責め、自分に対してあまりにも寛大すぎるもの。人と言われる範囲は、ほとんどの人間関係に及びます。
それは性格からくるものでもあり、生い立ちの環境の影響もあります。だから、短気は先祖からのプレゼントで、受け継がれていきます。
『なんであの人ばかりが良いこと』がとか、『私ばかりが貧乏くじ』などと、嫉妬に似た感情を持つ時があります。
そのような時は、不幸せな状況にあるときです。人の幸せを羨らやむは、何らかの事情があるはずです。誰かと対立しているのかもしれません。とにかく、人と円満につきあうためには、穏やかな寛い心がけに、つとめなければつらいです。
人のことよりも、自から進んで[生活に感謝の心を捧げれば〕逆に人から羨まれる生活にめぐまれるでしょう。
やります
2019・12・21・人格と運命
[人の幸せをうらやまず]
私たちは人いに厳しく、自分に対してあまりにも寛大すぎるもの。人と言われる範囲は、ほとんどの人間関係に及びます。
それは性格からくるものでもあり、生い立ちの環境の影響もあります。だから、短気は先祖からのプレゼントでもあります。そして、受け継がれていきます。
そのことに気付かず、『なんであの人ばかりが良いこと』がとか、『私ばかりが貧乏くじ』などと、嫉妬に似た感情を持つ時があります。
そのような時は、不幸せな状況にあるときです。人の幸せを羨らやむは、いいすぎかもしれません。しかし、何らかの事情があるはずです。
誰かと対立しているのかも。とにかく、人と円満につきあうためには、穏やかな寛い心がけに、つとめなければつらいです。
人のことよりも、自から進んで生活に、感謝の心を捧げれば、逆に人から羨まれる生活にめぐまれるでしょう。やります!
2019・12・20人生観と運命
[人生は安楽に過ごすに、こしたことはありません]
人生、そう簡単にはいきません。時には泣きたくなり、苦悩に沈むこともたびたびでし。本当の人生の喜びは、簡単には味わえません。
『安楽にすごす』魅力のあることばです。この言葉のように、人生すごしたいものです。ところが、望みと現実の落差の大きいこと、生きるとは苦しいことです。
御神尊様は、『逆境の体験を持たない人』は、『順境にあっても』それに気づかず、喜びと感謝につなぐことができない。
そして一度も病気したことのない人間は、健康の真のありがたさがわからない。といわれています。
人生苦に対する日ごろの考えの反語が、安楽ということばでしょう。どんな人生であっても、けっして合掌の心を失わなければ、無意味な1日はありません。
逆境にあっても道ひとすじ、何がなんでもやり抜く先に、安楽の世界があり、人生の幸せがあるでしょう。やります!
2019・12・19心と運命
[運命を悩まず、運命の本源を憎め]
[心は運命の本源なればなり]です。
幸、不幸の現象を指して、運命と言います。
『運命なんだからしょうがない』という諦めのことばを口にする人もいます。
それは、『宿命のことと、混同されて』います。
宿命は、親を[選べない]ように、生まれついてのもの。
運命は、[命の運び方〕次第どうにでもなるものをいいます。
不幸の運命を、恨んでみたり、悩んでみたりしますが、それは、『運命の実態を知らないための迷い』でもあります。
人間には、『人間力という、エネルギーが内在』しています。その運命に悩む心のエネルギーを、憎み、咎めの心の迷いを断つ開拓にむけることです。
人間の心には[切り替え〕という偉大な力があります。
それを使い『心と生活の改善』にはげみましょう。やります!. 311219
2019・12・17、人生と道歌
[世の中に我より馬鹿はなかりけり、己が心で我を悩ます]
信仰をしていても、「自分を卑下したり、努力が足らないと責めたり、なんで神様と約束したこともできないのか?」などと、足らないことに目がいきがちです。
コツコツと積み重ねたこともあるはずなのに、目標が大きいためすこしの歩みでは、自分自身が満足できず喜べないようです。
物事の実態を把握できず判断を間違い、またわかっていながら変えようとせず、誤った道をたどるようです。
そこを、御神尊様は慈悲のまなこで私たちを見ながら、『おいおい、馬鹿なことはするな!』『自分の心で、自ら悩んでいるだけではないか!』
思もってみても考えてみても仕方がないことと、わかっていながら人をとがめかえす刀で、我を責めてしまい悩み続けるものです。
そのうちに、自分の馬鹿さ加減にあきれることになります。やります!
2019・12・16、心と運命
[心乱れて運定まらず]
人間の運命ほど、天気のように不安定なものはありません。
最近は気象庁の発表する台風予報は、生命の安全を優先して、避難の的確な情報を発表しています。
しかし人間の運命には、それがありません。『心の気象庁』があればとてもありがたいのです。
運命的現象には、必ず『まさか』ということばのフレーズがついてきます。
それは、人間心が『見ては乱れ聞いて混乱し、考えては絶望する』様に、定まりなき様相をみせるからです。
その揺れ動くさまが、感情に支配されているからです。やがてその日の運命は、心のままに現れるからやっかいです。
そのようにならないために、『ありがとうの心』で、『合掌心を鍛錬し、磨く必要』があります。
つまり、いかなる事情があろうと、慌てずさわがず冷静に自分自身の心をを見つめ、何が足りて何が足らないのか。
そこが腑に落ちれば、笑顔がうまれます。とたんに幸せ観に満たされてくるから、ふしぎです。
2019・12・10、天地の公道
[天地は生きている]
『天地は生きている』といえば、『そりゃ当たり前』といわれそう。
実に平凡なことばです。しかし、人間は仕方のないもので、人生の流れの中で、『いつのまにか、当たり前の中』にドップリつかってしまうことです。そして、感動を徐々に喪うことになります。
そのいい例が、『突然の病気で倒れること』これを、『まさか!』といいます。『健康で生かされている自覚』がなくなり、何ごともなく日々流れていくことに、慣れてしまった結果がこれです。
流されて、『当たり前の生活』に、『無感動の生活』に、『自覚を促す』のが、『悩みや、病気のブレーキの働き』です。
『真理は平凡なところにあり』です。朝がくれば、『その目覚めに感謝する人』がいます。『ああー今日も仕事か』嫌々ながら起き出す人もいます。
『天地は動いています』動くとは『生きている』ことです。『呼吸を真っ先にしているのが、天であり、地です』私たちは、『呼吸を寸時も止める』ことができません。
ならば、『幸せの根源は、天地の働きに感謝できる』かどうかにかかっています。御神尊様は起き抜けに、朝は東に向かいポンポンと、合掌の手を響かせていたものです。
具体的にいえば、『縦の生命は先祖から、横の生命は、家族、他人様から』『縦糸、横糸が繋がって、仲良く』できています。それを『天地の計らいによる幸せ』と言えましょう。やります!
2019・12・9、人生と運命
[幸せを希うより、幸せの種を蒔くことが大事である]
神ならぬ身、人生間違いを起こしたことのない人はいないでしょう。それをあえて、判断を誤ったことは無いと、自信をもって主張するとすれば、頑固一徹といわれても仕方ありません。
ほとんどの人は、心の奥で過去の失敗を、悔いながら日々を送っています。また、新しい失敗、間違いを抱えて、途方に暮れているかもしれません。
だからこそ、『人間関係の好き嫌いの対象』の人にも、同じような心の荷物を抱えていると、考えるところに『理解の道』があります。そしてそれは、『天地自然の愛の道』でもあります。
そのように、『自分が苦しむように、人も苦しんでいます』
それが本当に『理解できる人』になったとき、霧が晴れるように歩むべき道が示されます。『理解のそのひとつひとつが、幸せの種まき』です。
『周りの人の姿は、自分の心の反映』です。『人が悪くみえるか、よく見えるか』もしよく見えれば、『自分の心に理解の修行』を積んだからです。それこそ、『心の畑に種まく人』です。
『好き嫌いや、対立の心を去り』相手の気持ちになれば争いもありません。『争いの邪気を刈り取り、幸せの種を蒔く人』になることです。やります!
2019・12・8、運命の実相
[不幸は敵にあらず]
世間では、『運命といえば、諦めの代名詞』のように使われています。
よくよく『運命の意味を考えてみる』と、運命とは生命の運行ことで、『過去から現在へ』そして、『現在から未来』への人生の流れを見て、『自分自身の運命を知る』ことができます。
『なぜ不幸になったのか?』と、過去の原因を探り、『どうすれば幸せになれるか?』と、自分自身の心の歩みを、見つめられる、客観性を持ちたいものです。
『自分の歩いている運命を開拓する』知恵を身につけなければなりません。
これこそが、『人生の一大事であり』それ以外は『運命の認識に比べれば、小さな』ことです。
[運命は天気天候に似たり]と教えにあります。天地自然が日々流れているように、何事も結論を出すのは、はやすぎます。
今不幸だから、明日も不幸とはかぎりません。
今幸せだから、明日も幸せとはかぎりません。
『運命が流動しているように見えて、実は人間自身が不安定』なのです。運命を字解きてみるとー『厭世観』『楽天観』『改善観に分ける』ことができます。
運命の前に立つとき、『常に改善の精神』を持ち、『目の前の事情を敵視する』のではなく、『自分自身の考えを、変えていく、柔らかさ』でのぞみたいものです。
2019・12・7、天地の慈悲
[喜びは、汝自身の生命なり]
『天地の道の終着駅』は、『喜びと笑顔駅』になります。
御神尊様のお話の着地点は、必ず『喜びと笑顔』でした。
『なんでだろう。口癖かなぁ?』などと、不遜なことを思いました。こうも言われました。もし、『喜びと笑顔』という言葉が使えないとしたら『両手両足をもがれた』ようなものだと。
それほど、『喜びと笑顔は、天地公道の中心』であり、『核心である』といわれました。
人間は飲んで食べて、それだけで生きているわけではありません。
今のあなたは、幸せでしょうか?それとも、事情や、病苦の渦の中でしょうか?
そこには当然、対立や衝突が生じます。おたがいの、より深く『繋がりたい理解したいと願う』『愛を求めての発露』でしょう。
私もようやく、『いかなる事情に遭遇するとも、喜びと笑顔を失わず』に向かい、その『一点に努力を傾けられる』日常になりつつあります。
同じやるなら、『心から喜んでやること』
とにかく事にのぞむにあたり、『先ずその内容より、呼吸を整えて、喜びをもって取り組む』ことです。
これこそ『命の食事、心の栄養、』『生命と生活の充実』につながります。