翻訳を志す女性が、相談のために訪ねてくる。
すると、村岡花子は次のように答えたという。
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言語の翻訳自体はさほど難しいことではないけど、本当に難しいのは正しい日本語に訳す、ということ。
ですから、翻訳と同時に、きちんとした日本語の勉強をしなさい。
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確かに、そうだと思う。
私も、時々、海外の文章の翻訳を読むのだが、ひどい日本語に出会うと、頭痛がしてくる。
これは単に、老眼のせいでもないようである。
書籍としてお金を取って本を売るのだから、翻訳者も編集者も言葉の表現には十分に気をつけてほしいものだ。
今読んでいる文庫も、ひどいものだ。
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それは、優雅な手でばかり事物に触れることをする詩人らが、青春期の不安、若い天使の悶え、年少の肉と心との中における愛欲の目覚め、と名づける所のものであった。
しかしそれはあたかも、各局部で亀裂し死滅しまた蘇る全存在のこの恐るべき危機を、あたかも、信仰も思想も行為も全生命もすべてが、苦悶と喜悦との痙攣の中で将に絶滅せられ鍛え直されんとしてるかと思われるこの大革命を、児戯に等しいものだと見なし得るかのような名づけ方である。
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これは結構有名な古典文学の翻訳である。
意味が分かるだろうか。
まるで大学生が英文学の授業中に、自らの訳を発表しているような代物である。
ほとんどが直訳だ。
もう少し、文意に即した意訳が必要な気がする。
わかりやすい文章を書くことは、誤解を避けるという意味でも大切なことだ。
私は、このことを亡き吉良竜夫氏から学んだ。
琵琶湖研究所の初代所長である。
意味不明な訳文に悩まされながら、途中で投げ出そうかどうか悩んでいる。
このことは、まさに他山の石として気を付けたいものである。