現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J.D.サリンジャー「フランスへ来た青年」若者たち所収

2021-01-31 15:23:08 | 参考文献

 優雅なイメージを持つタイトルとは全く違って、ノルマンジー上陸作戦でフランスに連れてこられたアメリカ兵の青年が、ドイツ兵との激しい戦闘の後のつかの間の休息において虚無的な気分に陥っているのを、アメリカから送られてきた妹の手紙によって救済される話です。
「最後の賜暇の最後の日」(その記事を参照してください)の後日談なので、青年は24歳、妹は10歳です。
 戦争の残酷さ(敵も味方も、彼のまわりでたくさん死んでいきます)で心をズタズタにされた若者が、無邪気な妹の手紙に救済されるのは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)で、今度の学校も退校になり心がズタズタになっていたホールデンが、妹のフィービーとの会話の中で、自分が本当になりたいのが、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちがつい飛び出して崖から落ちないように捕まえる人(つまり、キャッチャー・イン・ザ・ライ)であることに気付く場面とつながっています。
「無垢な魂による傷ついた魂の救済」
 これは文学だけでなく多くの映画(例えば、「シベールの日曜日」、「道」、「カビリアの夜」など(それらの記事を参照してください))でも繰り返し表現されてきました。
 そして、それこそが児童文学にとっても神髄であると、固く信じています。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「一面識もない男」若者たち所収

2021-01-31 15:21:20 | 参考文献

 第二次世界大戦において、フランスで一緒に従軍した戦友の死の様子を、戦友のかつての恋人(今は他の人の妻になっています)に伝えに来た青年を描いています。
 この青年は、「最後の賜暇の最後の日」(その記事を参照してください)に出てきたベーブ・グラドウォラで、亡くなった戦友はその作品にも出てくるヴィンセント・コールフィールド(「フランスの青年」、「このサンドイッチ、マヨネーズがついていない」(それらの記事を参照してください)の主人公)です。
 この作品におけるベーブはかなり不安定になっていて、戦場での出来事(特にヴィンセントの死)を引きずっています。
 それに対して、元恋人は完全に新しい人生を踏み出していて、ヴィンセントの事は過去の想い出(一応泣きますが)にすぎません。
 過酷な戦場体験を味わった当時の若い男性たちと、遠く戦地(ヨーロッパやアジアです)を離れて過ごしていた若い女性たちとの対比が、残酷なほどくっきりと描かれています。
 こうした不安定な男性たちを癒す存在は、サリンジャー作品ではいつも妹たち(この作品ではマティ・グラドウォラで、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)ではフィービー・コールフィールド)です。
 ここでも、イノセンスな魂が傷ついた魂を救うといういつもの構図が成り立っています。
 一方で、コールフィールド兄弟(ヴィンセントとホールデン(「キャッチャー・イン・ザ・ライの主人公)が共通して引きずっているのは、まだ幼いうちに亡くなった優秀な弟(この作品ではケニス・コールフィールドになっていますが、彼が時代設定は異なるものの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のアリー・コールフィールドと同一人物であることは明らかです)です。
 こうしたイノセンスな魂(サリンジャーの場合は、永遠に失われてしまった弟と現存して自分を力づけてくれる妹)の力こそがサリンジャー作品の神髄であり、優れた児童文学作品(例えば宮沢賢治の作品群)とはその点で共通性があります。
 なお、この作品でベーブが罹っている「枯れ草熱」はHay Feverで、花粉症の事です。
 私の本は鈴木武樹訳で、1971年の出版なので、日本での花粉症はまだ一般的ではありませんでした。
 作品内では、ベーブはヴィンセントの元恋人と会っている時にひっきりなしにくしゃみをしていて、その時のベーブの気分を表わすのに非常に有効な小道具になっているのですが、初めて読んだ時(高校生でした)は、まだ私は花粉症にかかっていなかったのでピンときませんでした(今は身に沁みてわかります)。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
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