2019年に日米同時公開された怪獣映画です。
一言で言えば、薄っぺらい人間ドラマとインチキ臭い科学的説明と最新CGで作られた東宝怪獣オールスターズ(ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラ)が、大暴れする映画です。
怪獣大好きな男の子たち(私もそうですし、きっとこの映画の監督もそうでしょう)が、幼いころにやった怪獣ごっこを、すごくお金をかけて再現してくれているので、大満足でした(後で説明しますが、こうした映画には、薄っぺらい人間ドラマとインチキ臭い科学的説明は必要なのです)。
全編、東宝の怪獣映画(特に初期の映画である「ゴジラ(1954年)」、「空の大怪獣ラドン(1956年)」、「モスラ(1961年)」)へのオマージュに溢れています(私はゴジラと同い年なので、これらの映画をリアルタイムでは見ていませんが、私が子どものころは夏休みには「怪獣映画大会」などと称して古い映画も上映されていたので、小学生のころに見ています。私が、初めて封切り映画を見たのは「キングコング対ゴジラ」(1962年)で、北千住にあった千住東宝というトイレの臭いがただよってくる場末の小さな映画館に、今は亡き父親に連れていってもらいました。恐いシーン(この映画ではキングコングが善い役でゴジラが悪役だったので、キングコングがピンチのシーン)の時に、顔をそむけていた私の目を父が手で覆ってくれたのを今でも懐かしく覚えています)。
主役のゴジラについては、強さや破壊力(お約束通りに放射能の光線を放つのですが、今日日こんなことをやっていいのかと心配になります)だけでなく、天敵の芹沢大助博士(平田昭彦が演じ、戦争で右眼を失ったという設定で眼帯をしているのがかっこ良かったです)発明のオキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊装置)で一度はお約束通りに死亡します。
モスラに関しては、監督の一番のお気に入りらしく、卵、幼虫、さなぎ、成虫と、きちんとステップを踏んで登場しますし、特に根拠は示されずに(怪獣ファンなら誰でも知っているので説明するまでもないのですが)、最初から正義の味方として描かれています。
ラドンに関しては、オリジナル通りに火山(オリジナルは阿蘇山)から登場して、一番の見せ場であるジェット戦闘機に追いつくシーンやラドンが飛び過ぎた後(ラドンの空飛ぶスピードは、軽く音速を超えています)の衝撃波で街なみを破壊するシーンもきちんと登場します。
敵役のキングギドラの圧倒的な強さや迫力はCGならではの魅力が満載(オリジナルでは、大勢のスタッフで演じなければなりませんでした)ですが、初登場の「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964年)では、ゴジラ、モスラ、ラドンの連合軍と戦わされたのですが、この映画ではアメリカ人好みのフェアを大事にしたのか、ラドンが味方してくれます。
また、怪獣の突然の登場に、後ろを振り返りながら逃げ惑う群衆というお馴染みのシーンも、CGだけに頼らずに忠実に再現されています(大量のエキストラを動員する予算の関係か、アメリカではなく、外国でのシーンでしたが)。
主役のアメリカ人一家も、渡辺謙が演じる日本人博士も、それぞれの国の昔のメンタリティ(自己犠牲の精神で自爆してゴジラを復活させる日本人、やたらとヒロイックなアメリカ人)も、忠実に描かれていてけっこう笑えます。
ここで、前述した薄っぺらい人間ドラマとインチキ臭い科学的説明がなぜ怪獣映画で必要かを説明しますと、前者は早くこんなシーンは終わって怪獣同士の戦いが始まらないかなあと観客の気持ちを高める効果がありますし、後者はできるだけたくさんの怪獣同士の戦い(一度死んだはずのゴジラを復活させたり、世界中に散らばって遠く離れていた怪獣たちを素早く集めて戦わせたりしなければなりません)を効率よく実現するのに有効だからです。
ストーリー以外で私が気が付いた、怪獣映画へのオマージュを以下に列挙します。
1.日本を代表する作曲家である伊福部昭が作曲した名曲「ゴジラのテーマ」が、いろいろな形にアレンジされて、全編に流れています。
2.有名な「モスラの歌」がアレンジされて、エンドロールで流れていました(どうせなら、小美人(ザ・ピーナッツ)が歌うオリジナルの「モスラの歌」(これはきちんとインドネシア語でモスラをたたえる歌詞になっているそうです)を流して欲しかったですが)。
3.渡辺謙が演じる芹沢猪四郎博士の名前は、もちろんオリジナルの「ゴジラ」に登場する芹沢大助博士と映画の監督をした本多猪四郎監督の合成です(ちなみに芹沢大助の父親の芹沢英二は、特撮監督の円谷英二との合成であることは言うまでもありません)。
4.エンドロールで、ともに2017年に亡くなった「ゴジラ」や「モスラ」のスーツアクターたちに謝辞を述べています。
5.チャン・ツィイーの演じる女性博士は、同じ研究機関に勤めていた祖母、母も双子という設定で、明らかに小美人を意識しています。
おそらく、私が気付かなかっただけで、他にもたくさん散りばめてあることでしょう。