「あーあ、けっきょく今年の夏休みは、どこにも行かれなかったなあ」
隆志はそういうと、ストローの袋をプッと吹き飛ばしてきた。
優(まさる)は、とっさにそれを手で払った。はねかえされた紙袋は、向かい側の席にすわっていた雄太のマックシェ―クの中に飛び込んだ。
「ゴーール。優選手、ナイスシュート」
隆志はゴールが決まった後のサッカー選手のように、両手を高く差しのべて喜んでいる。
「きったねえなあ」
雄太はぼやきながら、紙袋をシェークから取り出した。
「おまえって、ほんとにストロベリーしか飲まないんだなあ」
下半分がきれいなピンク色に染まった紙袋を見て、隆志がいった。
たしかに雄太は、飲み物はいつもストロベリー一本やりだった。マックだけではない。ロッテリアでも、ケンタでも、サブウェイでもそうだ。吉野家に行った時なんかは、わざわざミニストップでストロベリーのハロハロを買ってきていたほどだった。
四週間も続いた塾の夏期講習も、いよいよ今日が最終日。
いつも塾へ行く前に、優は、隆志、雄太、そして秀平と昼ごはんを食べている。駅ビルにあるファーストフード店は、とっくにすべて制覇していた。
うしろの壁にかかった時計が、ようやく十二時をさした。塾が始まるまでには、まだずいぶん余裕がある。
「このあいだの模擬テスト、どうだったあ?」
それまでだまっていた秀平が、さりげなさそうにたずねた。
でも、内心は興味津々なのが優にはわかる。
「ぜーんぜん、だめ。数学なんか、ぜーんぶ間違ったかもしれない」
すぐに隆志が大声で答えた。
(うそつけ)
優はそう思ったけれど、口には出さなかった。
毎週ある模擬テストで、隆志はこのところぐんぐん成績をのばしている。
優たちの塾では、模擬テストの成績によって自動的にクラス分けが決まる。一学期までは、隆志は優よりひとつ下のクラスだった。
でも、今では優と同じ上から二番目のクラスまで上がっていて、さらにトップクラス入りの機会もうかがっている。うわさでは、新しい家庭教師もついたらしい。
「おれもぜんぜんだめ。クラス、おっこちたらどうしよう」
秀平も顔をしかめていった。
(こいつも、大うそつき)
秀平は、全国で30教室、3000人以上もいるこの塾でも、つねにトップ50に入っているのだ。胸にはトップクラスの印の金バッチが、これみよがしに光っている。
「おれもさあ、ぜんぜんだめで、またクラスがさがっちゃうよ」
二人の話につられるように、雄太もいった。
(こいつだけは、馬鹿正直)
雄太は、夏季講習になってからふたつもランクを落としてしまっている。
今では、下から二番目のクラスに入っていた。このままでは、夏休み明けに行われる父兄面談で、志望校を変更させられることだろう。
優たち四人は、同じ小学校だった。それまで、特に仲が良かったわけではなかったが、同じ塾に通うようになってから、なんとなくグループを作るようになっていた。
「優はどうなんだよ」
秀平が、ずっと黙っていた優にたずねた。
「どうかなあ、わかんねえなあ」
優は、何気なさそう答えた
「おーお、また優のおとぼけが始まった」
すかさず突っ込みを入れてきた隆志に、優は笑ってごまかした。
でも、本当の所は、優は模擬試験の結果をおおいに期待していたのだ。うまくいけば、初めてトップクラスに入れるかもしれない。そうすれば、おかあさんとの間で、残りの夏休みを少しはのんびりさせてもらう約束になっている。
「さてと、ボチボチ、ゲーセンにでも行きますか?」
いつものように、隆志が真っ先に立ち上がった。秀平と優もすぐに続く。
後では、いつものように雄太が四人分のトレイを片づけている。驚くほどたくさん出たハンバーガーの紙くずやシェークのコップなどを、勢いよくゴミ箱にほうり込んでいた。
マックの外に出ると、駅ビルの通路は大勢の人たちでごったがえしていた。三人は、雄太を待たずにすぐに歩き出した。
「おれ、ちょっと買物があるから」
優は、できるだけさりげなく二人にいった。
「なんだよ、買物って」
あんのじょう、隆志が不機嫌そうな顔をしてたずねてきた。いつでも、仲間を仕切っていないと気が済まない性格なのだ。
「ひ・み・つ」
「こっそり女の子と会ってたりして」
秀平がすかさず突っ込みを入れる。
「じつは」
わざとおどけて答えた。
「うそーっ!」
後から追いついてきた雄太が、おおげさに騒いでくれた。
「ない、ない、だいじょうぶ。こいつに限って、そんなことないって」
隆志が自信たっぷりにいいきったので、秀平と雄太も笑い出した。優はそのすきに、すんなりと三人と別れることができた。
八月も残すところあと数日。まだお昼を過ぎたばかりなのに、駅ビルの外はもう三十度を越すような暑さだった。そのギラギラと照りつける強い日差しの下で、優は走りだしていた。
今年の夏は気象観測が始まって以来の暑さだとかで、夏休みに入ってからずっとこんな天気が続いている。テレビでは、海やプールはどこも超満員だと騒いでいた。
でも、中学受験を控えて毎日夏期講習に通う優たちには、まったく無縁の世界だった。ただもうひたすら暑くて苦しいだけだった。むしろ動物園でぐったりしている白熊やペンギンのニュースの方が、共感が持てたぐらいだ。
隆志じゃないけれど、今年の夏休みは本当につまらなかった。7月の終わりに、さっそく夏季講座のクラス決めの実力判定テストがあったからだ。その日程と重なったために、楽しみにしていた子ども会のキャンプに行かれなくなってしまった。しかも、テストの準備のために、学校のプール開放にさえ、行けたのはたった二回だけだ。それからは、四週間連続の夏期講習。
一年前とはえらい違いだ。去年は、夏休みに入るとすぐに、埼玉のおじさんの家へ遊びに行った。おじさんの家には子どもがいないせいか、いつも優が行くと大歓迎してくれた。お祭りの山車を引いたり、縁日でかき氷やお好み焼きを、嫌ってほど食べさせてもらった。おじさんは、お祭りが終わってからも、わざわざ茨城の海岸へ海水浴にまで連れて行ってくれた。
そこから帰ってからは、毎日、学校のプールに出かけて、真っ黒になるまで泳いだ。
八月に入ってからは、今度はおとうさんの夏休みに合わせて、泊りがけで海や遊園地へ出かけていった。
そして、夏の終わりにもビッグイベントがあった。去年まで入っていた少年野球チームの仲間とのバーベキュー大会。おなかいっぱい焼肉や焼きそばを食べたり、スイカ割りをしたり、大きな岩のてっぺんから川へ飛びこんだりと、思いっきり遊んだのだ。
今思うと、まるで夢のような日々だった。
でも、夏期講習も今日で終わると思うと、汗だくになって走りながらもかなりいい気分だった。
駅から少し離れた七階建ての古いビルの前で、優はようやく足をとめた。この四階にN模型店がある。今日は、雑誌に載っていた新製品の電気機関車を買う予定だった。
期待どおりに模擬テストでトップクラスに入れれば、 久しぶりに自分の部屋にレールを敷くことができる。何ヶ月ぶりかで、思う存分鉄道模型に熱中できるのだ。
鉄道模型のことは、もちろんみんなには内緒だった。
隆志にでも知られたら、
「やっぱ優って、クラーイ奴」
と、馬鹿にされるのがおちだ。
一階にある喫茶店の横の狭いガラスドアを押して、勢いよく飛び込んだ。ビルの中はエアコンがよくきいていて、ヒンヤリとしている。すっかり汗びっしょりになっていたので、ホッと一息つくことができた。
つきあたりの古ぼけたエレベーターのボタンを押すと、かすかなうなりを立てて動き出した。
おんぼろエレベーターは、ゆっくりゆっくりと降りてくる。優は少しイライラしながら、エレベーターのとびらをコツコツとこぶしでたたいていた。
ふと横を見ると、すぐそばの守衛室では、年よりの警備員が眠たそうな顔をして腰をおろしていた。
しばらくして、ようやくエレベーターがガタンと大きな音をさせて到着した。
ギギギッ。
嫌な音をたてて開いたドアからは、誰も出てこなかった。そういえば、今日は土曜日だ。ビルに入っている会社もお休みが多いのだろう。夏休みも終わりに近づいていたので、曜日の感覚が完全に狂ってしまっている。それに、塾の夏季講座は、土曜も日曜もおかまいなしだった。
四階でエレベーターを降りたとき、優は嫌な予感がした。いつもと違って、あたりにぜんぜんひと気がなかったからだ。
急いで細い廊下を右手にまがった。
あんのじょう、つきあたりのN模型店の入り口には、灰色のシャッターが下りている。
優がかけよると、シャッターにはマジックで書いたメモがはってあった。
『まことに勝手ながら、本日(8月28日)は、臨時休業させていただきます。
店主敬白』
「チェッ」
優は舌打ちすると、シャッターを軽くたたいてみた。
でも、うつろな音がしただけで、中からは何も応答はなかった。
優は、未練たらしくN模型店のまわりをウロウロ歩きまわっていた。すぐに塾へ行く気も、ゲーセンへ戻ってみんなに合流する気も、ぜんぜん起きなかった。なんとか夏期講座を終えて、たった三日間の短い夏休みを楽しもうとはりきって来たのに。すっかり水をさされた気分だった。
N模型店の入り口の左側には、大きなショーウィンドウがあった。そこには、Nゲージの鉄道模型がレイアウト(ジオラマ)で展示されていた。電車や線路をただ並べて展示するのではなく、まわりの風景や人間たちまでがミニチュアで作られている。町や山などの中を走る鉄道を、ひとつの世界として再現しているのだ。
この店のジオラマでは、いろいろな編成の列車がいくつも同時に走り回っていた。優のような鉄道模型ファンにとっては、まるで夢のような世界だった。
(あれ?)
ふと気がつくと、ショーウィンドウの横のガラス戸がほんの少しだけ開いていた。いつもはピチッと閉じられていて、鍵もかかっている。
ガラス戸のすぐ向こうには、ジオラマの制御盤があった。
おそるおそるガラス戸を、もう少しだけ開けてみた。そして、しばらくあたりの様子をうかがった。この四階には、N模型店以外にも小さな会社がいくつか入っている。
でも、何も起こらない。
大胆になった優はガラス戸を大きく開けると、制御盤に手をのばした。制御盤には電車の運転台を模したコントローラーが2セットついている。
思いきって、電源スィッチをオンにした。
(あっ!)
ジオラマの町にいっせいに灯りがついたので、優は思わず飛びあがってしまった。
ビルの窓、街灯、そして、町外れのスタジアムの照明もともって、まわりのガラス戸にキラキラとはねかえっている。
しかし、それでも、誰もやって来なかった。どうやら、N模型店だけでなく、四階の他の会社も今日はお休みらしい。
駅には、C57蒸気機関車と新型の特急あずさが停まっていた。
優は、手前のコントローラーを少しずつ動かしてみた。
特急あずさが、ゆっくりとホームから動き出した。徐々にスピードを上げながら、ビルの立ち並ぶ町の中心を離れる。
そこには、アメフトのスタジアムがあった。かわいいヘルメットをかぶったミニチュアの選手たちが、熱戦の真っ最中だ。手にピンクのポンポンを持ったチアガールたちもいる。
一瞬、チアガールの一人が、こちらに向かってウィンクをしたような気がした。
でも、スピードを上げた特急あずさは、あっという間に町を離れると、赤い鉄橋を渡った。
川の向こう側は、のどかな田園地帯だ。たんぼにはカラフルなかかしと、虫取り網を持った子どもたちがいる。
(何を取っているんだろう?)
と、思うまもなく、特急あずさは深緑のおむすび山のトンネルに吸い込まれていった。
優は、すばやくトンネルの出口側へ移動した。特急あずさは、あっという間にトンネルから出てきた。大きなカーブで、クリーム色の車体を本物そっくりに傾けてまがっていく。
(これが、振り子機能かあ!)
雑誌の広告で見たばかりの新機能だった。
うっとりと見とれているうちに、早くも一周した特急あずさはホームをすべるように走り抜けていく。
急いでガラス戸まで戻ると、また制御盤に手を伸ばしてもうひとつのコントローラーを動かした。
今度はC57蒸気機関車が、ゆっくりと特急あずさとは逆の方向に動き出した。小さなピストンを力強く動かして、青い客車を四両もひっぱっていく。
優はガラス戸にベッタリとほほをくっつけて、目線をできるだけ線路の高さに持っていけるよう腰をかがめた。そうすると、ますます本物そっくりに見えて迫力満点なのだ。
C57蒸気機関車は、ビーチパラソルのならんだ海岸を抜けて、トンネルの手前で特急あずさとすれ違った。
優は、ふと腕時計に目をやった。
(うそーっ!)
驚いたことに、もう一時十分前になっていた。
ほんの十分ぐらいたっただけのつもりだったのに、ジオラマに夢中になっているうちに、いつのまにか三十分以上もたってしまっていたことになる。まるで、きつねにでもつままれたような思いだった。すぐに走って行かないと、塾に遅刻してしまう。
あわててガラス戸まで戻ると、制御盤に手を伸ばした。
コントローラーを慎重に操作して、特急あずさを元のホームにピッタリと停車させる。
うまくいった。
次はC57の番だ。蒸気機関車の小さなピストンは、ゆっくりと動きを止めた。
続いて電源スイッチを切ると、ビルの、街灯の、そしてスタジアムの灯りがいっせいに消えた。ジオラマに吹き込まれていた「命」がなくなってしまったようだ。それと同時に、優のいる現実世界までが、急に色あせた物になったように感じられた。
次の瞬間、自分でも気がつかないうちに、ミニチュアを一個、手の中ににぎりしめてしまっていた。さっきスタジアムで、優にウィンクしたピンクのポンポンを手にしたチアガールだ。
優は、彼女を右のポケットにつっこんだ。そして、ショーウィンドウのガラス戸を閉めると、足早に立ち去った。
ギギギッ。
嫌な音を立てて、エレベーターのドアが開いた。
優は急いで乗りこむと、一階のボタンと「閉」のボタンを続けて押した。また同じ音がしてドアが閉まり、エレベーターが動き出した。
ガッ、ガッタン。
降り始めてすぐに、エレベーターが停まってしまった。
と、同時に、中の灯りが消えて真っ暗になった。
(わーっ、停電?)
暗闇の中で、優は一瞬パニックになりかけた。
でも、すぐに天井の非常灯がぼんやりとついてくれた。どうやら非常用の電力に切りかわったらしい。
しかし、エレベーターはまだ動き出さなかった。ドアの上のランプを見ると、「4」のところに灯りがともったままだ。
優は、ドアの横の行き先ボタンをかたっぱしから押してみた。
でも、なんの応答もない。
もしかすると、非常用の電力では、エレベーターを動かせないのかもしれない。
それでも、その時は誰かがすぐに来てくれるだろうと思っていた。
5分たち、やがて10分が過ぎた。
誰もやってこない。ジオラマで遊んでいるうちに、このビルにいた人たちはみんないなくなってしまったのだろう。
(だけど、警備員のおじいさんがいる)
しかし、おじいさんが眠そうな顔をしていたことを思い出した。もしかすると、いねむりでもしているのかもしれない。
と、その時、行き先ボタンの上に、黄色いボタンとインターフォンがついているのに気がついた。
薄暗いけれど、
(非常のときはこのボタンを押してください)
と、書いてあるのがなんとか読めた。
非常ボタンに伸ばしかけた手を、優はあわててひっこめた。誰もビルにいないはずなのになぜエレベーターにいるのか、怪しまれてしまうかもしれないと、思ったからだ。
空調が停まったせいか、エレベーターの中はだんだん暑くなってきている。ハンカチを出そうとポケットにつっこんだ手に、何かが触れた。
取り出してみると、何気なく持ってきてしまったチアガールの人形だ。
(なぜ、こんなことをしてしまったのか)
自分でもわからなかった。
(これを持ってきてしまったことも、ばれてしまうかもしれない)
そう思うと、ますます非常ボタンを押せなくなってしまった。
時計を見ると、とっくに一時を過ぎてしまっている。夏季講習の一時間目の授業は、もう始まっていることだろう。隆志たちは、なんで優が来ないのかと、不思議に思っているかもしれない。
運の悪いことに、明日は日曜日だ。へたをすると、出られるのは月曜日になってしまうかもしれない。ここに閉じ込められたまま、貴重な三日間だけの「夏休み」が、どんどんなくなってしまう。
エレベーターの壁を見ながらそんなことを考えていると、胸の奥の方がジワーッと苦しくなってきた。
優は背中のデイバッグをおろして、床にぺたりとこしをおろしていた。エレベーターの後の壁にもたれて、じっとドアを見つめている。
でも、ドアはピタリと閉じたまま開かない。
とうとう見つめるのをあきらめて、優は目を閉じた。
頭の中に、さっきのジオラマの世界が広がってきた。町並みが、田園風景が、おむすび山のトンネルが、見えてくる。
特急あずさが、すばらしいスピードでホームを通り過ぎた。C57蒸気機関車が、赤い鉄橋を力強く渡っていく。
アメフトのスタジアムが見えてきた。ここでも、チアガールは誰かをけんめいに応援していた。
ショーウィンドウに顔をべったりとつけて、優は一心にながめている。
いつのまにか、空想は狭いジオラマを抜け出して、外の世界へ飛び出していった。
どこかの広い庭いっぱいに広がった線路。何重にも複雑に入り組んでいる。つつじやさざんかの植え込みをぬい、置石のまわりをめぐって、たくさんの列車が走り回っている。
新幹線の「のぞみ」がサルスベリの向こうからやってきた。二階建ての「MAX」は、竹林のそばを走っている。
優は線路を踏まないように気をつけながら、庭中をピョンピョンとはねまわった。
(あっ!)
ロマンスカーとスカイライナーが正面衝突しそうだ。
と、思った瞬間、ポイントが自動的に切り替わって、ぎりぎりで無事にすれ違った。
ふと気がつくと、優はいぜんとして薄暗いエレベーターの中にいた。腕時計を見たら、いつのまにか三十分近くがたっていた。
とうとう優は、思い切って非常ボタンを押した。
しかし、呼び出し音は確かに鳴っているのに、誰も出てくれない。優はじっと受話器に耳を押し当てていた。
「……。ど、どうしました」
あきらめかけたとき、ようやくインターフォンから、あわてたような男の人の声が聞こえてきた。
「エレベーターが停まっちゃって」
優がそういうと、しばらくガチャガチャと雑音がした。それにまじって、
「あっ、ほんとだ」
と、つぶやいているのが聞こえてきた。
「ちょっと、待ってください」
男の人はそういって、インターフォンを切った。
しばらくして、ようやくエレベーター内の蛍光灯がついた。そして、それと入れ代わるようにして、非常灯が消える。
ウーーン。
かすかなうなりを立てて、エレベーターが動き出した。どうやら、一時的に電源がとまっていただけらしい。
優は、急いですべての階のボタンを押した。
ギギギッ。
また同じ音をたてて三階でドアが開いたが、今度ばかりは嫌な音には聞こえなかった。
すぐにエレベーターから飛び出した。
久しぶりに吸う外の空気はさすがにうまかった。知らず知らずのうちに、エレベーター内の空気が汚れてしまっていたのだろう。
ダダッダダッ、……
優は、むかい側の階段を勢い良くかけおりていった。
一階では、予想どおりに警備員が待ち構えていた。あのおじいさん警備員だ。
「あっ、だいじょうぶでしたか?」
意外にも、ていねいな口調だ。
「あ、はい」
「いつごろ、停まったのですか?」
「一時間ぐらい前かなあ」
優が少しサバを呼んでいうと、驚いたような表情をうかべた。
「えーっ、おけがはないですか?」
警備員の態度は、すっかりオドオドしている。もしかすると、本当にいねむりをしていて、責任を問われるのを恐れていたのかもしれない。
けっきょく、警備員は拍子抜けするほどあっさりと、優を自由にしてくれた。
ビルの外へ向かいながら、きっとあの警備員はこの「事故」のことは会社に報告しないだろうなと思った。
急いでビルを飛び出すと、またギラギラする強い日差しの下を、優は塾に向かってけんめいに走りだした。
ようやく塾にたどりついた時は、もう二時近くになっていた。ちょうど一時間目の後の休憩時間だ。
塾の玄関の壁には、いつものように模擬テストの結果がはってあった。
(あった!)
期待どおりに、トップクラスの中に自分の名前を見つけた。
もちろん、秀平の名前も、その中のトップ、つまりこの塾全体で一番のポジションにあった。
でも、意外にも、隆志の名前はトップクラスの中になかった。くやしがっている顔が目に浮かぶようだ。
雄太は、予想どおりにひとつクラスを落としていた。これで、夏休み明けの父兄面談では、志望校変更をいわれるのはまぬがれないところだろう。
「おや、村下。一時間目はサボリか?」
入り口わきの控え室にいたトップクラス担任の斉藤先生が、目ざとく優を見つけて声をかけてきた。
「ほらっ。でも、トップに入ったからって、油断するなよ」
そういって、模擬試験の成績表とトップクラスの印の金バッチを渡してくれた。
成績表を開いてみると、コンピュータが打ち出したコメントには、
(志望校の合格確率は90%以上。でも、油断せずにがんばろう)
と、書かれていた。家に帰ってこれを渡したら、おかあさんはお赤飯を炊くかもしれない。
二時間目の授業が終わったとき、秀平がそばへやってきた。
「トップクラス入り、おめでとう」
「いやあ、まぐれ、まぐれ。それより、秀平はトップじゃない。これで、特待生入りは確実だな」
この塾では、成績優秀者の中で特に上位の生徒は、特待生として授業料が免除されている。
「どうかなあ。まだ今月の成績だけじゃ決まんないと思うけど」
そういいながらも、秀平はまんざらでもないような表情を浮かべていた。
「おっ、いたいた」
隆志と雄太が教室に入ってきた。
「優、どこに行ってたんだよ? トップクラスのメンバーともなると、さすがに余裕だな」
皮肉っぽくいいながらも、やはり隆志はくやしそうだった。
「うん、ちょっとな」
「やっぱり、女の子と会ってたりして」
雄太が、少し重くなりかけた雰囲気をそらせてくれたので、
「まあね」
と、すかさずおどけて見せた。
「ちぇ、女の子とのデートに、トップクラス入りか。優ばっか、いい目見てるじゃねえか」
さすがの隆志も、今度はお昼のときのように否定してみせる余裕はないようだった。
三時間目のチャイムがなったので、隆志たちは教室を出て行った。遅刻のことをそれ以上追求されなかったので、優はホッとしていた。
その日の帰り、最後の授業が終わると同時に、優はすばやく教室から抜け出した。
「おーい、優ーッ」
隣のクラスの前を通りかかったとき、中から隆志の呼ぶ声がした。
でも、聞こえないふりをしてそのまま素通りすると、勢い良く階段をかけおりた。今日のことを、これ以上あれこれ聞かれるのがいやだった。それに、一刻も早く帰って、トップクラスに入れたことをおかあさんに報告したかった。そして、それから短い夏休みを満喫するのだ。
塾の建物を出た時、ポケットの指先に何かがふれた。取り出してみると、あのチアガールのミニチュア人形だ。ジオラマにいた時と同じように、ピンクのポンポンを手にしている。
(いったい誰を応援しているのだろう?)
なんだかこのまま持っていると、今日のことがみんなに知れ渡ってしまうような気がしてきた。
ジオラマのこと、エレベーターの事故のこと、そしてチアガールを持ってきてしまったこと。
どこかに捨ててしまおうと、あたりをキョロキョロと見まわした。向かいのコンビニの前に、大きなゴミ箱が置いてある。優はまわりの人たちを気にしながら、ゴミ箱に近づいていった。
ポケットからそっとチアガールを取り出す。ゴミ箱のふたを押して、思い切って中に捨てようとした。
でも、次の瞬間、優はドキッとして手を引っ込めた。また、彼女がウィンクしたように見えたのだ。そして、ジオラマで遊んでいた時の、あのうっとりするような満ち足りた気持ちがよみがえってきた。それと同時に、あたりの現実の風景が急に色あせて感じられてきた。
けっきょく、優はチアガールを捨てられないまま、その場を立ち去った。
その後も、優はチアガール人形をなかなか捨てられることができずに、町中をさまよっていた。
いつのまにか、S川にかかる橋に通りかかった。塾を出たときはまだ明るかったのに、あたりはすっかり薄暗くなっている。
あのギラギラした夏の太陽も、とっくにビルの向こうに沈んでしまった。
優は橋の中ほどの欄干によりかかって、川面をながめていた。黒く濁った水が、白い洗剤の泡のような物を浮かべて流れている。
ポケットからチアガールを取り出すと、ウィンクを見ないように目をつぶって川に捨てようとした。
でも、どうしても捨てられない。
なぜだか、これを捨ててしまうと、自分の一番大事なものが失われてしまうような気がしたのだ。
チアガールをまたポケットに突っ込むと、別の物が指先に触れた。取り出してみると、あのトップクラスの金バッチだった。金メッキされたバッチは、街灯の光を受けてキラキラと安っぽく光っている。
じっと見つめていると、塾や受験のことが、なんだかすごく遠くのことになってしまったような気がした。
優は、金バッチをチアガールの代わりに川に投げこむことを心に描いてみた。金バッチは、きれいな放物線を描いて流れの真ん中あたりに落ちていく。
でも、やがて優は、金バッチをチアガールと一緒に、そっとポケットの中へしまった。
 | 事故 平野 厚 平野 厚 |