60年代初めのリアリズム作品を中心に、当時の課題について論じています。
初めに、「子どもの家」同人による「つるのとぶ日」が取り上げられて、原爆を子どもたちに伝えるために「童話」を勉強したとする書き手たちの姿勢に対して、「童話」という手法では被爆の実感を象徴的に描いくことはできても、もっと散文的に書かないと戦争そのものやそれが現在の子どもたちとどのようにつながるかを描き出せないとしています。
東京大空襲を描いた早乙女勝元「火の瞳」も実感に頼っていて、自分のうちにある子どもと対話して(これは「現代児童文学」の書き手固有の感覚で、私も本当の意味で創作をしていた80年代後半のころは、「内なる子ども」に向けて書いていました)、その子どもの可能性(人間存在の根源的な意味や変革の可能性など)まで引き出した作品を描かなければならないとしています。
これらの作品は、現在では「戦争児童文学」とカテゴライズされていますが、当時はまだこの用語は一般化されていませんでした(関連する記事を参照してください)。
著者は、この時期にリアリズム作品のある到達点に達したとして、山中恒「とべたら本こ」、吉田とし「巨人の風車」、早船ちよ「キューポラのある街」をあげています。
「とべたら本こ」と「キューポラのある街」は、それまで子どもは大人から抑圧されている被害者だとする児童文学から、抜け出ようとしているとしています。
ただし、「キューポラのある街」は子どもたちには分かりにくいシーンもあると指摘しています(当時の著者は、児童文学の読者を中学下級以下としていたようです)。
「とべたら本こ」も、現状で生き抜くことを描いていて、こうした現状を作り上げている権力への批判はないとその限界を示しています。
「巨人の風車」は、そこで語られている夢のイメージを高く評価していますが、外国の事件を描いていて日本の子どもたちとの関わりは留保されているとしています。
著者は、全体として実際の事件をもとに書かれた作品が多いとし、それを個人の実感だけを描くのではなく、もっと事実を調査して、その事件の運動体(例えば戦争)の法則と微小な個人の実感を統一する記録にまで高める必要があり、そのためにもよりフィクション化することを求めています。
初めに、「子どもの家」同人による「つるのとぶ日」が取り上げられて、原爆を子どもたちに伝えるために「童話」を勉強したとする書き手たちの姿勢に対して、「童話」という手法では被爆の実感を象徴的に描いくことはできても、もっと散文的に書かないと戦争そのものやそれが現在の子どもたちとどのようにつながるかを描き出せないとしています。
東京大空襲を描いた早乙女勝元「火の瞳」も実感に頼っていて、自分のうちにある子どもと対話して(これは「現代児童文学」の書き手固有の感覚で、私も本当の意味で創作をしていた80年代後半のころは、「内なる子ども」に向けて書いていました)、その子どもの可能性(人間存在の根源的な意味や変革の可能性など)まで引き出した作品を描かなければならないとしています。
これらの作品は、現在では「戦争児童文学」とカテゴライズされていますが、当時はまだこの用語は一般化されていませんでした(関連する記事を参照してください)。
著者は、この時期にリアリズム作品のある到達点に達したとして、山中恒「とべたら本こ」、吉田とし「巨人の風車」、早船ちよ「キューポラのある街」をあげています。
「とべたら本こ」と「キューポラのある街」は、それまで子どもは大人から抑圧されている被害者だとする児童文学から、抜け出ようとしているとしています。
ただし、「キューポラのある街」は子どもたちには分かりにくいシーンもあると指摘しています(当時の著者は、児童文学の読者を中学下級以下としていたようです)。
「とべたら本こ」も、現状で生き抜くことを描いていて、こうした現状を作り上げている権力への批判はないとその限界を示しています。
「巨人の風車」は、そこで語られている夢のイメージを高く評価していますが、外国の事件を描いていて日本の子どもたちとの関わりは留保されているとしています。
著者は、全体として実際の事件をもとに書かれた作品が多いとし、それを個人の実感だけを描くのではなく、もっと事実を調査して、その事件の運動体(例えば戦争)の法則と微小な個人の実感を統一する記録にまで高める必要があり、そのためにもよりフィクション化することを求めています。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
クリエーター情報なし | |
理論社 |