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去る8日(水)、松江城天守の国宝指定が官報に告示され、正式に国宝となった。
昨日のローカル紙面によると、「『国宝指定祝い提灯行列』、城北地区300人1.5キロ練り歩く」と報道されていた。
人気の堀川遊覧船、周辺の観光スポットも観光客が増加傾向とのこと。
この地に住みついて、47年にもなる。
この地方は、出雲弁という独特の言葉が残されている。
ただ、その方言には未だに馴染めないものの、住みやすい街並み、適度な便利さのある松江の地は大好きである。
小さいながらも城下町松江、その礎を造った松江城築城主の堀尾家三代には感謝しなければなるまい。
普段は何も考えないで気楽に暮らしている。
ところが、この地から一歩外に出てみれば、風情の残る松江の街に魅かれる自分が分かる。
それゆえに、この長い年月、安住の地として暮らせるのであろう。
ところで、関ヶ原の論功行賞で遠江浜松12万石から、出雲富田24万石に加増転封された堀尾忠氏。
父・吉晴と共に月山富田城から、現在地の松江に新たな築城を計画。
吉晴と忠氏の築城の場所選定には、意見が合わなかったらしい。
しかし、忠氏が急逝したことで、幼い忠氏の子・忠晴の後見となった吉晴は、忠氏が臨んでいた現在地に築城を決意したとか。
1607年から1611年の歳月をかけて、松江城を築城するも残念ながら、城の完成を見ないまま吉晴も死去(慶長16年[1611年]6月17日)と聞かされてきた。
ところが、最近の研究によると堀尾吉晴は、松江城天守の完成を見ているとのことらしい。
つまり、慶弔16年(1611年)末の完成ではなくて、慶弔16年(1611年)正月以前に完成との見方がでているとかで、吉晴公が亡くなる前に城の完成を見ているとのこと。
認識を新たにしなければなるまい。
(西和夫神奈川大学名誉教授著)
また、昭和10年、天守が当時の国宝保存法に基づいて国宝に指定されるも、昭和25年、文化財保護法の施行で天守は重要文化財に指定変更されたとのこと。
つまり、国宝から重要文化財に指定のこの案件について、「格下げ」されたとの表現が報道などで使われているが、これは間違いであるらしい。
「格下げ」と云ういい方は正しくないらしい。
あくまでも指定であるとか。
堀尾吉晴公の話、また「格下げ」という表現の話。
これらについて、認識を新たにしなければならない。(夫)
(国宝松江城・・・先般来松されたNご夫妻提供)
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