DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

12月19日(水)のつぶやき

2012-12-20 05:00:52 | 物語
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遍歴者の述懐 その43

2012-12-19 11:49:53 | 物語

乳酸発酵品『ギー』

「キクと私は、カトマンズのシャンカーホテルに滞在していました。1964年に建設されたこのホテルは、フランスの王宮風にデザインされています。まるで王侯貴族になったような気分で、とても快適な滞在でした。」

晃は再び語りだした。

「このホテルに滞在中、多くの若者が私を訪ねてきました。彼らは、ネパールの明日を担う、前途有為なインテリでした。自主独立と近代国家を作るにはどうしたらよいかと、聞きに来るのです。」

当時、ネパールのルピー貨は、インドのルピー貨に比べて39%も低かった。現在でも、交換レートは1.6に固定されている。それだけ、国土が貧しかった。ネパールで余剰となった農産物は、買いたたかれてすべてインドへ輸出されていた。

「日本から経済援助と財政的支援を受けて、農業や工業の近代化を進めるべきだ、と話しました。ネパールの面積は、北海道の約2倍です。当時の人口は1200万人でした。このうち、93%の人が農業に従事していました。宗教的な背景から『足るを知る』という風潮が強く、新しいことに挑戦するという気概に乏しい国民性が指摘されていました。」

ネパールという国は、海抜70mから8800mまでの、高低差が非常に大きいいが、低地は概して肥沃で作物がよく育つ。現在の人口は3000万人に近いと言われてる。

「私が政府の要人や経済界の人々に提案したのは、低地では油分含有量の多い種子から搾油して植物性油脂として輸出することと、高地では観光事業に力を入れるというものでした。そのために一番大切なことは、インドのカルカッタ港の整備である、と強調しました。それほど、この港の状況はひどく、悪名高いものでした。ネパール政府は、インド政府と交渉して、カルカッタ港にフリーゾーンを設け、安全で速やかな積み出しができるようにすることが、喫緊の課題だったのです。」

それから、晃は声を潜めて話を継いだ。

「実は、私が最も期待していた交易品は、ネパール産の『ギー』でした。牛や水牛、ヤギの乳から作るギーは乳酸発酵品ですが、食用や薬用・宗教儀式用に利用されとても重要な産物です。インドでは、全乳生産量の50%以上がギーだと言われています。ネパールでも作られているのですが、ヨーロッパとくに北欧ではネパール産のギーがとても人気なのです。安定供給さえできれば、必ずもうかる輸出品だと思っていました。」

つづく

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12月18日(火)のつぶやき

2012-12-19 05:00:51 | 物語
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遍歴者の述懐 その42

2012-12-18 12:57:55 | 物語

梵我一如(ぼんがいちにょ)

ネパールは、2008年に王制が廃止され、共和制となった。晃とキクがネパールを訪問した頃は、まだ王制の時代だった。

「興味深い話ですが、ネパール王は、戴冠式に十六弁菊花紋章とユダヤのカゴメ紋章を縁取った着衣を身に着けていました。このカゴメ紋章は、伊勢神宮の石灯籠にもみられるもので、ダビデ紋とも呼ばれています。十六弁菊花紋章は、ご承知のように、現在の天皇家の家紋と同じですね。」

こう、晃は言いながら、机の上にカゴメ紋を書いて見せた。

ネパールの文化は、ヒンドゥー教と仏教の融合によって形作られている。ヒンドゥー教は、紀元前数千年前のバラモン教を起源とした宗教で、宇宙の生滅流転をつかさどる神々を信仰している。また、ネパールには、釈迦が生誕した聖地ルンビニがある。これらが混然一体となり、独特の文化を醸し出している。

「1963年に、当時東海大学に所属した長沢和俊を隊長とした学術登山隊が、西ネパールで十六菊花の浮彫りが施された石碑を発見したということです。残念ながら、大部分の碑文は磨滅して解読不能だったそうです。ずいぶん昔から、何らかの交流がネパールと日本の間にあったということでしょうか。」

中国語からサンスクリット語・ヘブライ語に通暁している晃にとって、東洋と中東を結ぶ交通の中継地としてのチベット・ネパール文化には、大きな好奇心を有していた。

「バラモン教の聖典ベーダや、インド哲学の奥義書ウパニシャッドに書かれているように、宇宙の中心生命である梵と、個人の中心生命である我の究極的な一致を説く、バラモン教やヒンドゥー教・仏教の啓示である梵我一如という宇宙観は、考えるだけでワクワクするような面白さがありますね。つまり、実態としての個を形成している我が、宇宙にあまねく存在する梵という真理と同じものである、ということを悟ることによって、すべての苦しみから解脱できるという教えは、いつの時代にも当てはまるのではないでしょうか。」

私たちの周辺には、数えきれないくらいの事実が存在し、おそらく実体という意味ではそれらはすべて正しいのだろうと思われる。100人いれば、100の実体があり、100の事実を作りだしている。個々の人にとっては、それが正しいことなのだ。世に多くの宗教が存在するのも、このことに起因している。しかし、宇宙の真理は一つしかない。つまり、個々の実体は、宇宙の真理を異なった目や、異なった立場から見ているに過ぎない。だからこそ、『色即是空、空即是色』なのだ。それは、空しさを説くものではなく、覚醒を導くものなのだ。ヒマラヤの山々を眺めていると、こうした解脱の境地に次第に近づいていく気がする、と晃は穏やかに語った。

つづく

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12月17日(月)のつぶやき

2012-12-18 04:57:58 | 物語
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遍歴者の述懐 その41

2012-12-17 11:03:01 | 物語

インドからネパールへ

晃とキクは、ダージリンを後にして、カトマンズに向かった。

「当時、ネパールにはヒッピーがあふれていました。彼らは世界中から来ていて、日本の裕福な家庭の子弟と思われる若者も4~50名はいました。首都であるカトマンズの人口が30万人余りでしたから、空港や街角に集まる彼らの姿は、結構目立ちました。確かに、彼らは『何か』を求めているようでした。それは、急速に発展を遂げる物質文明社会からの逃避であり、『神々が住む山々』を意味するヒマールの自然から得られる精神文化への帰依のような感じがありました。」

心の平安を求める若者たち。安価なマリファナと、ヨガへの憧れと、大自然からの癒しとが、彼らの心と体をとらえて離さない。自由主義と共産主義の両思想の落とし子とも言える彼らの姿を見ていると、反体制や反文明の旗印を掲げながら、現実の差別や享楽の奴隷となっていることに気が付く。

「本当に、ネパールがこのような若者たちに正しい宇宙観と人生観を与えうるのだろうか。そんなことをふと考えました。」

確かに、ネパールは魅力に満ちた国である。晃のお勧め観光スポットを挙げてみよう。

(1)チトワン国立公園の中心に位置するTiger Tops Jungle Lodge に宿泊して、自然のありのままの姿を楽しむ。堂々とした象の背中に乗って、野生の虎や豹を見に行ける。

(2)世界で最も高い場所にある高級ホテル『エベレスト・ビュー』に宿泊して、エベレストを満喫しよう。できれば、エベレスト・マウント・フライトで約一時間の空の旅に出かければ、天下第一の景観、白き神々の秀峰、ヒマラヤの絶景を楽しむことができる。

(3)古い中に新しい息吹を持つ首都カトマンズ。パゴダ寺院の数々。時間があれば、周辺の谷へのトレッキング。ポカラと湖水地方の散策、アンナプルナ・ダウラギリの周遊。

今は、カトマンズの人口は70万人を超え、ずいぶん近代化してきている。しかし、そそり立つヒマラヤの山々は変わっていない。人生で、一度は訪れたい国の一つである。

つづく

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12月16日(日)のつぶやき

2012-12-17 04:34:34 | 物語
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遍歴者の述懐 その40

2012-12-16 12:06:51 | 物語

インドへ

1973年、晃はインドを訪れた。

「戦後、日本は物質を求めて成長してきたけれども、精神的には小国になってしまった気がします。これからは開発途上国に顔を向けた交易を進めるべきだと決断して、インド・ネパール・ブータンを訪問することにしました。その時の話をしましょう。」

晃とキクは、4月2日朝、エアー・インディアで羽田からインドのカルカッタへ飛び立った。最初に訪問したのは、紅茶とヨガで有名なダージリンだった。現在の人口は10万人ほどだが、当時は6万人ほどで、こじんまりとした町だった。全人口の内、50%がインド人で、あとの25%がそれぞれネパール人とブータン人だった。カルカッタから670kmはなれたこの町へは、飛行機で約1時間30分かけてバクトグラまで行き、そこから車で3時間、汽車で7時間ほどかかる。

「ダージリンティーで有名なこの地は、イギリスの植民地時代から避暑地として栄え、日本から移植された杉の木が多く茂っています。中国のチベット侵攻を逃れてきたチベット人のガイドが、あちこちを案内してくれました。彼は、『日本の東京市長だった尾崎行雄さんが、ワシントンのポトマック河畔に桜の苗木を植えたように、日本の杉の苗木をダージリンに植えたイギリス人は良いことをしたものだ。』と言っていました。」

標高2134mのこの高級避暑地には、インドの上流社会の人たちの別荘が点在し、とても美しい景観を保っている。特に、世界第三の高峰、カンチェンジュンガ山群の遠景は、見るものの魂を揺さぶる。

「この地はね、かつての国粋学者、杉田重剛が絶賛した中村天風が二年半のヨガ修行行った場所で有名でもあるのです。それだけ、自然や大気がもつ気が雄大で、人間が悟りを開くのに向いた場所なのだと思います。この世の中で多くの人が悩み、病む中で、人間が生きるための何かを見つけ出そうと懸命に努力をすることに、私は共感しました。」

つづく

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12月15日(土)のつぶやき

2012-12-16 05:23:32 | 物語
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遍歴者の述懐 その39

2012-12-15 08:26:00 | 物語

安住の地建設

「日本人が、いずれかの日に、祖国を脱出しなければならなくなる日が来るかもしれない。その時に、どこに安住の地を求めるのか。そういうシミュレーションを、ずっと私はしてきました。それは、災害かもしれないし、何らかの国難かもしれません。第一次世界大戦と第二次世界大戦を現地で経験し、何が起こってもおかしくない世界の中で、幸運に支えられて今まで生き延びてきた自分が、経験の中から考え続けてきたことです。」

真剣な面持ちで晃が語りだした。

「第二次世界大戦が終わってから、アメリカ、モロッコ、エチオピア、ケニア、タンザニア、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンなどを見て周り、最終的に選び出したのがニューギニアでした。もし、政治的に話がつけばですが、この地以外にないという結論にいたったのです。」

それは、どこまでが本当で、どこからが夢物語か分からないような話だった。

「いくつか理由があるのですが、日本から比較的近距離にあること、熱帯・温帯・寒帯を有する唯一の未開地であること、などがあげられますが、最大の理由は、第一次世界大戦当時、私はこの地にいて、オランダの植民地政策を見てきたからです。オランダは、瓜哇(ジャワ)、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ニューギニアの資源開発を行っていました。当時、私は三井物産から派遣されていて、茶、コーヒー、砂糖をはじめ、熱帯植物の栽培に関するオランダ語の書物の翻訳をし、日本人に可能な農業の研究をしていました。」

この夢物語を実践するために、晃は実際に可能性の検討を行っている。おそらく膨大な資金を必要とするので、日本からの投資だけではだめだろうと思い、オランダ人、ユダヤ人、華僑、台湾人などに会って、投資の可能性を打診している。また、香港、ニュージーランド、オーストラリア、パプアニューギニア、フィリピンなどの視察も行った。

「もし、99年くらいの期間で借地が可能なら、ちょうど南米のコスタリカのような国を作ることが可能かもしれません。この国は、1949年に常備軍の廃止を憲法で決めています。兵隊と勲章を持たないで、島内の秩序を維持していくこと。すべての住民に対して平等であること、外資に門戸を開放すること、宗教的な軋轢を避けること、そんな理想郷を作りたいと思います。」

こう語る晃の眼は輝いていた。結局、彼の夢は実現されなかったが、極東という世界の東の果てに位置する日本の未来を考えるとき、このような理想郷の追求はありえる選択かもしれない。というのは、人類の繁栄は、さまざまな形の地球資源の食いつぶしにかかっているからである。資源のない国の未来は、先細ることを晃はよく見抜いていた。

つづく

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12月14日(金)のつぶやき

2012-12-15 05:00:19 | 物語
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遍歴者の述懐 その38

2012-12-14 08:20:35 | 物語

幻のモーヤ人

「石油が吹き上げる冨で砂漠国家を福祉国家に作り上げた新興国クウェートに、私は数回行きました。ちょうど1960年頃でした。」

と晃は語り始めた。

「毎朝、早くから回教寺院から祈りの声が聞こえてきて、とても寝てなんかいられなくて、砂塵が吹き渡る中で、町の見物を兼ねて散歩に出かけたりしました。」

シャイク(首長)が統治したこの国は、現在では人口が300万人くらいだが、その当時は40万人足らずだった。住民一人当たりの所得は世界最高水準で、米国の外交官でさえも、在外勤務手当てを入れても生活しにくいとこぼしていた時代だった。大学の研究施設や機材などに惜しげもなく資金を投じていたし、学費は無料、おまけに通学用の自転車を無料で配布していた。大学で教える教授の数が、学生の数より多いと言われていた。

ところが、富裕層の若者たちは欧米に留学するほうを好み、しかも学問をするより遊ぶことを優先するので、帰国してもほとんど役に立っていなかった。クウェートの政府機関や、ホテル、銀行、企業の多くで熱心に働いているのは、レバノン人やエジプト人、シリア人たちだった。「モノ」の豊富さと民衆の勤勉さは比例しないものだ。苦難を味わい、努力したものにしか、天は奮発心を与えないのではないか、と晃は語った。

当時、日本のアラビア石油が、クウェート沖の中立地帯に油田を開発していた。晃は、陸上施設や宿舎を案内してもらい、またランチ(はしけ)に乗って海中プラットフォームの見学もした。この油田は、1959年に開発したが、中立地帯の解消に伴って、2003年には日本は採掘権を完全に失ってしまった。

「クウェートの南、サウジアラビアとの国境地帯に大きな地下洞窟があります。その中にモーヤ人が住んでいるという話があります。私は、彼らは、ユダヤ人の一派であるエッセネ派の民であると思っています。これは、クウェートとサウジアラビアの中立地帯に位置しています。面白いことに、この地は『入らずの土地』として、一般人の立ち入りを禁止しています。神秘的な話だと思いませんか。」

晃の話は、だんだんおとぎ話のようになってきた。この中立地帯は1965年に国境が設定され1970年には解消されている。エッセネ派は、紀元前2世紀頃に存在したユダヤ教の民で、排他的な生活をすることによって、宗教的な純粋さを保っていると言われている。晃は、彼らは天孫民族だと語っていた。

ちなみに、「モーヤ人」でネット検索をすると、任天堂DSのゲームの中にしか出てこない。

つづく

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12月13日(木)のつぶやき

2012-12-14 04:07:13 | 物語
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遍歴者の述懐 その37

2012-12-13 12:48:39 | 物語

岩のドーム(Qubba al-Ṣakhra:Dome of the Rock)

「イスラエルという国が1948年に建国され、アラブ諸国との間で戦争が始まりました。私は、その前にエルサレムを訪れたことがあります。」

と、晃が語りだした。

「シリアのダマスカスからヨルダン国のアマンを経て、ヨルダン川を越え、聖地エルサレムに入りました。そこで、初めて岩のドームを見たのです。この岩は、一説によれば、マホメットが昇天した場所だとも言われています。また、岩の下には、ソロモン王の財宝やモーゼの十戒を刻んだ石板が埋めてあるとも言われています。真偽のほどはよくわかりませんが。」

このドームは、聖なる『アブラハムの岩』を保護するために、7世紀末に建設されたものだ。このドームの円頂閣に、ある文言が刻まれていることに晃は気が付いた。

「このドームに、『この世界に執着している者は、もう一つの世界を失う』と書かれてありました。これには驚きました。ぜひこの聖句を持ち帰りたいと思いまして、これを書き記した額とかそれに類似した土産物を売っていないかと尋ねましたが、それらしいものはありませんでした。今までに何千万人もの人々がこの地を訪れたと思いますが、この碑文には、だれも気が付かなかったみたいですね。幸い、私はアラビア語を解することができたので、その意味を読み解くことができました。」

晃は、アラビア語の聖句の隣に、古いヘブライ語に似た文字も見つけたという。書き写して、バクダッドやレバノンの大学教授、知識人など多くの友人や知人に聞いたが、いずれも読める人はいなかったという。

「この世の中には、私たちが、うわべだけでしか言葉を理解していないことがいかに多いことでしょうか。残念なことです。たとえば、『南無(namas)』というのは、サンスクリット語では『帰命』つまり『心から仏の教えに従う』という意味です。また、ヘブライ語では『厳粛なる宣言を行う』ということを意味します。私は、サンスクリット語で書かれた般若心経の英訳もしたのですが、古代へブルのカバラ哲学とよく似ているのですね。偶然なのかもしれませんが、とても面白いと思っています。こんなことに興味を持って、サンスクリット語やヘブライ語を学ぶのは、私だけなのでしょうかね。」

そう言って、晃は笑った。

民族を理解するということは、その言葉を理解することだと思われる。それを実践していった鳥沢晃という男のすごさを感じた。多くの情報が飛び交う世の中になり、私たちは、表面的な意味だけを解釈して、民族や人類を理解したと思い込んでいるのではないだろうか。

つづく

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12月12日(水)のつぶやき

2012-12-13 04:06:38 | 物語
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