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blog『さんたりのヤンメー』管理人・コウノさんからリクエストがあったので、喜界島のシマ唄について私の知る限りのことを書いてみる。....と言ってもそれほど大した事は知らないのだが....。
私の知る川嶺集落のオバァたちは「喜界の唄はカサン(北大島)節に近いんだよ。」と言う。実際に朝花節を聞いてみるとなるほど「♪ハレ~カナイ~」から唄い出す所などはカサン節に似ている。しかし男性の唄い方はまた少し違う。コウノさんの父上の唄(17~8年前の録画)や同じ川嶺集落のタバタさんの古いテープ(1975年頃)をじっくり聞かせて戴いた限りでは川嶺集落の男唄いは“ヒギャ節に近い”感じがするのだ。
また、亡き祖父の残したカセットテープを聞いていたら唄遊びで師匠・朝崎郁恵と古い朝花節を掛けあっている時(1995年頃の稽古)の録音があった。そこでは「昔の朝花はこんな風に唄ったんだよ。ね、先生?」みたいな感じで祖父が誰かに教えていところだった。その朝花節は父上が喜界出身という師匠朝崎も我が祖父もほとんど同じ唄い方だった。ただ1点違うのは「昔も今もゆっくり唄う」という師匠に対し、祖父は「昔はもっとテンポが速かった」という。これは集落の違いなのか、たまたま手本となる人がそうだったのかは解らない。
この昔風の朝花節は師匠朝崎のカセットテープ『島唄』(あまみ庵などで発売中)で聴くことが出来る。1曲目に収録。もちろん師匠はゆっくりと唄っている。
結局、現在は『ヒギャ&カサン』といった大きな2分類に落ち着きつつあるが、本来シマ唄というものは、シマ(=集落)ごと、唄者ごとに違う唄い方をするのが本当なのだろう。昔であればあるほどその傾向は強いはずだ。移動手段や通信手段などがなかったせいで人の行き来が今とは比較にならない位少なく、閉鎖的だっただろうし、そもそも昔の島人は徒歩5分の隣の集落でさえ“よそジマ”と言って交流を持とうとしなかったようだ。今で言う“外国”のような感覚だったのかも知れない。
喜界島も恐らく昔は喜界独自の唄がたくさんあっただろう。喜界島上嘉鉄集落の古老・田中働助さんは「昔風に三味線を弾ける人はもう喜界に5人もいないだろう」などと言っていた。非常に残念ではあるが唄を残す人がいなかったのだから仕方ない。
私に出来る事は解る範囲で可能な限り古い唄を継承していく事だと思っている。
私の知る川嶺集落のオバァたちは「喜界の唄はカサン(北大島)節に近いんだよ。」と言う。実際に朝花節を聞いてみるとなるほど「♪ハレ~カナイ~」から唄い出す所などはカサン節に似ている。しかし男性の唄い方はまた少し違う。コウノさんの父上の唄(17~8年前の録画)や同じ川嶺集落のタバタさんの古いテープ(1975年頃)をじっくり聞かせて戴いた限りでは川嶺集落の男唄いは“ヒギャ節に近い”感じがするのだ。
また、亡き祖父の残したカセットテープを聞いていたら唄遊びで師匠・朝崎郁恵と古い朝花節を掛けあっている時(1995年頃の稽古)の録音があった。そこでは「昔の朝花はこんな風に唄ったんだよ。ね、先生?」みたいな感じで祖父が誰かに教えていところだった。その朝花節は父上が喜界出身という師匠朝崎も我が祖父もほとんど同じ唄い方だった。ただ1点違うのは「昔も今もゆっくり唄う」という師匠に対し、祖父は「昔はもっとテンポが速かった」という。これは集落の違いなのか、たまたま手本となる人がそうだったのかは解らない。
この昔風の朝花節は師匠朝崎のカセットテープ『島唄』(あまみ庵などで発売中)で聴くことが出来る。1曲目に収録。もちろん師匠はゆっくりと唄っている。
結局、現在は『ヒギャ&カサン』といった大きな2分類に落ち着きつつあるが、本来シマ唄というものは、シマ(=集落)ごと、唄者ごとに違う唄い方をするのが本当なのだろう。昔であればあるほどその傾向は強いはずだ。移動手段や通信手段などがなかったせいで人の行き来が今とは比較にならない位少なく、閉鎖的だっただろうし、そもそも昔の島人は徒歩5分の隣の集落でさえ“よそジマ”と言って交流を持とうとしなかったようだ。今で言う“外国”のような感覚だったのかも知れない。
喜界島も恐らく昔は喜界独自の唄がたくさんあっただろう。喜界島上嘉鉄集落の古老・田中働助さんは「昔風に三味線を弾ける人はもう喜界に5人もいないだろう」などと言っていた。非常に残念ではあるが唄を残す人がいなかったのだから仕方ない。
私に出来る事は解る範囲で可能な限り古い唄を継承していく事だと思っている。
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