ケストナーは、児童文学を論じるときにいつも問題になる三者の関係について述べています。
かつて児童文学研究者の石井直人は、「児童文学は、子どもと文学という二つの点をもとに描かれた楕円形をしている」と定義しました(その記事を参照してください)。
ケストナーはそこまで明確に定義していませんし、引用している先人たちの文章も私は未読のため、正しく理解するのは難しかったのですが、以下のような命題が心に残りました。
「詩を書いたことのない作家は、作家ではない!」
これが本当に正しいかどうかは、議論のあるところです。
私の好きな児童文学作家は、18歳の時に大学の児童文学研究会に入る時に先輩から問われて答えてからまったく変わらないのですが、宮沢賢治とエーリヒ・ケストナーです。
くしくも、二人とも児童文学作家であると同時に優れた詩人です。
一方で、「自分は、賢治でもなく、ケストナーでもない」という自覚が、自分の児童文学者としての原点でもあります(学生のころに書いた詩のあまりのまずさに絶望したせいもありますが)。
現代の児童文学作家で詩人なのは三木卓など限られた人たちだけで、そのために児童文学の世界から詩情がかなり失われました。
「児童図書だけを書く作家たちは、作家ではない。彼らはまったく児童文学作家ではない。」
戦前は、日本でも、芥川龍之介や有島武郎などの一流の文学者たちが、優れた児童文学を書きました。
しかし、戦後の児童文学運動は児童文学者だけの閉鎖的なものになり、一流の文学者たちが子どもたちにも適した作品(例えば、庄野潤三の「ザボンの花」や柏原兵三の「長い道」など)を書いても、ほとんど黙殺されています。
80年代になると、逆に児童文学の優れた書き手たち(江國香織や森絵都など)が、一般文学の方へ「越境」していくようになりました。
「書かれる大部分の児童図書は、有害ではないとしても、むだである。パンのように重要な児童図書は書かれない。」
これは、六十年以上前の発言とは思えないほど、現在の日本の児童文学の状況に当てはまります。
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