現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

スライディングタックル

2020-04-21 10:02:31 | 作品
 青チームのフォワードが、相手バックスの前でクルリと反転した。そして、ゴールを背にして、少し後戻りした。次の瞬間、つられて付いてきた赤チームのバックスをサッとかわすと、右足で強烈なシュートを放った。白いボールは、相手ゴールキーパーをかすめて、見事にゴールへ飛び込んでいった。
「ゴオーーール」
 秀樹は、大声で叫びながら立ち上がった。小刻みにステップを踏みながら、両手を交互に回して勝利のダンスを踊った。
 と言っても、これは本物のサッカーの試合のことではない。「スーパープロフェッショナルサッカー」なんて、大げさな名前の付いたサッカーゲームでの話だ。ゲーム盤の横に突き出たスティックで、盤上の人形をガチャガチャと操作して、相手ゴールをねらう奴だ。ビデオのサッカーゲームと違って、奇妙な臨場感があって面白かった。
「ちぇっ、またやられた」
 相手の和也が、悔しそうに言った。
 これで得点は10対7。
今日も秀樹の勝利に終わった。ここのところ絶好調で、これで五連勝か、六連勝目のはずだ。
「二人とも、早くしないとバスに乗り遅れるよ」
 台所から、和也のおかあさんが声をかけてきた。
「あっ、いけねえ」
 二人はあわてて立ち上がると、スパイクや着替えの入ったチームのスポーツバッグをつかんだ。

「カズ、ヒデ、また遅刻だぞ」
 運転席の窓から、コーチが怒鳴っている。
「すみませーん」
 大声で答えた和也に続いて、秀樹も古ぼけた灰色のマイクロバスに乗り込んだ。他のメンバーは、すでに全員揃っている。これから、車で20分ほど離れたグランドまで、サッカーチーム「ウィングス」の練習へ行くところだ。
 秀樹たちがウィングスに入ったのは四年生になってすぐだったから、もう二年以上がたっている。月、水、金と週3回2時間ずつの練習、土日も練習試合や大会でつぶれることが多かった。
 でも、監督やポジションごとにいる専門コーチの熱心な指導に、二人とも満足していた。
 それまで入っていた近所のサッカーチームでは、ゴールキーパーを除いてはポジションなんかほとんど関係なかった。誰もがボールを追っかけることだけに、夢中になっていたのだ。
 でも、ウィングスでは、各選手には決められたポジションが与えられている。そして、そのポジションごとに、きちんと練習メニューが作られていた。
 和也は、攻撃の中心のセンターフォワード。みんながやりたがる花形ポジションに、五年生のときから抜擢されていた。
 一方、秀樹は長身を生かして、ディフェンスの中心、センターバックをずっとやっている。

 グラウンドの中央付近でパスをもらった和也が、ドリブルでこちらに近づいてくる。
(右か、それとも左か)
 秀樹は自分の体をゴールと和也の間に置いて、シュートのコースを消しながら待ち構えた。
 和也が、右にグッと体を傾けた。
(右だ)
 そう思って詰め寄った瞬間に、和也は鮮やかに左へ体を反転させて秀樹をかわしてしまった。そして、そのまま右足で強烈なシュート。
 懸命に跳び付くゴールキーパーの手をかすめながら、ボールはゴールネットに吸い込まれた。
 ピーッ。
コーチのホイッスルが鳴る。
「やったあ」
「カズ、ナイスシュート」
 和也は、喜ぶ味方の選手に囲まれて、両手を上げながら引き揚げていく。
 それを見送りながら、秀樹は足元の地面をガツンッとひとつ蹴った。
(今日も、やられてしまった)
 右へいくと見せかけて左へ。和也の最も得意なフェイントだ。頭では分かっているのだけれど、いつもそれを止められない。和也自慢の一瞬のスピードに、どうしても付いていけなかった。

 秀樹と和也は、若葉幼稚園の時からずっと一緒だ。いや、その前に、近所の公園でおかあさんたちに連れられて会っているらしい。
 秀樹はよく覚えていないけれど、その頃からもう、いつも二人でボールを蹴っていたという。
 幼稚園のサッカースクールに入ったのも、二人同時だった。そして、小学校のサッカーチーム、今のウィングスと、ずっと一緒にボールを蹴ってきた。
 体格的には、小さい時から秀樹の方が恵まれていた。秀樹は六月生れで和也は一月生れだから、赤んぼの時に秀樹が大きいのは当たり前だ。
 でも、その後もずっと秀樹の方が背が高い。
 秀樹の家の居間の壁には、古くなった身長計がある。初めての秀樹の誕生日に、とうさんが買ってくれたらしい。そして、毎年、誕生日に、一人息子の秀樹の身長を記入するのが、秀樹の家の習慣になっている。
 一才の時の秀樹の身長は八十五センチ。そして、去年、十一才の誕生日の時は、百五十九センチだった。
 五才の時からは、秀樹だけでなく同じ日の和也の身長も記録されている。いつも誕生会に来ていたからだ。その記録は、いつも十センチ近く秀樹より低かった。
 来月の十八日に、また秀樹の誕生日がやってくる。
 でも、その身長計はもう使えない。
(なぜって?) 
 だって、目盛が百六十センチまでしかないのだ。秀樹の身長は、とっくにそれを超えてしまっている。

 ピンポーン。
 秀樹の家の玄関のインターフォンがなった。出なくても誰だか分かる。
 秀樹は愛用のサッカーボールを持って、玄関のドアを開けた。
「おーす」
「よお」
 門の外に立っていたのは、もちろん和也だ。やっぱりボールを持っていて、いつものようにはにかんだような笑顔を浮かべている。
 ウィングスの練習のない日でも、二人はいつも一緒に遊んでいた。雨の日には、家の中でこの前のようなサッカーゲームに熱中することもある。
 でも、今日のようないい天気の日は、もちろん本物のサッカーだ。こんな習慣が、もう何年も続いている。
 他の子たちがいるときは、3対3とか、4対4のミニゲームをやった。緊張するウィングスの正式な試合と違って、こういう草サッカーは気楽にできるからけっこう楽しい。
 二人だけの時は、パス、ドリブル、リフティングなどの、サッカーの基本練習をしている。そんな単調なトレーニングでも、二人でやれば楽しかった。
「昨日のJリーグの試合、見た?」
 秀樹が尋ねると、和也は興奮気味に答えた。
「うん、見た見た。マリノスの小島。すげえ、シュートだったろう」
「ああ、やっぱり、あいつはすごいよな」
 秀樹も隣でうなずいた。二人とも、大きくなったらJリーグの選手になるのが夢だ。さらにその後は、ヨーロッパのリーグへ。秀樹は守備が固いので有名な、イタリアのユベントスに入ることが目標だ。和也は攻撃サッカーのスペインのレアルマドリードかバルセロナでプレーすることが夢だった。
だから、テレビ中継は欠かさずに見ている。海外サッカーは有料放送でしか見られないので、Jリーグの試合を見ている。和也はマリノスの、そして日本代表のエースストライカー、小島選手の大ファンだった。
 秀樹は和也と肩を並べるようにして、近くの公園に向かった。

「1、2、3、4、……」
 使い込んで薄汚れたボールが、足の上でリズミカルにはずんでいる。
 ボールリフティング。秀樹と和也は、ボールを下へおとさずに連続してける練習をしていた。
「……、61、62、63、64、……」
 今日みたいにまっさおに晴れあがった日に、ボールリフティングをするのは本当に気もちがよかった。まるで自分もボールになって、はずんでいるかのようなうきうきした気分になれる。
「……、123、124、125、あーっ」
 とうとうバランスをくずして、ボールを下へおとしてしまった。
「ヒデちゃん、最高、いくつになった?」
 そばでボールリフティングをつづけながら、和也がたずねた。
「うーん、300ぐらいかなあ」
 本当は最高283回だったけれど、少しさばをよんでこたえた。
「おれ、おととい、新記録で974出したぜ。もうちょっとで、1000回達成だったんだけどな」
 和也はリフティングをつづけながら、得意そうにいった。
「……、411、412、413、……」
 軽々とけりつづけていく。
 秀樹は、リフティングするのを休んで、そばでながめていた。
 和也は右でも左でも、足の甲でも、ももでも、同じようにボールをけることができた。ときには、ヘディングをまぜたりする余裕さえある。
 どうしてもきき右足にかたよってしまう、秀樹とはちがっていた。
「……、524、525、526、……」
 まるで、ひとりでダンスでもしているかのように、リズミカルにリフティングをつづけていた。そんな和也を見ていると、こちらまで気分がよくなってくる。

「得点は1対1の同点、後半もいよいよあと五分を残すところになりました。アントラーズ対マリノスの首位攻防戦。期待どおりの好ゲームです」
 テレビのアナウンサーが、いつものように絶叫し続けている。
 試合終了直前、秀樹の応援しているアントラーズは一方的にせめまくられていた。相手のマリノスは、現在、Jリーグの首位をしめている強豪チームだ。
 でも、秀樹の大好きなセンターバックの佐藤選手を中心に、アントラーズはなんとか点を取られずに守っている。
「ピーッ!」
 審判のホイッスルがなった。
「反則です。アントラーズの佐藤、マリノスの小島をうしろから手でおさえてしまいました」
 マリノスのエースストライカー、小島のドリブルのスピードについていけずに、つい反則してしまったようだ。ここで抜かれてしまったら、シュートを決められそうだった。そうなったら、今のアントラーズが同点に追いつくのはもう絶望的だ。
「あっ、レッドカードです。佐藤、退場です」
「佐藤選手のこんなプレーを見るなんて、はじめてですよ。かつての佐藤選手なら、得意のスライディングタックルで、うまく防げたはずなんですが、……」
「そうですねえ。ちょっと待ってください。たしか、……。やっぱりそうです。佐藤選手は、これがプレーヤー生涯初めてのレッドカードですねえ」
 チームメイトになぐさめられながら、佐藤選手はがっくりうなだれて退場していった。秀樹はこれ以上ゲームを見る気になれずに、テレビをけしてしまった。

 ザザザーッ。
相手の少し手前からすべりこんでいって、倒れながら強く遠くにボールをはじきとばす。これが、スライディングタックルだ。
 秀樹はボールを持って近くの公園に行くと、一人で練習を始めていた。
 さっき解説者がいっていたように、スライディングタックルは佐藤選手の得意技だ。アントラーズの、そして日本代表のゲームで、何回チームのピンチをすくったことだろうか。
 相手チームのエースストライカーにボールがわたり、ドリブルで味方のゴールにせまっていく。
(だめだ、やられた)
と思って、みんなが目をつぶろうとしたとき、佐藤選手のすて身のスライディングタックル。
 つぎのしゅんかん、ボールは遠くへはじきとばされピンチを脱出していた。
 ザザザーッ。
なかなかうまくいかない。
 頭の中では、マリノスの小島選手がドリブルでせまってくる。秀樹は佐藤選手になったつもりで、スライディングタックルをする。
 でも、ボールをうまくけれなかったり、足が頭の中の小島選手の足をひっかけてしまったりする。
 秀樹は何度も何度も、スライディングタックルの練習をしていた。頭の中の小島選手は、いつのまにか和也に変わっていた。

『アントラーズの佐藤、引退か?』
 翌朝、朝刊のスポーツ欄の片隅にそんな記事が出ていた。20年以上の選手生活で初めての退場処分にショックをうけて、引退を決意したというのだ。佐藤選手は、ファールを取られやすいディフェンスのポジションなのに一度もレッドカードを受けた事がなく、それをとても誇りにしていた。
『かつては日本代表チームのキャプテンまでつとめた佐藤選手。しかし、ここ数年は故障続きと年令からくる衰えとで、精彩を欠いていた』
記事は、冷たくそうしめくくってあった。そして、その上には、マリノスのスーパースター、小島選手の大きな写真がかかげられていた。けっきょく昨日の試合でも、小島選手が決勝ゴールを決めていた。
 秀樹は、新聞を居間のソファーの上に置くと、自分の部屋に戻った。
 そこには、佐藤選手の大きなポスターがはってある。自分と同じポジションだということもあって、佐藤選手はいちばん好きなプレーヤーだった。
 佐藤選手は、長身ぞろいのセンターバックとしては、けっして身体が大きい方ではなかった。
 でも、的確な状況判断と体をはったプレーで、いつも味方のピンチを防いでいた。
 たしかに激しいスライディングタックルをすることで有名なので、相手チームのフォワードからは恐れられていた。
 ただし、わざと反則するような汚いプレーはけっしてしなかった。
 ギョロリとした大きな目と、トレードマークの口ひげ。ポスターの中の佐藤選手は、いつもと変わらぬ闘志あふれる表情をしている。右手を前にさししめして、チームメイトに何か指示を出しているようだ。グラウンド中に響き渡る大きな声が聞こえてきそうだ。

 ザザザーッ。
その後も毎日、秀樹はスライディングタックルの練習を続けていた。学校へ行く前、帰ってきたすぐ後、近所の公園に行って、何度も何度も練習をくりかえした。
 今度の紅白試合では、何がなんでも和也のドリブルを止めたかった。そのために、スライディングタックルをためしてみるつもりだった。
 どんなに注意していても、和也の例のフェイントにはひっかかってしまう。右とみせかけて左へ。頭ではわかっているのに、どうしても体がついていけない。
 それならば、抜かれた瞬間に、スライディングタックルでボールを遠くにはじきとばしてしまおう。それが、秀樹が考えた和也対策だった。
 ザザザーッ。
だんだんタイミングがあって、ボールを強く遠くに飛ばせるようになってきた。
 秀樹は練習をやりながら、佐藤選手のことも考えていた。あの日、退場させられるとき、本当にさびしそうだった。もしかすると、佐藤選手はこのまま本当に引退してしまうかもしれない。あの闘志あふれるスライディングタックルが、もう二度と見られなくなってしまうのだ。そう考えると、なんだかとてもたまらない気持ちになってくる。
 ザザザーッ。
秀樹は頭の中で佐藤選手のプレーを思い浮かべながら、けんめいに練習を続けていた。

 和也は胸でボールをうけると、ゆっくりとドリブルに入った。
「サイド、サイド、カバー」
 秀樹は大声で他のバックスの選手に指示すると、和也の前に立ちはだかった。
 和也は、ドリブルのスピードをグングン上げて近づいてくる。
 目の前にきたとき、右にグッと体重をかけた。
 秀樹がそちらに体をよせると、和也はすぐに左へ体を反転させた。
 得意のフェイントだ。
 秀樹も、けんめいに体勢を立て直してついていく。
でも、一瞬早く和也に抜かれてしまった。
(今だ!)
 秀樹はななめうしろから、スライディングタックルをしかけた。
 ザザザーッ。
秀樹の右足が、ボールにむかってまっすぐのびていく。
(やったあ!)
と、思った瞬間、わずかにボールに届かず、逆に和也の足を引っかけてしまった。
 ピーッ。
コーチのホイッスルがなった。反則を取られてしまったのだ。

「うーーん」
 助け起こそうとした和也が、右足首をかかえてうめいている。
「どうした?」
 監督やコーチたちが、あわててこっちにとんできた。他の選手たちも集まってくる。
「スプレー、スプレー」
 監督が、グラウンドのまわりで練習を見守っているおかあさんたちにどなった。マネージャーをやっているキャプテンのおかあさんが、救急箱を持って走ってきた。
 監督は和也の足首に、シューシューと痛み止めをスプレーした。そして、慎重な手つきで和也の右足首をゆっくりと動かしてみた
 でも、和也は、監督にさわられるたびに痛そうに顔をしかめている。
「春の大会が近いというのに、……」
 うしろでは、フォワードのコーチが心配そうな声を出していた。
「ねんざかもしれないなあ。病院に連れて行こう」
 監督が、マネージャーに車を用意するように指示している。
 とうとう和也は、コーチの一人に背負われてグラウンドを出ていった。秀樹は、うなだれたままそれを見送るしかなかった。

「……、41、42、43、……」
 家の玄関の前で、今日も秀樹はボールリフティングをしていた。
「……、61、62。あっ」
 バランスをくずして、下におとしてしまった。何度やっても、いつもより長くつづかない。ついつい和也のけがのことを考えてしまうからだ。
 昨日、練習が終わるころに、一緒についていったマネージャーとコーチは戻ってきた。
 でも、和也の姿だけはなかった。そのまま家へ帰ったのだという。
「けがはどうでしたか?」
 秀樹はまっさきに、コーチにたずねた。
「ヒデ、心配するな。だいじょうぶだから」
 コーチは、笑顔でそう答えてくれた。診察の結果は、右の足首の軽いねんざだそうだ。さいわい骨には異常はなかった。
(学校にも来られるかな?)
と、そのときはそう思った。
 それで、今朝はずっと校門のところで待っていたけれど、とうとう和也は姿を見せなかった。
(まだ痛いのかなあ)
 今日はなんども和也のクラスまで様子を見に行ったけれど、どうやら学校を休んでしまったようだった。これでは、とうぶんウィングスの練習には、出られそうになかった。

「ヒデちゃん、アントラーズの佐藤選手がテレビに出てるわよ」
 おかあさんが、家の中からよんでくれた。秀樹は練習をやめて、すぐに家の中に入った。
 テレビ番組は、ワイドショーのスポーツコーナーのようだった。佐藤選手は、大勢のレポーターやカメラマンたちに取り囲まれている。
「一部で引退されるとの報道もされていますが、……」
 レポーターが、マイクを佐藤選手に突き出した。
「生涯初めてのレッドカードが原因ですか?」
「小島選手との対決に破れたのが、ショックだったのですか?」
 矢継ぎ早に質問されている間、佐藤選手はだまってじっと下をむいていた。
「全国のファンに何か、コメントを、……」
 最後にそう聞かれたとき、佐藤選手は初めて顔をあげると、きっぱりとした口調でいった。
「引退なんかしません。たしかにこの間の試合では、恥ずかしいプレーをお見せしてしまいましたが、……。体をきっちりと直し、十分なトレーニングをして、もう一度チャレンジします。今度は、得意のスライディングタックルで、正々堂々と小島くんを止めてみせます」
 佐藤選手の顔には、いつもの闘志あふれる表情が戻っていた。
「次のコーナーは、……」
 画面がきりかわったテレビを消すと、秀樹はまた家の外へ出た。リフティングの練習をしながら、自分から和也にきちんとあやまろうと考えていた。

 ピンポーン。
インターフォンのボタンを押すと、玄関に和也のおかあさんが出てきた。
「あら、ヒデちゃん、よく来てくれたわね」
「これ、おかあさんが持って行けって」
 お見舞いのお菓子のつつみを、和也のおかあさんに手渡した。
 二階の部屋へ上がって行くと、和也は勉強机のいすにすわっていた。白い包帯をぐるぐるまきにされた右足が、いやでも目に飛び込んでくる。
「よお、どうだい、足の具合は?」
 秀樹が緊張しながらたずねると、
「だいじょうぶ。包帯がおおげさなんだよ」
 和也は、白い歯を見せてわらった。
「でも、歩けないんだろ?」
「歩けるよ。走ったり、サッカーはしばらくできないかもしれないけど」
 和也は立ち上がると、少し足を引きずりながら歩いてみせた。
「明日から学校にも行けるんだ」
「そうかあ」
 けががそれほどひどくないようなので、秀樹は少しホッとした気分だった。

「それより、おれ、退屈で死にそうだったんだ。ゲームをやろうぜ」
 和也はけがしていない方の足でいすの上にのると、棚の上から「スーパープロフェッショナルサッカー」をおろした。
 すぐに二人は、いつものようにはげしいたたかいをはじめた。
「シュート!」
 和也の赤チームの選手がシュートしたが、秀樹の青チームの選手がうまくふせいだ。
「ちくしょう」
 和也がくやしそうにつぶやいた。
(本当のサッカーでも、こううまくいけばいいのにな)
 秀樹は、攻撃に移りながらそう思った。
 でも、おかげですんなりと昨日の事を口に出すことができた。
「カズちゃん、ごめん。けがさせちゃって」
 和也の足をひっかけたのは、もちろんわざとではない。
 でも、結果として、ボールではなく足にタックルしてけがをさせてしまった。それは、秀樹のスライディングタックルがへただったせいだ。もっと練習してから使うべきだった。
「気にするなよ、ヒデちゃん。おれこそ、悪かったな」
「えっ?」
 秀樹はおどろいて、和也の顔を見た。
「おまえの足にひっかかっちゃってさ。 そっちはちゃんとボールにむかって、スライディングタックルしてたんだから。わざとした反則じゃないよ。おれがマリノスの小島みたいなスーパースターだったら、ヒョイととびこえて軽くシュートを決めてるよ」
「でも、ボールに足がとどかなかったんだから、やっぱり反則だよ。うまくいくと思ったんだけどなあ。どうして失敗しちゃったんだろ」
「それは、ヒデちゃんの足が短いからじゃないか」
 和也はニヤッとわらいながらいった。
「うるせえ」
 秀樹はそういうと、青チームの選手に強いシュートを打たせた。
 小さな白いボールは、赤チームのゴールキーパーにあたってゲーム盤の外へとびだした。そして、床の上をコロコロと遠くまでころがっていった。



        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タブ

2020-04-21 10:00:36 | 作品
 ぼくが小学校六年生の時、もう半世紀以上も昔の話だ。
 そのころは、街には野良犬がたくさんいた。
 そんな野良犬のうちの一匹のタブが、いつごろからぼくたちの町に姿を見せるようになったのかは、どうもはっきりしない。
気がつくと、家の近くの公園に、姿を見せるようになっていた。
ぼくらが野球やサッカーをしているのをじっとすわってながめていたり、空き地のくさむらの中をクンクンかぎ回ったりするようになっていた。
 タブはやや小型の雑種のメス犬で、体は薄茶色、たれた大きな耳だけが濃い茶色をしている。まるまるとよく太っていて、足が短い。全体的には、現在では一般的になっているゴールデン・レトリーバーを小さくしたような感じだった。目がいつも少しうるんでいて、茶色のまつげがかわいらしかった。むるいに人なつっこく、みんなにあいきょうをふりまいていた。
 どこから来たかわからない野良犬だったけれど、誰も保健所に連絡しようとはしなかった。いや、逆に近所の人気者にすらなっていた。けっして吠えたり、誰かに危害を加えるように見えなかったので、なんとなくおめこぼしにあっていたのだ。
 特に、誰かがお菓子を持っている時などは、タブのようすはすごかった。目を輝かし、全身をふるわせておこぼれをねだる。だから、誰もがついついタブに分け前をあげてしまうようになっていた。
 タブは、子どもたちだけでなく大人たちにも人気がある。うちの裏に住んでいる山田さんちのおばさん。米屋のおばあちゃん。その他にも、たくさんのお得意さんを何軒もかかえている。そこを順繰りにまわって、ごはんをもらっているようだ。
 タブは、はじめは別の名前で呼ばれていた。ある日、中学生のはじめちゃんが、タブがはめていたそまつな茶色の首輪をはずしてみたのだ。
「あれ、ここに名前が書いてあるぞ」
 のぞきこんでみると、首輪の裏側に、マジックで「ゴロー」と書かれていた。メス犬なのに変だなと思った。
 でも、ためしにぼくが、
「ゴロー」
って呼ぶと、タブはいきおいよくしっぽを振った。
 その日以来、みんなが「ゴロー」と呼ぶようになった。もっとも、タブは、いたずらに「ポチ」とか、「タロー」と呼んでも、同じようにしっぽを振っていたけれど。

「ゴロー」
 ぼくは、ひとりで家に帰るところだった。草野球のアウト、セーフでもめて、ヒロちゃんたちと大げんかしてしまったので、すっかりつまらない気分だった。
 タブは、遠くからふっとんできて力いっぱいしっぽを振った。
 ぼくは、近所の家のゴミ箱の上に腰かけて、タブにいろいろな芸をやらせた。
 フセ、オスワリ、チンチン。何でも器用にできる。ビスケットを細かくくだいてほうると、見事にキャッチした。
 タブと遊んでいたら、ぼくのくさくさした気分は、しだいに消えていった。
「タカちゃん。何やってるの?」
 学校から帰る途中のねえさんだった。クラブがあったらしく、少しくたびれたような顔をしている。ねえさんが入っている中学のバスケットボール部は、区内では強豪チームで、猛練習をすることで有名だった。
 ねえさんは、ぼくに負けない犬好きだ。いや、ぼくなんかくらべものにならないかもしれない。
 今、家で飼っているルーも、子犬の時にジステンバーになりかかっていたのを、ねえさんが拾ってきて助けたのだ。ねえさんは、ルーを知り合いの獣医さんに連れていって、頼み込んで格安でジステンパーをなおしてもらった。それ以来、ルーはなんとなく家にいることになった。
 それにひきかえ、ぼくの方は、小さいころは犬がこわくてしかたがなかった。道に犬がいると、それがどんなに小さい犬でも遠回りしたくらいだ。
 ところが、ルーが家にいるようになってから、いっぺんに犬好きになってしまっていた。
 ねえさんは、タブの頭をなでながらいった。
「丸っこい犬ねえ。まるでブタみたいじゃない。おい、ブタ、ブタ」
 タブは、人なつっこくしっぽを振っている。
「ブタじゃ、かわいそうだよ」
「ブタブタブタ」
「ブタはよくないって」
「じゃあ、なんて呼ぶのよ」
「ゴローっていうんだ」
「ゴローだなんて。この子、メス犬じゃない。ブタブタブタブ、タブ。そうだ。ブタのさかさまでタブ、伸ばしてタブーなんて、香水の名前と同じですてきじゃない」
「なんだかその名前も変だなあ」
 その時、通りがかりの自転車がブレーキをかけた。いきなり、タブは自転車にとびかかると大声でほえた。
「こら、タブ、タブ」
「どうもすみません」
 ねえさんと二人がかりで、やっとタブを引き戻した。タブは、首の回りの毛がまだ少しさかだっていて、今まで見たこともないようなこわい顔をしている。
「どうしたのかしら。タブ、自転車に乗った人にいじめられたことがあるのかい?」
 ねえさんが、タブをなだめながらいった。
 この日以来、ゴローではなくて、みんなにもタブと呼ばれるようになった。

 ぼくは家へ帰ると、すぐに我が家の狭い庭にあるルーの小屋へ行くのが日課になっている。給食のパンを残してきて細かくちぎり、牛乳にひたしてルーにやるのだ。
 ルーは芝犬の雑種で、茶と緑と灰色とがまじりあったような、変な色をした中型のオス犬だった。胸とおなかと足が真っ白で、額にも白い模様がある。すごくおとなしい性格で、いつもいるのかいないのかわからない。
 食べ物をあげても、しっぽの先を小さく振るだけですぐには食べない。
「ルー、早く食べろ」
 ルーは、何度もぼくにせかされて、やっと食べ始める。それも、舌でペロペロなめながら、ゆっくりゆっくり食べるのだ。
 ぼくは、そんなルーを見ているのが大好きだった。友だちと遊んでいても、夕方になると、ルーを散歩に連れていくためにもどってくる。
「やあ、ルーくん。元気か」
 頭をなでてやると、目を細めながらしっぽを小さく振っている。
「それじゃ、散歩に行こうな」
 小屋からくさりをはずして、ルーと散歩に出る。
 歩いて五分ほどのところの広い公園で鎖をはずしてやると、ルーは矢のようになって走っていく。
 ぼくが大声で、
「ルー!」
と呼ぶと、またいっさんに走って戻ってくる。
 でも、ぼくにつかまらないように、ルーは二、三メートル離れたところで、ハアハアいいながらこっちを見ていた。
公園のすみにある小山のてっぺんに腰をおろして見ていると、ルーはあちこちをかぎまわったり、時々、片足をあげておしっこをしたりしている。
 三十分ぐらいしてから、ぼくは立ち上がり、おしりについた土をパタパタ落としてから大声で呼ぶ。
「ルー。もう帰るぞ」

 ぼくらの散歩に、いつのまにかタブが加わるようになった。初めは時々だったが、すぐにほとんど毎日一緒についてくるようになった。
 散歩に行く時刻になると、家の前に来ていてぼくたちを待っている。ぼくとルーのまわりを、前になったり、後ろになったりしながらついてきた。ルーが、電柱でにおいをかいだり、片足をあげたりしていると、じれったそうな顔で待っている。
 公園では、ルーと一緒に走り回ったり、じゃれついたりするが、ルーの方は少し迷惑そうなふりをして相手にしない。
 そんな時でも、ぼくが
「タブ」
と呼ぶと、ルーとは違って体当たりするようにとびついてくる。そして、小山のてっぺんにぼくが腰をおろすと、すぐ横に腹ばいになっておとなしくしている。ぼくは、タブのたれた大きな耳をもてあそびながら、ルーが走りまわっているのを見るようになった。
 散歩の間ずっとついてきたタブは、ぼくたちが庭の中へ入ってしまうと、いつも木戸の下から鼻を出してなごりおしそうにのぞいている。
「タブ。もう夕ごはんだから、家へ入らなくちゃ。また明日な」
 そういっても、タブの黒い鼻はなかなかひっこもうとしなかった。
 ぼくは、しだいにタブのことも好きになっていった。ルーの控え目なおとなしいところも前と変わらず好きだったが、タブの全身で喜びをあらわすしぐさにも強く引かれていた。
 給食の食パンをタブの分も残してきて、公園でいっしょにすわっている時にやるようになった。ルーの分が一枚、タブの分が一枚。給食の割り当ては二枚だけだったから、ぼくはいつも腹ぺこだった。

 タブのおなかがふくらんできたのに気づいたのは、つい一週間前だった。それが、みるみるうちに大きくなっていった。もともと丸っこいおなかが、いよいよ太鼓のようにはってきた。
「タブに赤ちゃんができたみたいね」
 夕飯の時に、ねえさんがさりげなくいった。
「やっぱりそうなの。いやにコロコロしてきたと思ったんだけど」
 ぼくも、なにげなさそうにかあさんの顔色をうかがいながらいった。
 かあさんは、ハンバーグをお皿によそりながら、
「うちでは飼えませんからね。もうルーだっているんだから。これ以上は大変よ」
と、ひとりごとのようにいった。
 先手を取られたぼくは、何もいえなくなってしまった。
「誰か、タブを飼ってくれるといいんだけど」
 ねえさんがそういったので、ぼくもいきおいづいていった。
「そうそう、誰かいないかなあ」
 でも、かあさんは、
「子犬が生まれるとわかってるのに、飼う人なんかいないわよ」
と、そっけなかった。

 突然、タブがいなくなった。今までも、ルーと散歩にいっても出会わないことはあった。タブが家へ寄らないこともある。
 でも、三日も続けて、一度も姿を見せないことはこれが始めてだった。
「どこかへ行っちゃったのかなあ」
 ぼくがそういうと、
「そんなはずないわよ。あんな大きなおなかをかかえて。誰かの家で飼われているといいんだけど。だけど、子犬が生まれるのを承知で飼う人いるかなあ」
 ねえさんも、心配そうだった。
 その日から、散歩の時に、タブをさがすようにした。
公園に行くだけでなく、町の他の場所にも行った。
ルーも、しぶしぶ後についてくる。
「ターブ、タブタブ」
 タブがいそうな場所に来ると、ぼくは足を止めて名前をよんでみた。
 でも、あの丸っこい体は、どこからも現れなかった。
 ねえさんも、友だちに聞いたりしてさがしてくれているようだった。
 それでも、タブはなかなか見つからなかった。

 タブがなぜいなくなったのかわかったのは、それから二日後だった。
 ぼくはその夕方、近所の酒屋に醤油を買いに行かされた。そのとき、そこの店のおにいさんが、お客と話していたのだ。
「頼まれちゃってね。おれもちょっといやだったんだけど。子犬が生まれないうちにって、山田さんちの奥さんがいうんでね」
「よくつかまえられたわね」
「あいつは、食い意地がはっているからね。ソーセージでつってさ。店の車の荷台にとじこめちゃってね」
 ぼくは、醤油を入れる一升ビンを取り落としそうになった。
「近くじゃね、すぐにもどってきちゃうからさ。川向こうまで運んでったんだ」
「だいじょうぶかしら」
「水を越えるとにおいが消えるっていうからね」
「追っかけてこなかった」
「うん。しばらくついてきたけどね。やっぱり車の方が速いから。ねんのために逆方向へ走って、まいてからもどってきたんだ」
 ぼくは、醤油ビンをドンとカウンタの上に置くと、店から飛び出した。
「あれっ。ぼく、お醤油を買いにきたんじゃないの?」
 ぼくは、店の横に積んであったビールの空きびんを入れた箱を、思い切りけとばしてやった。
 家に帰ると、ぼくはすぐに自転車をひっぱり出した。
「あれ、タカちゃん。どこに行くの。もうごはんだよ。あれ、お醤油はどうしたの?」
 かあさんの声を背中で聞いて、思い切り自転車をこぎだした。
 川までは、ふだんは自転車で三十分はかかる。それを思い切りふっとばしたので、二十分もかからずに着いた。
 川には、一キロぐらい離れて、新橋と大橋とがかかっている。
「タブ、タブ、……」
ぼくは、そのあたりをあちこち走り回り、名を呼び続けた。
 タブに少しでも似た犬をみかけると胸がどきどきした。
 でも、すぐに違うことがわかってがっかりさせられた。
 二、三時間捜して、ぼくはすっかり疲れてしまった。
「タブ、タブ」
 最後に、川原へおりて大きな声で名前を呼んだ。
 でも、とうとうタブはあらわれなかった。
 すっかり暗くなった川面に、橋のあかりがゆらゆらゆれている。
 十時すぎに家へ戻ったので、ぼくはとうさんとかあさんにこっぴどくしかられてしまった。
 翌朝、山田さんちのおばさんは、へいに大きく「バカヤロー」と落書きされているのに気がついた。

 次の土曜日の午後、ぼくたちは、家のちかくの公園でサッカーをやっていた。
「おら、おら、おら」
 ぼくは、フェイントで相手のバックスをぬいた。
(よし!)
 体を反転させて、敵ゴールへシュートしようとした。
 と、そのとき、ぼくの横を茶色のカタマリがすりぬけた。
 タブだ。
「タブーッ」
 タブはぼくをチラッと見ると、しっぽを数回ふって公園をでていった。
 ぼくはボールをほうりだして、あとをおっかけた。
「ターブ、タブ、タブ」
 何回も、大声で名前をよんだ。
 タブは、やっとこちらへもどってきた。
 タブのまっ白だったおなかや足は、泥によごれて真っ黒になっている。長い道のりを苦労してもどってきたのだろう。
「良く帰ってきたなあ」
 ぼくは、力いっぱいタブの頭をなでてやった。

その晩、ぼくは、銭湯の店先に出ている屋台の焼き鳥屋で、レバーを五本と焼き鳥を五本買った。全部で二百円。ぼくのひと月のこづかいは、たったの三百円。その半分以上が軽くふっとんだ。
「ターブ、タブ、タブ」
 ぼくは、大声でタブを呼んだ。
 タブは、いつものように遠くから飛んできた。
 ぼくは、タブを公園へ連れていった。
 焼き鳥の袋を開いている間、タブはくいいるような目つきでぼくの手元を見ていた。しっぽというより、後半身全体を振って、喜びを表している。
 ぼくは、タブががっついてけがをしないように、鶏肉やレバーを串からはずしてやった。タブはそれが待ち切れなくて、口からよだれがツツーと糸を引いて落ちた。
「ほら」
 ぼくは、鶏肉のひときれをタブにほおった。
 パクッ。
 あざやかに空中でキャッチ。タブは、鶏肉をかまずに飲み込んでしまった。
「馬鹿だなあ、あわてなくてもいいんだよ。これは全部おまえのなんだから」
 ぼくは笑いながら、次の肉を今度は手のひらにのせて食べさせた。
  
 タブが帰ってきてからちょうど一週間後、昼過ぎから降りだした雨が夕方になって強くなっていた。その日、かあさんは、PTAの総会で学校へ行っていた。
役員をやっているので、帰りは九時過ぎになる。とうさんもいつもどおり帰りが遅いので、ねえさんが二人分の夕食のしたくをしていた。
「タカちゃん。これをルーに持っていってやって」
 ぼくは、ルーの夕ごはんを持って、もう暗くなっている庭へ出ていった。
「ルー君」
 ルーは、小屋の中から出てきてしっぽを小さく振った。
「ほら、よく食べるんだよ」
 ルーの小屋は、雨がからないように軒の下に置いてある。
今日は、ビニールの雨よけもかけてあった。
 食器をルーの前に置いて、家へ入ろうとした時、何げなく木戸に目をやった。
 木戸の下に黒い小さな鼻。
「タブー」
 ぼくは、雨の中に飛び出していって木戸をあけた。タブが雨の中でじっとしていた。毛に雨がしみこんでどす黒くなっている。自慢のしっぽもだらりとたれさがっていた。
「おねえちゃん、おねえちゃん。タブだ。タブが来たよ」
 ねえさんと二人でタブを玄関に入れて、かわいたタオルでごしごしふいた。
「うーん。どうも、今晩中に子犬が生まれそうだなあ。困ったなあ」
「どうするの、追い出したりしないよね」
「うーん。どうしたらいいかなあ。おとうさんもおかあさんもいないしねえ」
「せっかく来たんだもの。かわいそうで外へなんかやれやしないよ」
 タブは、かねのボウルに入った牛乳をゆっくり飲んでいた。

 ねえさんは、学校に電話してかあさんを呼び出してもらった。
「そうなの。絶対今晩中よ」
「タブ? うん。今、玄関にダンボールをしいて横にしてあるわ」
「そんなことできないわよ。タカシが承知するもんですか」
「うん。そう。わたしも承知しないわ」
「そう、わかった。おかあさん、ありがとう」
 ねえさんはやっと受話器を置いた。
「飼っていいって?」
 ぼくは、喜んでねえさんにたずねた。
「あまーい。飼うか飼わないかは、後で決めるって。とりあえず今日は、タブをおいてもいいってさ」
 ねえさんは縁の下にゴザをしいて、その上に古い毛布やボロきれを置いた。軒からビニールのおおいをたらして、雨がかからないようにする。
 その間、ぼくはうろうろ歩きまわっているだけだった。
「タブ、こっちにおいで。ほら、いい子だ」
 タブはおとなしく玄関を出ると、縁の下の毛布の上に横たわった。小屋の中からルーもそれをながめている。
「ルー。おまえは、家の中に入るのよ」
「なんで?」
 ぼくが聞くと、ねえさんは指でぼくのひたいをつっつきながらいった。
「そばにルーがいたんじゃ、タブが落ち着かないでしょ」
 ルーはおとなしく玄関に入り、さっきまでタブがいたダンボールの上に横になった。
 雨はしだいに強くなってきていた。ねえさんは、何度かタブのようすを見にいっている。
 ぼくもそわそわとおちつかなかった。テレビを見ていても、ちっとも頭に入ってこない。
 八時半ごろ、雨の音にまじってミューミューという鳴き声が聞こえてきた。
「やっと生まれたようね」
 ぼくはいすから飛び上がって、玄関へ行こうとした。
「待って、タカちゃん。のぞいちゃだめよ」
「どうして?」
「親犬をおどかしたり、興奮させたりすると、子犬を食べちゃうことがあるんだって。だから明日まで待たなくっちゃだめよ」
「でも、タブはだいじょうぶかなあ」
「だいじょうぶよ。犬は人間みたいに弱くないから。それにタブはのら犬だからたくましいもの」

 九時すぎに、かあさんととうさんがあいついで帰ってきた。とうさんは、ねえさんから事情を説明されると、しばらくふきげんそうに黙った後にいった。
「これ以上、うちでは犬を飼えないよ。ルーはしかたないけれど、そのタブとやらと子犬はもらい手をみつけるんだな」
「子犬はわたしがなんとかするわ。学校の友だちに聞いてみるし。タカシも捜すのよ」
 ぼくは、不服だったのでずっと黙っていた。
「おかあさんも近所をあたってみるわ」
「でも、タブのもらい手はむずかしいわよ」
 ねえさんは、ぼくの顔を見ながらいった。
「おとうさん。ぼくがいっしょうけんめいめんどうみるから、タブも飼ってくれない」
 ぼくは、必死にとうさんにたのんだ。
「いや。二週間以内に、タブも子犬も飼い主を捜さなければだめだ。おとうさんも会社で聞いてみるから」
 おとうさんは、ふきげんそうな顔をくずさずにそうこたえた。

 翌朝、目がさめると、雨はもうすっかりあがっていた。ぼくは、すぐに庭へいった。
 かあさんとねえさんが、子犬たちをタオルでふいている。タブも子犬をなめていた。
「何匹だった?」
「六匹。でも、一匹は死んでいたわ」
 ねえさんが、ふりかえってこたえた。
 白いムクムクとしたのと、真っ黒でつやつやしたのが二ひきずつ。タブに似た、ちょっとほかよりチビなのもいる。
 ぼくは、一匹一匹を胸にだきあげてなでてみた。まだ目があかなくて、すこしふるえている。タブが心配そうに見ているので、ぼくはすぐにそばにもどしてやった。
 とうさんも顔をだしてきた。まだふきげんそうな顔をしている。
 でも、子犬たちがタブのまわりをもごもご動いているのを見ると、少しだけ表情をやわらげた。
「おとうさん、一匹死産だったの」
 かあさんが、庭のすみの茶色い布を指さしながらいった。
「そうか、それはかわいそうだったな」
 とうさんは、タブの頭をなでた。タブは、しっぽを小さくふっている。
「死んだ子犬を、遠くにうめてきてくれないかしら?」
「ああ」
「近くだと、タブがさがしだしてきちゃうから」
 朝ごはんのあと、とうさんは自転車の荷台に乗せた箱の中に、茶色い布でおおわれた子犬を入れて出かけていった。
 一時間後、帰ってきたとうさんは、小さな包みをぼくにほうってよこした。あけてみると新品のピンクの首輪が入っていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山村暮鳥「庭さきのこと」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-20 18:10:47 | 作品論
 庭さきで、おんどりとめんどりの夫婦が、ホップと麦つぶを拾い、ビールを作ることにします(この時点で、すでに現在の児童文学の常識の範疇を軽々と超えています)。
 ビールが発酵する頃に、どちらが味見するかで夫婦喧嘩をします(過去のおんどりの不実をめんどりが罵る、現在では一般文学でもなかなかお目にかかれないような本格的なものです)。
 結局、味見をすることになったおんどりが、大酒樽(どんだけたくさんビールを作ったのでしょう!)のビールにはまって溺死してしまいます。
 後は、おんどりの死を悲しむめんどりと、庭先の野次馬たち(たけぼうき、ものほしざお、シャベル、天水おけ、花、木、すずめ、石臼など)がてんでに思いを述べあいます。
 これを、ところどころに、歌好きのめんどりの歌が散りばめられているミュージカル仕立てで描いています。
 ここまでシュールでぶっ飛んだ内容の作品は、現在の児童文学の世界ではなかなか出会えません。
 しかも、これを作った作者は、敬虔な牧師さんで人道主義者で有名な人物なのですから、読者は真面目に読まなければなりません。
 ある意味、大正時代の方が、現在よりも多様な児童文学があったことが、この作品だけでも分かります(実はもっと様々な作品があるのですが、それらについても他の記事で紹介する予定です)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田雨雀 「先生とお墓」講談社版少年少女世界文学残集49現代童話集所収

2020-04-19 11:55:34 | 作品論
 尋常小学校三年生の時に一年間だけ教わった先生の思い出と、先生のお墓について書かれた掌編です。
 ほとんどストーリーはなく、先生のエピソードも、最初の授業の時に黒板に大きな○を書いて子どもたちの答えをすべて正解とした上で先生の答えは地球であったこと、なんだかわからないが先生に悪い噂が立ったこと、その後先生が寂しそうにしていたこと、教師をやめて東京で学生(旧制の大学か?)になったこと、肺病にかかってひとり寂しく死んだこと、遺言で町の墓地に葬られたこと、などだけです。
 しかし、その僅かな紙数の中で、読者に、生きること、世の中のこと、人の評価のこと、死ぬことなどが、ぼんやりとですが心に残ります。
 特に、墓石すらなく、友人の手書きのぼうくいと二本の常盤木と誰かが持ち込んだいくつかの自然石があるだけで、雑草の中に草萩の赤い花やすすきの白い穂が背伸びしている先生の墓を、すぐそばの大往生した大金持ちの立派な墓石のある墓と対比することで、読者の子どもたちに人生の意味を考えるきっかけを与える象徴性は、漠然としているだけに深く心の中に残ります。
 「おもしろく、はっきりわかりやすく」という、かつて「子どもと文学」(その記事を参照してください)が打ち出した路線を表面的になぞっただけの単一の価値観に支配されている現在の児童文学の状況を思うと、こうした象徴性を失ったことの大きさを改めて考えさせられます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交渉王、芳樹

2020-04-19 11:14:50 | 作品
 目の前のたなにも、その前のテーブルにも、いろいろなお菓子が並んでいる。色とりどりのパッケージが、あざやかだ。それぞれの中身を想像すると、食欲がそそられてくる。よだれがでてしまいそうだ。
(どれにしようかなあ?)
 芳樹は、目うつりがしてしまってこまった。あたりには、はかり売りのジェリーやクッキーなどのお菓子がはなつ甘い香りがただよっている。
(やっぱり来てよかったなあ)
 芳樹は、しみじみとそう思った。
 自転車で十分もかかる大正堂まで、明日の遠足のお菓子を買うために、わざわざやってきていたのだ。
 大正堂は、お菓子の問屋さんだ。でも、近くの人のために小売りもしている。
一個五円のガムやあめから、千円以上もする高級チョコレートまでなんでもそろっている。それも、すべて定価の二割から三割引きだった。
 遠足のおやつは、金額の上限が決められている。今回の場合は、三百円。だから、その買い出しにとって、大正堂以上にたのもしい味方はない。
 芳樹の学校のルールでは、三百円というのは定価ではなく実際に払うお金ということになっている。
(本当かな?)
 先生には確かめてないけれど、代々そういうことになっているから、まあいいんじゃないかな。
 だから、近くのお菓子屋さんやコンビニで、定価で買ったりしたら大損してしまう。スーパーなら、割引になっているけれど、大正堂ほどではなかった。

「よっちゃん、来てたの」
 そう声をかけてきたのは、同じクラスの裕香だ。奈々子や明日美も一緒にいる。
「うん、やっぱり、ここっきゃないよね」
 芳樹は、手に下げたお店の買い物かごを振ってみせた。
「そうだよね。みんな、ここに来るんだよね」
 裕香は、右だけのえくぼを見せながら、ニッコリとわらった。たしかに、店の中には、他にも、芳樹と同じ三年生の姿がチラホラ見えていた。みんな、考えることは同じようだ。
「よっちゃん、何を買うの?」
 裕香が聞いてきた。
「うーん、まだ決めてない」
 芳樹がそう答えると、
「じゃあ、遠足でかえっこしようね」
と、裕香がいった。
「うん、約束だよ」
 芳樹もうなずいた。
「じゃあね」
 裕香は小さく手を振って、先にいっている奈々子たちを追いかけていった。

 三百円円以内で、いかに工夫してバラエティに富んだ物を買いそろえるか。それが、芳樹たちにとっては腕の見せ所だ。ポイントは、安くてみんなに人気があって数の多いお菓子を買うこと。いくら自分が好きだからって、みんなに人気のないお菓子を買ってはだめだ。誰とも交換できずに、ひたすらそれを食べなければならないはめになる。それと、分けるのが難しい「イカの姿やき」みたいのも、遠足にはむかない。細かくさいて、分割するという奥の手もあるけれど、形や大きさが不ぞろいになる。交渉レートが複雑になって、めんどうくさくなってしまう。値段の高い一点豪華主義もだめだ。クラスの友だちの好みはバラエティに富んでいる。それに合わせて、品揃えをしておく必要があった。
 芳樹は、じっくりと店内を歩きまわっていた。そして、クラスのみんなの顔を順番に思い浮かべていった。
(えーっと)
 良平は、ハイチューが好きだろ。アルちゃんは、プチポテトに目がない。ゴンちゃんとは、チョコの交換レートが高い。女の子たち用には、ポイフル(果汁グミ)は欠かせない。
(いくらかな?)
 芳樹は、必要なお菓子を慎重に価格を確認していった。それから、たなからとって買い物かごに入れる。
 芳樹の頭の中には、見えないコンピューターがあるみたいだ。合計金額が、きちんと計算されていく。
(えーっと、あと百二十八円)
 芳樹は、値段を確認しながら最後のおかしをえらんでいた。
(どれにしようかな?)
 迷った末に、カールとスティックタイプのチョコレート菓子をかごに入れた。こういう数の多いお菓子は、交換の時に組み合わせるとなかなか効果的だ。思いかけずに高いお菓子と交換できるときがあって、貴重な戦力になる。
 芳樹は、もう一度合計値段を確認した。二百九十五円。
 最後に、一個五円のあめをかごに入れた。これでピッタリ三百円だ。
 芳樹は、かごをかかえて、レジの列に並んだ。

 翌朝、芳樹はいつもより早い時間に学校へ行った。
校門の前には、すでに観光バスが何台もとまっている。これに乗って、今日の目的地である県立七沢公園に向かうのだ。そこは広々とした公園で、ハイキングコースや民芸館、大きな芝生の広場などがある。
 校庭で、付き添いの先生の注意事項を聞いてから、みんなはバスに乗り込んだ。
「ねえ、スティックチョコ一個と、プチポテト三枚を、交換しない?」
 芳樹は、さっそく前の席のゴンちゃんに声をかけた。
 車内でお菓子を食べるのは、禁止されている。
 でも、交換するだけならかまわないだろう。芳樹の交渉は目的地に着く前から、もう始まっていた。
「いいよ」
 ゴンちゃんはあっさりOKした。
(うーん、プチポテト四枚でも良かったかな)
 芳樹は、ちょっぴり後悔していた。
(ゴンちゃんのスティックチョコのレートは、プチポテト四枚) 
 芳樹は、頭の中のメモリーにすばやくインプットした。
「ねえ、プチポテトとハイチュー二個と、交換しない?」
 次のターゲットは、通路をはさんで反対側の席にすわっているアルちゃんだった。

 ピリピリピリー。
 秋山先生のホイッスルがあたりに鳴り響いた。これで、お弁当の後の自由時間はおしまいだ。芳樹は、空のお弁当箱やレジャーシートをナップザックにつめてせおった。
「おーい、三班、集まれーっ」
 班長の康之くんが、大声で呼んでいる。芳樹も、他の班の人たちと一緒に、大急ぎで集合場所に並んだ。
(うまくいったなあ)
 整列しながらも、つい笑顔になってしまう。今日一日の物々交換の成果には、すごく満足していた。
 特に、お菓子の交換は、期待以上にうまくいった。ねらいどおりに、何回も交換を繰り返して、だんだん数を増やしていく。最終的には、十種類以上のお菓子やいろいろなお弁当のおかずを、交換で手に入れることができたのだ。まるで昔話のわらしべ長者みたいだ。
 芳樹の頭の中のコンピューターによると、初めは三百円だったお菓子が、五百円以上の価値を生み出した事になる。
 もっとも、芳樹が持ってきたのはお菓子だけではなかった。家からみかんを三個も持ってきていた。これを、一粒ずつお菓子と交換する裏技まで駆使していた。これは果物だから、三百円の中に入れなくてもOKだ。
 おまけに、去年の担任で教育委員会に出向中の小野沢先生が、ぼくたちのクラスにうまい棒を差し入れしてくれていた。ひとり一本ずつだったけれど、いらない子にもらったり、ハイチュー一個と交換したりして十一本もゲットしたのだ。
 四本(テリヤキバーガー味二本と、たこ焼味、チーズ味)食べたけれど、まだ七本ものこっていた。すごくリッチな気分だった。

 芳樹の交渉上手な才能は、今までにも何度も発揮されていた。
 少年野球チームの祝勝会。バーベキュー大会。子ども会のハイキング。催し物があるたびに、物々交換でいろいろな物を手に入れていた。
 最高にうまくいったのは、去年の運動会だった。
 たった十四本のプチキットカットを、食べきれないほど豪華なおやつに変身させた実績がある。手に入れたのは、ポテトチップスやチョコレートといったお菓子だけではなかった。から揚げやおにぎりやたまごやきなどまで、たっぷりと手に入れていた。
 まず、チョコレートが好きそうな子にねらいをつける。
「ねえ、このキットカットとうまい棒三本と交換しない?」
 このとき、相手の子に余っていそうな物をいうのがこつだ。たいていの場合、自分がいらない物は気前良くくれるものなのだ。
 そして、今度は、うまい棒を食べたそうな子を探していく。
「ねえ、うまい棒とグミ三個と交換しない?」
 これを、根気良く繰り返していった。
 相手が、うんといわない時は、違う組み合わせを提案した。
 最後には、最初からは想像できないほどたくさんの、お菓子やおかずを手に入れることができたのだ。
(交渉王、芳樹)
 ひそかに自分のことをそう呼んでいた。

 その晩、夕ご飯を食べているところだった。
「どうだった、遠足は?」
 にいちゃんの正樹が、芳樹にたずねた。
「うん、けっこう楽しかったよ」
 芳樹が答えると、
「どんなところが、おもしろかった?」
 今度はおかあさんが、おつゆをよそいながらたずねた。今日もおとうさんの帰りは遅いから、三人での夕食だ。
「うん、やっぱり自由行動の時間かなあ。みんなで、手つなぎおにをやったよ」
 芳樹がそういうと、
「なーんだ。そんなのいつでもできるじゃない」
 そういって、おかあさんは笑っていた。
「それと、お弁当とおやつかな」
 芳樹がつけくわえた。
「あら、そう。そんなにおいしかった? いつもと変わらないけどね」
 おかあさんは、自分のお弁当がほめられたと思って、よろこんでいた。
「うん、うちのもおいしかったけれど、他の子からもいろいろもらったんだ」
 芳樹は、今日の成果を思い出していた。
「あらあら、食いしん坊ねえ。ちゃんと自分のもお返しにあげたんでしょうね?」
「うん、ちゃんとあげたよ」
 芳樹はそう答えたけれど、交渉で得したことはおかあさんには内緒にしていた。

 ルルル、…。
 そのとき、電話がかかってきた。
「はい、石川ですが、…」
 おかあさんが電話に出た。
「あら、山本さん、…」
 おかあさんは笑顔であいさつしている。電話は、トシくんのおかあさんのようだ。
(なんだろう?)
 今日は遠足では違う班だったので、特にこころあたりはない。
 芳樹は、またご飯を食べ始めた。
「えっ、はあ、そうですか、…」
 おかあさんの表情が、急にけわしくなった。時々、チラチラとこちらを見ている。芳樹は、おちおちご飯を食べていられなくなってしまった。
「…、はい、どうも申し訳ありませんでした。よくいって聞かせますから」
 おかあさんは、ペコペコと何度もおじぎしながら、受話器をおろした。

「芳樹っ!」
 いつもだったら、おかあさんは芳樹のことを、「よっちゃん」と呼んでいる。きちんと名前を呼んだのは、怒っているしょうこだ。芳樹は、ビクッとしてはしをとめた。
「トシくんの遊戯王のカードを、何枚もまきあげたんだって? トシくんのおかあさんが、電話でそういってたわよ」
 おかあさんは、一気にまくし立てた。
「まきあげてなんかいないよ」
 芳樹が反論すると、
「うそおっしゃい。トシくんは、芳樹にまきあげられたっていってるのよ」
 おかあさんはそういって、芳樹をにらみつけた。
「そんなあ。トシくんがそんなこというはずないよ」
 芳樹は口をとがらせた。
「それに、何度も買ってあげたのに、いつのまにかカードが少なくなっているんだって、おかあさんがいってたわよ」
 おかあさんの怒鳴り声は、だんだん大きくなっている。どうやら、とうとうトシくんのおかあさんに、カードのことを気づかれてしまったらしい。
「違うよ。いいカードと交換したんで、枚数が減ったからじゃないかなあ」
 芳樹はそういいわけした。
「何よ、交換って?」
 おかあさんの声は、金切り声になってきた。
「だから、学校なんかで、みんなでカードの交換をしてるんだよ」
 芳樹は懸命に説明した。

 でも、たしかにクラスの中で何度も交換しているうちに、トシくんはだいぶ損していたかもしれない。
 いいカードと普通のカードの交換には、決まった相場(枚数)があるわけじゃない。だから、おっとりしているトシくんは、芳樹たちのいいカモになっていた。
「でも、トシくんのおかあさんは、すごく少なくなったっていってるのよ」
 おかあさんは、ぜんぜん納得してくれない。
「だから、何回も交換しているうちに減っちゃったんじゃないかな」
 芳樹は、けんめいに説明しようとした。
「あなたの方はどうなのよ。トシくんの分があなたの方にきてるんじゃないの?」
 とうとう話が、芳樹のカードの方にきてしまった。どうにもまずい展開だ。これだけは避けたかったところだった。
「それは、…」
 芳樹は口ごもってしまった。
「じゃあ、持っているカードを、みんな見せてごらんなさいよ」
 おかあさんの声は、すっかりヒステリックになっている。
「ごちそうさま」
 雰囲気が険悪になってきたので、にいちゃんはさっさと夕食をすませると、自分の部屋に逃げ込んだ。

 芳樹は、しぶしぶ自分の部屋へもどった。
 勉強机の一番下の引き出しをあけると、そこには芳樹のいろいろな宝物が入っている。
東京ドームで買った坂本選手のサインボール、野球大会の準優勝メダル、スイミングの十二級の合格証、…。
 大事なカードだけを入れているカードホルダーも、そこにはいっている。じつは、このカードホルダーも、にいちゃんがいらなくなったのを、ただでもらったものだ。
 芳樹は、カードホルダーを大事そうに取り出した。カードホルダーは、カードを一枚ずつビニールのケースに入れるようになっている。ほこりや傷がつかないようにカバーするとともに、一枚ずつ出さずにながめられる。
 それから、ベッドの下に手を突っ込んだ。そこには、あまり大切でない物がつっこんである。引っ張り出してみると、そこからはいろいろなものが出てきた。
幼稚園の卒園証書、七十点以下のテストの束、旧型のテレビゲーム、…。
大事ではないカードを入れたお菓子のアキカンも、そこにあるはずだ。
 芳樹はベッドの下をさんざん引っかきまわした後、ようやくアキカンをひっぱり出した。
 アキカンのふたを開けてみると、中にはごっそりとカードが入っている。種類別に輪ゴムでとめてあるから、どんなカードが何枚あるか、芳樹はすべて把握していた。
 そして、カードホルダーとアキカンを持って、おかあさんに見せにいった。
おかあさんは、カードホルダーをパラパラッとめくっていたが、そのときは何もいわれなかった。
 カードホルダーに入れてある遊戯王のカードは、どれもマニアだったらよだれをたらしそうなめずらしいものばかりだ。
でも、価値のわからないおかあさんには、どれも同じように見えたのだろう。

 次に、芳樹はアキカンのふたをあけて、ザザザッと中身を出した。
「えーっ、こんなに?! いったい何枚、持ってるのよ」
 おかあさんは、すっかりびっくりしている。たしかおかあさんの記憶では、芳樹には10枚入りのカード入りの袋を、1回か2回買ってやっただけだ。それが、いつのまにかすごく増えている。
「えーっと、たしか236枚だったかな」
 芳樹は、ボソボソっと小さな声でいった。
「なんで、こんなに増えてるのよ。おかあさんにだまって買ったりしてたの?」
 おかあさんの顔が、だんだんけわしくなってくる。
「まさかあ、だまって買ったりなんかしないよ。お小遣い帳はきちんとつけてるでしょ」
 芳樹が弁解すると、
「じゃあ、どうしたのよ。やっぱりトシくんなんかから、取り上げたんじゃないの?」
 おかあさんは、もう涙声になっている。
「だから、他のカードと交換したり、にいちゃんや他の子からいらないのをもらったりして、だんだんに増やしていったんだよ」
 芳樹は、けんめいに説明した。
「でも、交換したんなら、枚数は変わらないはずでしょ。どうして、あんたばかり数が増えて、トシくんは減っちゃうのよ」
 素人のおかあさんには、なかなか理解できないらしい。
「それが、交渉なんじゃない。例えば、トシくんがどうしても欲しいカードがあるとするよ。ぼくがそれをあげたら、お返しに一枚じゃなくて何枚かくれるんだよ」
 芳樹は、カードホルダーの中から一枚カードを抜き出した。
「例えば、このカードなんか、すごく人気があるんだよ。こういったカードだったら、普通のカードの三枚分ぐらいの価値があるんだよ」
 芳樹は普通のカードを三枚ならべて、おかあさんにカード交換の仕組みを説明した。

「でも、なんであんたが、いつもトシくんの欲しいカードを持ってるのよ?」
 それでも、まだ納得してくれない。
「それは、また別の子と交渉して、安く手に入れておくのさ。カードのだいたいの相場と、誰がどのカードを持っていて、何を欲しがっているかがわかれば、有利に交渉できるんだよ」
 そこのところは、芳樹はちょっと得意そうな声を出していた。
「うーん、…。でも、そんなの小学生がやることじゃないわ」
 どんなに芳樹が交渉について説明しても、おかあさんは納得してくれなかった。
「とにかく、トシくんにカードを返しなさい」
 おかあさんは、がんとしてトシくんにカードを返すようにいいはっていた。
「うん、わかったよ。でも、どれがトシくんのだったのか、覚えていないよ」
 芳樹は仕方なく、これ以上がんばるのをあきらめた。
「そうねえ。こんなにいっぱいあるんなら、トシくんが持っていた枚数分選んでもらいなさい」
 おかあさんは、カードを手にしながらいった、
「わかった。じゃあ、こっちのカードなら、必要なだけ持ってってもいいよ」
 芳樹は、アキカンに入っていたほうのカード渡しながらいった。
「そっちも返しなさいよ」
 おかあさんは、カードホルダーも取ろうとした。
「こっちは、ぜったいだめ!」
 芳樹は、あわててカードホルダーを自分の体の後ろに隠した。まったく、おかあさんは、これらのカードを集めるために、芳樹がどれだけ苦労したかぜんぜんわかっていないんだから。
 これでは、遊戯王は236枚だけど、実はポケモンカードは372枚も持っているなんて、とてもいえなくなってしまった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椎名誠「本の雑誌血風録」

2020-04-18 14:20:25 | テレビドラマ
 週刊朝日に連載後、1997年に出版された作者特異の自伝風実録ものです(解説の目黒考二によると、かなりフィクションが混じっているそうです)。
 その目黒が友人たちに勝手に配布していた個人書評誌を、定期的に公に発行される雑誌に立上げていく様子が、手作り感満載で描かれています。
 椎名銘柄の有名人たち(おなじみの木村晋介や沢野ひとしに加えて、目黒孝二や群ようこなど)が多数登場します。
 時代としては、「銀座のカラス](その記事を参照してください)の直後なのですが、フィクション度はかなり下がり、最初の「哀愁の町に霧が降るのだ」と同程度の感じです。
 文字通り手作りで新しい雑誌を立ち上げるあたりは非常に楽しいのですが、後半は有名人になっていく作者本人と著名人も執筆するようになる「本の雑誌」の成功端(作者本人については、さらに中小企業とは言え、勤め先の社長就任を打診されるという二重の成功でもあります)を読まされているようで、読まされる方は他の記事にも書いたように「成功者の無惨」を感じてしまいます。
 実際の作者は、社長就任の打診と有名人になっていく自分に引き裂かれるようして精神を病んでいったようなのですが、その部分は非常に簡単にしか書かれていない(本書の内容にそぐわないのかもしれませんが)ので、残念ながら作者に寄り添って読むことはできませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椎名誠「新橋烏森口青春篇」

2020-04-18 13:50:10 | 参考文献
 「哀愁の町に霧が降るのだ」と「銀座のカラス」(その記事を参照してください)と並ぶ自伝的青春小説三部作の真ん中に当たる作品です。
 前作が執筆当時の作者自身も出てくるエッセイ風の作品だったの対して、この作品は、まだ主人公も含めて実名で書かれているものの、完全に私小説として書かれていて、フィクション度は高くなっています。
 これに続く「銀座のカラス」が、新しい雑誌の立ち上げを中心とした中小企業小説(もちろん、作者得意の友情や恋や酒や喧嘩などもたっぷり登場しますが)だったのに対して、会社員に成り立ての主人公(作者)の青春小説的要素(女性への憧れや、友情、酒、ばくちなど)がより濃く現れていて、作品としてのまとまりは一番高いと思われます。
 なお、この作品は単行本発行直後にNHKでドラマ化されて、その後有名になる若手俳優(緒方直人、布施博、木戸真亜子など)が多数出演して、作品世界がより魅力的に描かれていました。

新橋烏森口青春篇 (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椎名誠「犬の系譜」

2020-04-18 13:48:05 | 参考文献
 1987年の一年間、小説現代に連載され、翌年単行本になって、吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。
 夥しい数が出版されている作者の本の中で、最も児童文学的な作品です。
 小学校三年から六年までの間に飼っていた三代の犬の系譜をたどる形にはなっていますが、作者と犬たちとの交流はそれほど話の中心ではなく、その時代の家族とその周辺の変遷が、非常に緻密に描かれています。
 世田谷から千葉の漁村(浦安あたりと思われます)への都落ち(本人と幼い弟は自覚していませんが、両親や年長の兄弟たちははっきりと意識しています)、父の死、長兄の結婚(父の死と結婚以来、長兄は家長としての責任を負うようになります)、家事を一手に引き受けるようになった素朴で優しい兄嫁の登場、それらに伴う母の変化(踊りを中心にして非常に社交的になっていきます)、姉の独立、無職で一家の雑用(その中には主人公たちの部屋の増築なども含まれています)を引き受ける母の弟の活躍、次兄の睡眠薬自殺未遂とその後遺症による精神病院への入院といった波乱万丈の四年間が、当時の漁村の風物や暮らしや人々を背景にして、克明に描かれています。
 他の記事で繰り返し書いてきましたが、子ども時代の鮮明な記憶は、多くの児童文学者(代表的な例をあげれば、ケストナーや神沢利子など)に共通した非常に大事な資質ですが、そういった意味では、作者は児童文学者としても優れていると言えます(もともと、青春時代の些末な出来事を面白おかしく書いたスーパーエッセイでデビューしたのですから、当然と言えば当然なのですが)。
 実際、作者には、「黄金時代」や「岳物語」などの同様の系列と考えられる作品群があります。

犬の系譜 「椎名誠 旅する文学館」シリーズ
クリエーター情報なし
クリーク・アンド・リバー社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・マルセイエーズ

2020-04-18 10:02:54 | 作品
 ヒロシが、蟹沢先生に国語を教わったのは、中学一年と二年の二年間だった。その年の終わりに、先生は、学校を定年退職されたのだった。
 ヒロシが先生の退職のことを知ったのは、学年末試験の最中だった。昼休みにクラスの連中とだべっているときに、クラス委員の星野から聞いたのだ。
「そういえば、カニ先が学校を辞めるんだってさ」
 星野が、それほど関心なさそうにみんなにいった。
「えーっ、どうして?」
 ヒロシは驚いて星野に聞き返した。
「うん、定年なんだって。職員室で先生たちが話してたぜ」
 星野は、いつものようにヒロシの机に腰をおろして、足をブラブラさせながら答えた。
「へーっ、カニ先って、そんな年だったんだ」
 隣りにいた吉村も、びっくりしたような声を出していた。ヒロシも、それに同感だった。
 自分の父親よりは年上だろうとは思っていたけれど、定年退職になるほどの年だとは思ってもみなかった。
 定年を迎えた人というと、どうしても母方の祖父の顔が浮かんでくる。蟹沢先生よりも、もっとずっと年取った人のイメージがあった。もっとも、祖父はとうに七十を超えているはずだったから、それも無理はないことだったけれど。

「そういえば、蟹沢先生が退職するってよ」
 試験が終わった日の夕食の時に、ヒロシは五つ年上の大学生の姉貴に話した。姉貴も蟹沢先生に教わったと、聞いていたからだ。
「そう。蟹沢先生も、もう定年かあ。わたしの知っている先生たちは、学校にほとんどいなくなっちゃったんしゃない?」
 姉貴は、少しさびしそうな顔をした。
「そうかもしれないなあ。なにしろ、毎年十人ぐらいは、退職や転勤でいなくなってるからね」
 ヒロシは、おかずのハンバーグをほおばりながら答えた。
「あら、蟹沢先生、お辞めになるの?」
 台所でおつゆをよそっていたおかあさんが、口をはさんだ。
「そうなんだよ。今度の終業式でおしまいだって」
「はい、おつゆ」
 おかあさんが、おわんを二人に渡した。今日のおつゆはけんちん汁だった。おいしそうなゆげをたてている。
「あの先生は、ほんとにユニークだったわね。私たちの中学では国語を教えているけど、英語の先生の資格も持っているし、大学ではフランス文学を専攻していたんだって」
 姉貴は、なつかしそうに話していた。
「へえ、ほんと。そりゃ、初耳だな」
 ヒロシは、たんなる国語の先生としての姿しか知らなかった。
「そうだっ。あの先生、酔っ払うとフランス国歌を歌うんだってさ。たしか『ラ・マルセイエーズ』って、いったよね。それも、すごい音痴でさ。聞いた人に必ず笑われちゃうんだけど、こりずにいつも歌うんだって」
 姉貴は笑いながらいった
「姉貴も聞いたことあるのか?」
 ヒロシは、興味をひかれて聞き返した 
「ううん、聞いたことない。だけど、あの先生のクラスだった子が、この前、クラス会で聞いたって言ってたよ」
「ふーん」
「『ラ・マルセイエーズ』って、どんなメロディだっけ?」
 おかあさんが、また口をはさんだ。
「えっ?」
 姉貴もしばらく考えているようだったけれど、思い出せないみたいだ。
(どんなだったろう?)
 アメリカの国歌だったら、覚えている。「星条旗よ、永遠に」だ。メジャーリーグの中継を見たりするときに、唄われるのを聞いたことがある。
 でも、フランス国歌は、あまり聞いたことがない。けっきょく、家族三人、だれもそのメロディを思い出せなかった。
 ヒロシにとって、蟹沢先生は大の苦手だった。
 色黒でひげがすごく濃い。黒ぶちのめがねをかけていて、背はヒロシよりも低いくらいだ。いつも皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべている。
 生徒たちを、自分でつけたあだ名で呼ぶ。しかも、そのあだ名が特徴をすごくうまくつかまえているのだ。だから、友だちや他の先生までが使うようになってしまう。
 ヒロシは、姉貴が二人も同じ中学を卒業している。それで、入学したとき、真っ先にあだ名をつけられてしまった。
「おい、山村。おまえのねえさんたちは、できが良くて美人だったけど、おまえはチョコマカ落ち着きがないなあ。コロコロ太っていて、ぜんぜんねえさんたちに似てないなあ。似てるといやあ、タヌキだな。そうだ。おまえ、タヌキってあだ名がいいかもな。いやゴロが悪いから、ポンポコにしよう」
 以来、学校では、ヒロシのことを本名で呼ぶものはいない。女の子たちまでが、「ポンポコ君」なんていう。男子は、「ポンポコ」とか、「山ポン」と呼びすてだ。

 翌日の昼休みも、ヒロシはいつものようにクラスの連中とだべっていた。蟹沢先生の話を持ち出したのは、星野だった。
「カニ先の授業も、あと二、三回で終わりだなあ」
「うん、あいつも変わったやつだったよな」
 ヒロシは、カッターで消しゴムをきざみながらいった。
「カニ先には、いつもやられっぱなしだったな」
 ヒロシの前の席で、いすに横向きに座っていた吉村が言った。蟹沢先生のあだ名や皮肉の餌食になったのは、ヒロシだけではなかったのだ。
「でも、あれでけっこう憎めない所もあるんだよなあ」
 星野が、意外にもしみじみとした声を出した。
「でも、一度でいいから、カニ先にひと泡ふかしてやりたかったな」
 吉村が残念そうに言った。
「カニだからか?」
 吉村は、あげ足を取った星野のボディーに、軽くパンチを入れた。
 ヒロシが、「ラ・マルセイエーズ」の件を思い出したのはその時だ。
「えっ。あいつ、『ラ・マルセイエーズ』なんか歌うのか」
 ヒロシの話が終わると、星野がおもしろそうに言った。
「クラスで、歌わしてやりたいなあ」
 吉村がそう言うと、他の連中も乗り気になってきた。
「ただ歌わすだけじゃ、おもしろくないよ。なんか、趣向をこらしてさ、カニ先をギャフンと言わしてやりたいな」
 ヒロシがそう言ってみんなの賛同を得た時、昼休み終了のチャイムが鳴った。

ヒロシは、授業中もこのことを考え続けていた。こういうことにかけるヒロシの情熱は、本当にたいしたものだ。
 その日の放課後に、もう一度、みんなを集めて相談した結果、つぎのような手はずになった。
 ①授業の最後に、ヒロシが「ラ・マルセイエーズ」を歌ってくれるように先生に頼む。
 ②先生が断ったら、クラス全員で「ラ・マルセイエーズ」を連呼して要求する。
 ③先生が引き受けて、最初の一小節を歌ったら、一列目が笑う。次の小節では二列目が、以下順番に各列が笑い、最後にみんなで大笑いする。
 どうしても先生が引き受けなかったり、途中で怒り出したりしたら、みんなで「ラ・マルセイエーズ」を合唱する。そうすれば、悪意からではないことが、わかってもらえるはずだ。
ヒロシたち二年三組での蟹沢先生の最終授業は、三月二十二日。あと一週間しかない。クラスのみんなへの根回しもいるし、当日の用意も必要だ。大急ぎで準備しなければならない。

 その日の放課後、ヒロシは、星野と一緒に、区立図書館の視聴覚ライブラリーへ出かけて行った。もちろん、「ラ・マルセイエーズ」のCDを借りるためだ。
 そこのライブラリーは充実しているので、ヒロシは、時々、好きなJポップのCDや外国映画のDVDを借りている。
 でも、今日はそんなひまはない。
「どこを探せばいいかなあ?」
 ヒロシは、あたりをキョロキョロながめながら、星野に聞いた。
「国歌のコーナーってないか?」
 星野も、あたりを見回している。
「そんなのあるはずないよ」
 ヒロシは、あきれたように星野の顔を見た。
「じゃあ、クラシックだな」
 星野が自信ありげに言った。
 「ラ・マルセイエーズ」のCDは、予想どおりにクラシックのコーナーで見つかった。
 しかし、残念ながら歌詞がついていない。インストルメンタルなのだ。
「クソーッ。これじゃだめだ」
 ヒロシがそのCDを棚に戻そうとした時、星野があわてておしとどめた。
「待てよ。カニ先が歌ったりさ、おれたちが歌ったりする時に、バックに使えるじゃないか」
「あっ、そうか」
 結局、「ラ・マルセイエーズ」が入っているフランスの合唱団のCDを見つけるのには、それから三十分近くもかかってしまった。

 図書館の帰りに、ヒロシは、駅の前で星野と別れた。ヒロシは、となりの区から電車通学をしているのだ。
 ホームで電車を待っていると、まるで待ち合わせでもしていたかのように、蟹沢先生がやってきた。
「おい、ポンポコ。なにやってんだ、こんな遅くに」
 先生は、めざとくヒロシを見つけると、いつものように大声で言った。
「こんちは。ちょっと図書館に行ってたもんで」
 ヒロシはそう言うと、手にさげていたCDの入ったビニール袋を、持ち上げてみせた。
(まさか、この中身が『ラ・マルセイエーズ』だとは思うまい)
「そうか」
 先生は、納得したようすでうなずいた。
 さいわい、すぐに電車がホームに入ってきたので、先生は、それ以上話しかけてこなかった。
 ヒロシは、電車に乗るとドアのそばに立って、反対側の席に腰をおろしている先生を横目で見ていた。
 古ぼけた三つ揃いの背広に、大きな黒カバン。おまけに、灰色のソフト帽までかぶっている。
 今どき、こんなかっこうをしている中学教師なんて、東京広しといえども他にはいまい。
 しかも、先生は一年中同じ格好をしていた。くそ暑い夏の日にも、きちんと背広を着て、汗だくで歩いている。それを生徒たち、それに若い先生たちまでが、笑いの種にしていた。学校新聞に、「U中学の七不思議」のひとつとして、「蟹沢先生のスリーピースとソフト帽」は、取り上げられたくらいなのだ。
 でも、ヒロシだけは、なぜいつも先生がそんな格好をしているかを知っていた。

 一年生の二学期のことだった。
 ある日、ヒロシは、駅員に不正乗車の疑いをかけられたことがあった。
ピンポーン。
自動改札機のチャイムが鳴って、ヒロシの目の前で扉が閉まった。
(チッ)
 仕方がないので、端にある駅員のいるレーンへ行って、定期券を見せて出ようとした。
 めがねをかけた若い駅員は、定期を持ったヒロシの腕をつかんで言った。
「おい、期限が一週間も過ぎてるぞ」
「えっ」
 ヒロシがあわてて定期を見ると、期日は十月五日までだった。今日はもう十二日だ。
「うっかり……。」
 ヒロシが言いかけると、
「ちょっと、そこで待ってろ」
 駅員はそう言って、続いてやってきた他の乗客をさばき始めた。
 その後で、ヒロシは駅員と押し問答を繰り返した。昨日まで、どのように改札を通過したのだというのだ。そんなこと言ってもヒロシにもなぜ期限切れの定期で追加できたのかはわからない。ヒロシがいくら弁解しても、駅員は聞き入れてくれない。何か不正な方法で通過したのだろうというのだ。そして、ペナルティーとして、超過した期間の通常料金の三倍を払えとの、一点張りなのだ。ヒロシがその時持っていたお金では、とても足りなかった。
「山村、どうした?」
 振り向くと、改札口に蟹沢先生が立っていた。いつのまにか、次の電車が到着していたのだ。
「失礼ですが、わたしは、この子の学校の教師ですが」
 先生は、ていねいにソフトをぬいで、駅員に話しかけた。先生のしらが頭はかなり薄くなっていたが、きちんと刈りそろえられている。この時ばかりは、ヒロシの目にも、先生はおしもおされぬ「紳士」に見えた。
 駅員も、ちょっと圧倒されたような顔をしていた。それでも、駅員は、事情を説明し始めた。さっきとはうってかわって、ていねいな口調だった。
「そうですか。山村はうっかりしたと言っているんですか」
 そう言うと、先生は、ヒロシの顔を確かめるようにみつめた。
「彼の言葉は、わたしが保証します。この子は、うそをつくような子じゃない」
「しかし、……」
 駅員が、言い返そうとした。
「それに、うっかりしたのは、この子だけではない。自動改札機もあなたたちも、今まで気づかなかったんじゃないですか?」
 先生にこう言われると、駅員は黙ってしまった。先生は、さいふを取り出して一回分の正規の料金だけを払うと、ヒロシを連れてさっさと改札口を抜けていった。

 翌日、ヒロシは、昨日のお金を返しに職員室へいった。
「蟹沢先生をお願いします」
 入り口近くにいた先生に声をかけていると、
「おーい、ポンポコ、こっちだ」
 向こうから、蟹沢先生が手を振っている。
「ありがとうございました」
 ヒロシがお金を返すと、先生はこう言った。
「ポンポコ。昨日、なんであの駅員が、おれの言葉を信用したと思う?」
 ヒロシがどう答えたらいいかわからずに黙っていると、先生はすぐに話を続けた。
「外見なんだよ。見た目ってやつ。中学生の言葉は信じられなくても、きちんとした身なりの大人の言うことならば信じてしまう」
 先生は、そこでちょっと言葉を切った。
 でも、また話を続けた。
「でもなあ、人間って、案外そんなとこあるのかもしれないなあ」
 先生は、少し照れたように笑っていた。
「だから、このみかけだおしのかっこうも、たまには役立つってわけだ」
 先生はそう言って、背広のえりに両手の親指をかけて、おどけてみせた。

「馬鹿みたい。こんなのやめときなよ」
 ヒロシの説明が終わると、片柳さんが真っ先に反対した。大人びた顔に、馬鹿にしたようなうす笑いを浮かべている。
 ヒロシと星野は、「ラ・マルセイエーズ」の計画について、クラスの中心的な女の子たちにも協力を求めていたのだ。すでに男子たちには根回し済みで、他のクラスや先生たちにばれないように、星野がかん口令をしいてある
「そうね。お年寄りを笑うなんてかわいそうよ」
 そう言ったのは、クラス委員の竹田さんだ。
(ちぇっ。ブリッ子してら)
 ヒロシは心の中でそう思っていたが、もちろん口には出さない。そして、けんめいにもう一度計画を説明した。星野は、そんなヒロシと女の子たちを見較べながら、ニヤニヤしている。
「でも、ちょっと面白いかもね」
「うん、最後はハッピーエンドなんだし」
 何人かの女の子たちは、興味を持ってくれたらしく、賛成しそうな雰囲気になってきた。竹田さんも迷っているようだ。ヒロシは、期待をこめて片柳さんの顔をみつめた。
「しらけるなあ。まるで小学生みたいじゃない」
 片柳さんはそう言い放つと、さっさと教室から出て行ってしまった。すると、賛成しかかっていた子たちまでが、前言を翻して反対にまわったので、ヒロシはすっかりがっかりさせられた。
 星野はそんな様子をながめながら、相変わらずニヤニヤしているだけだった。

 その晩の九時過ぎに、ヒロシに星野から電話がかかってきた。
「オーケー、山ポン。話はつけたよ」
「何の?」
 ヒロシが聞き返すと、
「もちろん、『ラ・マルセイエーズ』のさ」
と、星野は、少しじれったそうに言った。
「えっ、女の子たちとか?」
 ヒロシは、びっくりして答えた。
「鈍いな。まだ、片柳さんとだけだよ。彼女さえOKなら、後はだいじょうぶ。みんなに話をつけといてくれるから」
「そうか、やったな」
 ヒロシはホッとしていた。どうやって女の子たちを説得したらよいか、ヒロシには見当もつかなかったからだ。
「でも、先生を笑うのはいやだってさ。合唱は協力するけどな」
「いいよ、いいよ。それだけで。告げ口したり、じゃましたりしなけりゃ、それでいいよ」
「それは絶対に保証するよ」
「でも、どうやって片柳さんを説得したんだ?」
 ヒロシは、不思議そうにたずねた。彼女は、学校ではあんなに強く反対していたのに。
 すると、星野は一段と大人びた口調で言った。
「山ポン。それは企業秘密ってやつだよ」
「えっ?」
 星野が笑いながら電話を切った時になって、やっとヒロシにも、星野と片柳さんの関係がピンときた。

 その後は、準備は着々と進んだ。
大学では、一応フランス語を習っていることになっている姉貴が、調べてくれた発音をカタカナで書いた訳詞付きの歌詞カードは、片柳さんが人数分のコピーをとってくれた。彼女は、前とはうってかわって協力的だった。
 先生にプレゼントする「ラ・マルセイエーズ」をダビングしたCDは、凱旋門のカードとリボンで、きれいに飾られている。放課後にひそかに開いた合唱練習にも、クラスのほとんどが参加してくれていた。

 いよいよ三月二十二日がきた。国語の授業は四時限目。もう学校は半日授業になっているので、これがその日の最後の授業だった。
 蟹沢先生は、他のクラスでも、最後のあいさつをしたり、プレゼントを受け取ったりしているとの情報が、ヒロシたちに入ってきていた。
 四時限目になった。
 蟹沢先生は、いつもと少しも変わりなく授業をすすめている。相変わらずの皮肉っぽいしゃべり方で、一年間の授業内容を総括していく。
 ヒロシは、授業に全然身が入らなかった。他のクラスの連中も、うわべはそしらぬ顔でまじめに聞いているふりをしているが、たぶん同じ気持ちだったに違いない。
 終了五分前になった時、先生は授業を終わらせた。
「みんな、もうすでに聞いていると思うけど、私は、二十五日の終業式を最後に、退職することになりました」
 先生は緊張をごまかすように、照れ笑いを浮かべながら言った。
 クラスのみんなが、いっせいにヒロシの方へ目くばせしてくる。
 ヒロシは、先生のあいさつが終わると、すぐに席を立った。
「先生、お願いがあります。最後に、先生の得意の『ラ・マルセイエーズ』を、聞かせてくれませんか?」
 先生は、ちょっととまどったような顔をしていた。
「『ラ・マルセイエーズ』か。ポンポコ、ねえさんから聞いたな」
「ええ。ぜひお聞きしたいんですが」
「おれはへたなんだよ、歌が。音痴なんだ」
「そこをなんとか」
 はじめは数人が、そして、しだいにクラス全体が、
「ラ・マルセイエーズ」
「ラ・マルセイエーズ」
と、叫びだした。机をがたがたさせたり、足を踏みならす者もいる。
「わかった、わかった。まあ最後だからな。みんなは知らないだろうけれど、『カサブランカ』っていう戦後すぐにヒットした映画の中で、フランス人たちが、ドイツ軍人に対抗して、この歌を歌うシーンがあってね。そのころの若い人は、みんなその映画に感動したんだそうだ。先生は、そういう古い映画が好きなもんでね」
話し終わると、蟹沢先生は、間をおかずにいきなり歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー、ルジュドゥグラエーアリヴェ!
  (たて祖国の若者たち、栄光の日は来た。)        」
 星野が、あわててCDラジカセのスイッチを入れる。少しひずんだ「ラ・マルセイエーズ」のメロディーが流れ出した。
 先生の歌は、まったくへたくそだった。ヒロシが想像していたよりも、数倍へたなのだ。音程もリズムもめちゃくちゃだった。CDの演奏にもまったく合っていない。
 でも、先生は体中に力をこめて、いっしょけんめいに歌っていた。
 最初の一小節が終わった時、最前列の数人が笑いかけた。
 しかし、それは、打ち合わせどおりのそろった笑い声にはならなかった。
 二小節目が終わった時には、もう誰ひとり笑う者はなく、みんなは、黙って蟹沢先生をみつめていた。
 先生は、黒ぶちめがねの奥にある、ギョロリとした目にいっぱいの涙をためて、一心に歌っていた。からだを前後に揺さぶりながら、大きな声で歌い続ける。
「マルション! マルション! クンサナンピュー、アブルヴノショーン!」
 最後まで歌い終わると、先生は、何も言わずに教室を出て行った。クラスのみんなは、黙ってその後ろ姿を見送っていた。
 と、その時、片柳さんが小さな声で歌い出した。
「アロナファンドゥラパトリィー……。」
 それにつれて、クラス全員が「ラ・マルセイエーズ」を歌い始めた。ヒロシは、プレゼントのCDをつかむと、廊下へ飛び出していった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤宗子「「モダン」と「ファンタジー」――理念の形成とずれ――」日本児童文学1991年6月号所収

2020-04-18 09:41:09 | 参考文献
 著者は、「「ファンタジー」を語り、考えることは、「近代」において「子ども」観が、さらに「児童文学」が成立したとみるときの「近代」を、どのように評価するか、或いは、近代日本児童文学を批判したときの「現代」が、どのようなものをめざしていたのか、といった基本的な見直しを促す」としています。
 この論文では、「「近代」と「現代」――つまりは「モダン」と「ファンタジー」の関係を問う」ために、いくつかのエッセイ、評論を紹介しています。
 石井桃子「子どもから学ぶこと」(「母の友」1959年12月号所収)では、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」が「筋」とは無関係なところが多く、「語り」に向いていないことが批判されています。
 そこから、「現代児童文学」の出発期に、「ファンタジー」は、「筋」や「語り」の場を重視した「まえがみ太郎」や「ちびっこカムのぼうけん」などの作品と、非日常的な出会いまでのある程度長い経過と描写の緻密さを特徴とするフィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」や佐藤さとる「だれも知らない小さな国」のような作品の、「二つの「近代」の出発をしたのではないか」と、佐藤は述べています。
 瀬田貞二「空想物語が必要なこと」(「日本児童文学」1958年7・8月号所収)では、「ファンタジー」の理念について、「空想物語が合理性を持つということ」「空想物語には特別な能力が要ること」「空想物語は不可欠なものであること」の三点を指摘しています。
 安藤美紀夫の「『だれも知らない小さな国』について――読書感想文的覚え書き」(『現代日本児童文学作品論』<『日本児童文学』臨時増刊>1973年8月、その記事を参照してください)では、「日本の子どもにとっての典型的な人物がいない」、「「日常的世界」は、「家庭を中心とした家計簿のとどく範囲の世界」であり、それを「こちら側の世界とするファンタジー」を、「家庭のファンタジー」と呼ぶ。」また、それは、「主として安定した中産階級を基盤にすえたファンタジー」といえる」と、述べています。
 小沢正の「ファンタジーの死滅」(『日本児童文学』1966年5月号所収、その記事を参照してください)については、「ここでは、「子ども」観も「ファンタジー」の発生も、「近代の輝かしい成果という見方はとられない。社会による「子ども」の尊重も、「子ども」の世界の発見も、必要に迫られておこったともいえるから、である。」と、著者は述べています。
 著者は、これらの四半世紀前(現時点からは五、六十年前)のエッセイ、評論が<伝達>への信頼に根差していると指摘しています。
 これは、「「現代児童文学」をふり返る――<成長>への期待と<伝達>への信頼、そしてパラダイムの崩壊――」(『日中児童文学シンポジウム報告書』所収、その記事を参照してください)で著者が提示した以下の見取り図に基づいています。
「「現代児童文学」の出発期に、<成長>への期待と、<伝達>への信頼とが確立し、そのパラダイムが七〇年代、八〇年代と崩壊していく」
 そして、著者は、<伝達>の呪縛から解放された「ファンタジー」が議論されることを期待してこの論文を終えています。
 この論文が書かれてから三〇年近くが経過しましたが、著者の期待通りには「ファンタジー」の議論は進んでおらず、相変わらず児童文学市場には毒にも薬もならない安直なファンタジーがあふれています。

「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
クリエーター情報なし
久山社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バードウォッチング

2020-04-17 10:18:59 | 作品
 ピピ、ピピ、……。
 枕もとに置いためざまし時計が鳴っている。孝志はぼんやりと目を覚ました。
(いけない!)
次の瞬間、孝志は急いでアラームをとめると耳をすました。
 隣の部屋は、シーンとしている。どうやら、とうさんを起こしてしまわなかったようだ。昨日の夜も、とうさんは仕事で帰りが遅かった。
 そっと寝床を抜け出して、パジャマ姿のまま玄関へいった。
 まだ六時少し前だ。
ドアを開けると、ちょうど太陽が東の空に昇りはじめたころだった。
(ふーっ、寒い)
 孝志は少しふるえながら、胸の前で腕を組んだ。
 三月になったとはいえ、高台にある孝志の家のあたりでは、まだまだ朝晩の冷え込みがきびしい。カーポートにとめてあるとうさんの車のフロントガラスは、真っ白に凍りついていた。孝志は、指先でフロントガラスをさわってみた。少しこすったくらいでは、氷は溶けなかった。
 でも、寒さこそ厳しいものの、空はすっかり晴れ上がっている。待ちに待った晴天の日曜日の朝だった。
 孝志は、いつものように郵便箱から朝刊を抜き出すと、急いで家の中に戻った。

 同じクラスの秀平から、バードウォッチングに誘われたのは、もう三週間も前のことだった。
「タカちゃん、今度の日曜日に、鳥を見に行かないか?」
 休み時間に孝志の机のそばまでやってくると、秀平はいきなりそういった。
最近、孝志は休み時間にも運動場で遊ばずに、教室にいることが多かった。秀平は、そんな孝志に声をかけてくれる数少ない友だちだった。
「えっ、鳥? 動物園へでも行くの?」
「ううん、違うよ。野生の鳥。バードウォッチングだよ」
「バードウォッチング?」
「うん。山とか、川とか、林なんかを歩いて、双眼鏡で鳥を見るんだ」
 秀平は、少し得意そうに説明している。
「ふーん?」
 孝志がまだピンとこないでいると、秀平は熱心に説明を始めた。
「ぼくらの町って、すごくバードウォッチングに向いてるんだよ。だって、住宅地や公園だけでなく、畑や田んぼ、それに山や川だってあるし。なんといってもすごいのは、湖まであることだよ。だから、いろんな種類の鳥が見られるんだ」
 秀平は、去年、町のバードウォッチング教室に参加して以来、すっかりはまっているんだという。
「今の季節だと、朝早く行けば、お昼までに軽く三十種類は見つけられるよ」
「ほんとう? そんなにたくさん?」
 三十種類と聞いて、急に興味がわいてきた。
 鳥といわれて頭に浮かんでくるのは、ハトやスズメ。それに、最近やたらと増えてゴミ箱をあさっているカラスぐらいだ。自分のまわりにそんなにいろいろな鳥がいるなんて、とても信じられなかった。
 秀平がわずか一年弱の間に七十八種類もの鳥を確認できたと聞いて、とうとう孝志は行くことを約束した。
 ところが、そのあとの週末は雨続きで、今日までのびのびになっていたのだ。

 秀平とバードウォッチングに行くと聞いて、孝志以上に喜んだのはとうさんだった。
とうさんは、翌日すぐに、すごく高そうな双眼鏡を買いこんできてしまった。
(初心者用でいい)
っていったのに、どうやらドイツ製の高級品らしい。
「倍率は高ければ高いほどいいのかと思ったら、そうでもないらしいんだよな。鳥ってのはチョコマカ動くから、7倍から10倍ぐらいがちょうどいいらしいんだ」
 ネットでも調べたのか、いやに詳しくなっている。
「ほら、持ってごらん」
 そういって差し出された双眼鏡を持ってみると、思ったより軽い。それにゆるやかなカーブを描いた形が、ピタッと手になじんでくる。
 目にあててみると、いきなり居間の飾り棚に置いてある博多人形が、視野いっぱいに飛び込んできた。
 でも、ちょっとピンボケだ。
「まん中のダイヤルで、ピントを合わせるんだよ」
 横から、とうさんがいっている。
孝志が少しずつダイヤルをまわすと、くっきりと描かれた人形の顔がはっきりと見えるようになった。
 居間の壁に沿って、見る先を少しずつ動かしていく。
 孝志が3才のときの虫歯予防の表彰状。去年の習字コンクールで優秀賞をもらった「大空」。
最後に、額に入ったかあさんの笑顔がアップになった。

 その後も、とうさんは必要以上に張り切ってしまった。
「リュックはいらないのか?」
「靴は山歩き用のがいいらしいぞ」
「雨具は軽くて折りたためるポンチョ式のがあるぞ」
と、いろいろといってくる。
 半年前にかあさんが亡くなってから、孝志が自分から何かをしようとするのは初めてのことだった。だから、とうさんはよほどうれしかったらしい。
「まだ始めてもいないのに、そんなに買いこんだってしょうがないよ」
 孝志が文句をいうと、
「いや、せっかくやるんなら、形から入るってのも、最近はありだぞ」
と、なかなか引き下がらない。そして、孝志の忠告など聞かずに、次々と買いこんできてしまった。
 いろいろな野鳥の鳴き声が録音されたCD。ナップザックや大きなひさしのキャップ。
 びっくりするぐらいいろいろな物を買ってきた。
 図鑑などは、バードウォッチングに携帯できる小型のだけでない。ずっしりと重たい本格的な物まであった。それには、日本だけでなく外国の野鳥までがのっていた。
 まあ、そのおかげで、雨で伸び伸びになっている間に、野鳥の鳴き声や名前をずいぶん覚えることができたけれど。

「おーい、タカちゃーん」
 待ち合わせ場所に先に着ていた秀平が、中学校の校門の前で手を振っている。
「おはよー」
 孝志もそれにこたえると、かけだしていった。
 秀平は、孝志が首からぶらさげている双眼鏡に気づくと、目をまん丸にして驚いていた。
「それ、もしかして、ツァイスのT457じゃない?」
「うん、とうさんが勝手に買ってきちゃったんだ」
 孝志が恥ずかしそうに答えた。
「ちょっと、さわってもいい?」
 秀平が遠慮勝ちに手を伸ばした。
孝志は、すぐに双眼鏡を首からはずして手渡した。
「すげえ、やっぱりクリアに見えるなあ」
 あちらこちらを見ながら、秀平は感心したような声を出していた。
 孝志は、代わりに秀平の双眼鏡を受け取った。それは、黒塗りの古くて大きな双眼鏡だった。
 のぞきこもうとしたら、手前の左レンズがポロリと取れてしまった。孝志は、あわててそれをもう一度はめこんだ。
「じゃあ、始めようか?」
 秀平はそういいながら、ツァイスのT457を孝志に返した。孝志も、レンズが落ちないように気をつけながら、秀平の双眼鏡を戻した。
「まずどこへ行くの?」
 孝志がすぐにでも歩き出そうとすると、
「待って、ここにもすごいのがいるんだぜ」 
 秀平はそういうと、孝志を中学校の中へ連れていった。校舎の中ほどがアーチ型になっていて、反対側の校庭につながっている。
「ほらっ」
 秀平が指差した天井を見上げると、背中が黒くおなかが白い鳥が何羽もいた。ツーイ、ツーイと上へ下へとせわしなく飛びかっている。秀平によると、虫をつかまえているのだそうだ。
「ツバメ? でも、それって、夏しかいないんじゃなかった?」
「うん。これはイワツバメっていって、一年中いる鳥なんだ」
 孝志は、けんめいに双眼鏡でイワツバメを追いかけようとした。
 でも、すばっしこくってなかなかキャッチできない。
「1種類目はイワツバメと」
 秀平はポケットから小さなノートを取り出すと、ひもで結びつけてあるちびた鉛筆で書き込んだ。
「なんだい、それ?」
 孝志が聞くと、
「フィールドノート。観察した鳥の名前を書いておくんだ」
 覗き込むと、前回のところにはびっしりと鳥の名前が書きこんであった。

 大戸橋のたもとから、二人は沢へ降りて行った。二、三メートルしか幅のない浅い流れだが、これより上流に家がないせいか、意外と水は澄んでいる。秀平の話だと、もっと上流まで行けばサワガニがいっぱいいる所もあるらしい。
 その時、二人の頭上を白い大きな鳥が横切った。
「シラサギだ!」
 孝志は興奮して叫んだ。
こんなに大きな鳥が家のそばにいるなんて、今までぜんぜん気がつかなかった。
「正確には、コサギだけどね」
 見なれているのか、秀平は意外と冷静だ。
(シラサギという名前の鳥はいなくて、大きさによってコサギ、チュウサギ、ダイサギというのだ)
と、孝志に教えてくれた。
 コサギは沢に沿ってゆうゆうと滑空すると、50メートルぐらい先にそっと舞い降りた。
 双眼鏡でのぞくと、魚をねらっているのか、流れの中にじっと立っている。
 孝志と秀平は、コサギを驚かさないように、岸辺に沿ってゆっくりと近づいていった。
 コサギは川の中ほどで、一本足でやや前かがみになりながら、じっと水面をにらんでいる。まるで、あたりの風景に溶け込んでいるかのようだ。
 少し先を進む秀平をけんめいに追いながら、孝志は頭の中がジーンとしびれるようなうれしさを感じていた。

 その後も、二人は次々と違う種類の鳥を見つけていた。家が密集しているような所でも、意外にいろいろな鳥を見ることができる。
 ポポー、ポポー、ポポー。
 電線には、キジバトがつがいでとまっている。
 広い庭のあるうちでは、芝生の上を黄色いくちばしをしたヒヨドリが歩き回っていた。
 高いこずえの上では、巣でもあるのか、たくさんのムクドリがペチャクチャとおしゃべりしている。
 やがて二人は、ひろびろとしたお寺の境内に出た。
「あっ、ウグイスだ」
 孝志が指差したところには、ウグイス色をした小さな鳥がいた。
「違うよ、メジロだよ」
 秀平が答えた。
「よく見てごらん。目のまわりが白いから。ここが黒かったらメグロなんだ」
 孝志は双眼鏡のダイヤルを調節して、その鳥にピントを合わせた。たしかに、目のまわりが白くなっている。
「メジロって、うちの町鳥なんだぜ。つまり町の鳥ってわけ」
「へーっ」
 孝志も国鳥がトキだってことは知っていたけれど、町鳥なんてものがあるなんて、ぜんぜん知らなかった。
 本堂の屋根に、白と黒のツートーンカラーのきれいな鳥がとまっている。長い尾っぽをヒラヒラさせている。
 オナガだ。
 ギャー、ギャー、ギャー
 オナガは、見た目とは似つかわない汚い声で鳴きわめいていた。

 11時すぎに、二人は小倉山の中腹にある発電所まで来ていた。
「タカちゃん、ちょっと休もうか」
 歩きなれないせいか、孝志はすでにかなり疲れてきていた。日差しも高くなって、3月だというのに額には汗もうかんできている。そんな様子に気がついた秀平が、声をかけてくれたのだ。
 二人は背中からデイバッグをおろすと、発電所の横の芝生に腰をおろした。
 ここはなかなか見晴らしが良かった。正面に丹沢の山々が、幾重にも重なって続いている。その向こうには、真っ白な雪をかぶった富士山が頭をのぞかせていた。
「いい物があるよ」
 秀平が、デイバッグからチョコレートを取り出してくれた。
「これを食べると、疲れがとれるよ」
「サンキュー」
 ほおばると、口の中にほろ苦い甘さがひろがった。なんだかチョコレートに元気をもらって、これからの急な坂道を登っていく力がわいてきたような気がした。
 ホホホッホーーー、ホケキョ。ケキョケキョ。ホーホケキョ。
 眼下の雑木林からは、あちらこちらから、これは本物のウグイスがいい声を聞かせてくれている。
「あっ、イカルだ」
 秀平が指差す高い木の上のてっぺんには、大きな黄色いくちばしが特徴的な鳥の群れがとまっていた。

 一歩一歩、足元を見つめながら、長い坂道をゆっりと上っていく。
(そうすると疲れない)
って、秀平がアドバイスしてくれた。
 ようやく登りきって最後カーブをまがると、急に前の景色が開けた。
 城山湖だ。周囲3キロそこそこの小さな人造湖だけど、深い緑色の水をたたえた美しい湖だった。まわりには家などは一軒もなく、ぐるりを山に囲まれているので、いつも静かだった。
 観光地の湖と違って、やかましいおみやげ屋や遊覧船のアナウンスがないのがいい。
(自然そのものに包まれている)
って、感じだ。
 ここは、孝志たちにとっては、おなじみの場所だった。遠足やお花見、それに秋のもみじ狩りなどの時に、ここまで足をのばしている。
「放流によって、湖の水位が急激に上下しますので、絶対に柵の中に入らないでください」
 テープに吹き込まれた、おなじみのアナウンスが、聞こえてきた。 
 フェンスの向こうをのぞきこむと、下のほうに、今日も監視の目を盗んで釣り糸をたれている人たちがいる。
 夜間電力で川から水を組み上げ、昼間はそれを放水して発電する。揚水式ダムというタイプだと、社会科で習っていた。そのため、湖に流れ込んでいる川は、一本もなかった。
 でも、釣り好きの人がこっそり放流したのか、けっこう魚が住みついている。そして、それをねらっている水鳥たちも、秋から春にかけてはたくさんやって来ていた。

「オシドリ、マガモ、それにカイツブリ」
 遠くの湖面に、黒い粒のように見える鳥たちに双眼鏡を向けながら、秀平がつぶやいた。
 孝志もそちらの方に双眼鏡を向けたけれども、距離が離れすぎていてどんな鳥か良くわからない。このくらい離れていると、孝志の8倍の双眼鏡では無理なのだ。
 秀平のは倍率が12倍なので、少しはましだ。二人は双眼鏡を交換しながら、湖面に浮かぶ鳥たちも観察していた。
 でも、なかなか細かいところまではわからない。図鑑と見比べても、慣れない孝志には、なかなか鳥の区別がつかなかった。
「やっぱり、双眼鏡じゃあ、はっきり見るのは無理だなあ」
 とうとう秀平も、あきらめたように双眼鏡をおろした。
 このくらい離れていると、最低でも20倍以上の倍率が必要なのだという。しかも、そんなに倍率が高いと、双眼鏡では手で持っているので、視界がぶれてしまうのだそうだ。三脚つきの本格的な望遠鏡でしか、見ることができない世界だった。
「あーあ、三脚つきの望遠鏡が欲しいなあ」
と、隣では秀平がため息をついている。
 それでも、なんとか種類を見きわめようとして、孝志は双眼鏡にあてた目をけんめいにこらした。

 コンビニで買っておいたおにぎりを湖の展望台で食べてから、二人は沢伝いに山を下っていった。
「あっ」
 急に秀平は立ち止まると、後に続く孝志にそっとしているようにと、身振りでサインを送った。
「カ・ワ・セ・ミだ」
 声をひそめて対岸の木を指差している。
「えっ?」
 キョロキョロしてみても、どこにいるのかわからない。
「しーっ。そこそこ、枝の先」
 秀平は、いっそう声をひそめている。対岸に植わった梅の木から、沢にかかるように枝が張り出している。その枝の先にカワセミはいた。
 コバルトブルーの羽が、日の光をあびてキラキラ輝いている。おなかはくっきりしたオレンジ色だ。大きさは、そう、15センチぐらいだろうか。ヒヨドリと同じぐらいに見える。長いくちばしに短いしっぽ、肩をすぼめるようにして、じっとしている。
 と、カワセミは何かにたたきつけられたかのように、いきなり川面めがけてダイビングした。一瞬、水中に沈んだと思ったら、あっという間にもとの枝に舞い戻ってくる。すごい早業だ。
 長いくちばしには、まだけんめいに身をくねらせている10センチほどの魚をくわえていた。カワセミは魚を何度か枝にたたきつけると、天を振り仰ぐようにして頭から丸呑みにした。
「すげーえ」
 隣では、秀平が小さくつぶやいてる。孝志は双眼鏡のピントをけんめいに合わせた。画面いっぱいにひろがったカワセミは、首をキョトキョトとせわしなく動かしている。もう満腹したのか、獲物をねらっている様子には見えない。
 やがて、カワセミはいきなり枝を飛び立つと、下流に向かって水面すれすれを一直線に飛んでいってしまった。

 沢伝いに町はずれまで降りてくると、急にポッカリと開けた場所に出た。
 鉄筋4階建ての大きな建物。今年できたばかりの「町民健康福祉センター」だ。入り口部分は屋上までの吹き抜けで、その正面は大きなガラス張りになっている。お日様に照らされて、ピカピカに輝いていた。
「ああっ、今日もだ」
 秀平はそういうと、先に立ってかけだした。孝志もあわてて追いかけると、秀平は入り口の前で何か黒っぽい物を拾い上げている。
「何だい?」
 そばへよってみると、秀平が両手にかかえていたのはかなり大きな鳥だった。もう死んでいるようだ。
「トラツグミだよ」
 秀平がポツンといった。
「どうしたんだろう?」
「あの大きなガラス窓にぶつかっちゃたんだよ」
 二人は、キラキラ光る大きなガラス窓を見上げた。
「あんまり大きくって透き通っているので、鳥にはガラスがあることがわからないんだよ」
「ふーん」
 トラツグミの薄茶色の体には、黒い縞模様がくっきりとしていて、まるでまだ生きているようだ。
 でも、秀平の手の中で、固く目を閉じたまま動かない。もう大空を自由に飛びまわったり、虫を捕まえたりすることはできないのだ。
 孝志は、急にお葬式のときのかあさんの顔を思い出した。白くて眠っているようにきれいだったけれど、やっぱりどこか遠い所へ行ってしまった。

 チッチッチッチ。
「ヒヨドリだ」
 秀平がすぐに答えた。
 ピロロー、ピロロー。
「ヤマバト」
 また、すぐに答えた。
「正解!」
 バードウォッチングの帰りに、秀平に家へよってもらっていた。野鳥のCDをかけて、鳴き声で名前を当てるクイズをやっている。間違えたら交代するルールなのだが、秀平が連続して的中させるので、孝志の番はなかなか来なかった。
「もうやめよう。シュウちゃん、ぜんぶあてちゃうんだもの。なんか他かの事をしようよ?」
 とうとう孝志がギブアップした。
 秀平が一緒に家に来たとき、とうさんは一週間分の洗濯にせいをだしていた。
「こんにちは」
 秀平があいさつをすると、
「よく来たねえ」
と、孝志の友だちが来たことをすごく喜んでくれていた。
 でも、どういうわけか、すぐにどこかへ車で出かけてしまっていた。

 トントン。
 部屋のドアが軽くノックされた。
 孝志がドアを開けると、いつの間に戻ったのか、とうさんが大きなおぼんを持って立っていた。おぼんには紅茶ポット、カップとお皿が二枚ずつ、それに大きな白い箱がのっている。
 とうさんは、おぼんを勉強机の上に置くと、箱を開いた。中には、おいしそうなケーキが六、七種類入っていた。ショートケーキ、モンブラン、フルーツタルト、シュークリーム、……。
 でも、どういうわけか、すべて二個ずつあった。
「秀平くんが、何が好きかわからなかったから」
 とうさんは、少し恥ずかしそうにわらうと、二人のカップに紅茶をついだ。
「好きなだけ、食べてな」
 とうさんはそういうと、さっさと部屋を出て行った。
 二人は思わず顔を見合わせると、次の瞬間、プッと同時に吹きだしてしまった。とても、二人で食べきれるような量ではない。
 けっきょく、孝志がチョコレートケーキを、秀平がショートケーキをひとつ食べただけだった。箱には、まだごっそり残っている。
「そうだ。 おじさんにも一緒に食べてもらわないか?」
 ケーキの箱を見ていた秀平がいった。
「えっ?」
 少しびっくりしたけれど、秀平にうながされて孝志はとうさんを呼びにいった。

 孝志と秀平は、かわるがわるに今日のバードウォッチングの様子をとうさんに話した。
 甘いものが苦手のとうさんは、シュークリームをひとつ食べるのがせいいっぱいのようだった。だから、二人は話しながら、無理して二個目のケーキに手をのばした。
 話が、湖の所まで来た時、
「あーあ、三脚付きの望遠鏡があればなあ」
と、秀平がまたため息をついた。
「そうだね。そうすれば、湖の鳥だけでなく、空の高いところを飛んでいる鳥を観察するときにも便利だろうね」
 孝志もうなずきながら、そう答えた。
 と、そのとき
「よーし、おじさんが望遠鏡を買ってやろう!」
 いきなり、とうさんが興奮気味に叫んだ。
 孝志は、こまったような顔をして、秀平を見た。
 すると、秀平は、
「おじさん、そんなになんでもかんでも買ってやったりしたら、タカちゃんをだめな子にしちゃいますよ」
と、まるで先生か何かのような口調でいった。
「……」
 とうさんは、しばらくキョトンとしていた。
 でも、やがて少し恥ずかしそうに笑った。それにつられるように秀平も、そして、孝志までが大きな声で笑い出した。

  
                    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原正彦「国家の品格」

2020-04-16 17:13:47 | 参考文献
 市場経済至上主義を批判して、日本人は論理よりも情緒を優先した生き方や国造りをすべきであると主張して、2005年から2006年にかけてベストセラーになった本です。
 数学者らしく、「論理]を否定する文章を非常に論理的に書いていて、読者にわかりやすいことがヒットの原因でしょう。
 それから、随所に日本人の選民意識をくすぐる内容があり、それも好感度を上げているのかもしれません。
 かなり断定的な書き方で潔いのですが、納得できる部分と納得できない部分がまだらになっている感じです。
 納得できる点は、市場経済の限界(ある意味、2008年のリーマンショックを予見しています)、小学校で英語教育する馬鹿らしさ(最近はそれにプログラミング教育が加わっています)、田園風景を守ることの大切さなどです。
 納得できない点は、日本人の特殊性を武士道や神道や天皇制に基づかせている(作者も好きなイギリスと同じような比較的大きな島国で、諸外国からの侵略が難しかったことには意図的なのかどうか少しも触れていない)、階級制度を間接的に容認している(日本の江戸時代の士農工商やインドのカースト制度)、グローバリゼーションに対する具体的な対抗策がない(「武士は食わねど高楊枝」では、作者のようなエリートは生きていけるかもしれませんが、庶民は外国の餌食(消費者及び単純労働の担い手)にされるだけです)などです。
 結果として、その後の日本は、作者の望む方向には進んでいません。
 むしろ、リーマン・ショック後は、国内の経済格差や作者が憂えている実学中心の教育制度が進んでいます。
 そういった意味では、今読んでみると、そうした時代の趨勢にあらがった「蟷螂の斧」のような潔さは感じられます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイン

2020-04-16 11:34:10 | 作品
「へーっ。明日の公式戦の先発メンバーに選ばれたのかあ。そりゃあ、すげえや。いったい守備位置はどこをやるんだい?」
 パパは、ビールをごくりと飲み干しながら弘に聞き返した。
「セカンドだよ」
 弘は、ハンバーグをほおばりながら答えた
「そうか。じゃあ、巨人の野島だな。あいつみたいに、守備がいいのかい? いや、弘は右打ちだから、むしろ阪神の山田タイプかな」
 パパは、ビールのコップをテーブルに置くと、お箸でバットを振る真似をした。
「そんなすごくないよ。打順は八番なんだし」
 弘はあわてていった。そんなに期待されても困ってしまう。
「まあ、最初はそんなもんさ。じゃあ、内山弘くんのレギュラー入りを祝して乾杯といくか。五年でレギュラーなら立派なもんだ」
 パパは、弘の茶碗にビールの入ったコップをガチャリとぶつけて、一人で乾杯した。おとうさんは、すっかり上機嫌だった。
「そんなでもないよ」
 あんまりパパが喜んでいるので、弘は困ってしまった。
 実をいうと、今回の先発出場は、本当は正式なレギュラー入りではなかった。二塁手のレギュラーをやっている六年生の斉藤さんの都合が悪くて、明日の試合に出られなくなったのだ。それで、補欠の弘が、先発出場することになっただけだった。
「明日、弘の試合を見に行くかな」
 パパは、小さな声でそっといった。
「本当?」
 今までパパは、試合はもちろん、近所の公園でやる練習すら見にきたことがない。
 平日は、いつも仕事からの帰りが遅かった。そのせいか、休日もお昼近くまで寝ていることが多い。他の子のパパたちは、チームのコーチをやったり、熱心に応援したりしているけれど、弘のパパは一度も参加したことがなかった。
「ああ。弘選手の勇姿を、ビデオにおさめなくっちゃな」
 パパは、コップにビールをつぎながらいった。
「やったあ。よーし、絶対ヒットを打つぞ」
 弘は大喜びでいった。
「ヒット? だめだめ、ホームランぐらい打つ気でなくっちゃ」
 パパの顔は、もうかなり赤くなっていた。

 翌朝、パパは、いつものように朝寝坊をしていた。
「おはよう」
 弘は、パパの寝室まで起こしにいった。
「パパ、もう七時半をすぎたよ」
 弘は、まくらもとで声をかけた。
「うーん」
 パパは、布団にもぐりこんでうめいた。
「遅れちゃうよ」
 弘は、パパの布団をはがしながらいった。
「わかった。もうちょっと」
 パパは、まだ寝ぼけ声だ。
 その日の試合は、地区の春期トーナメントだった。約三十チームが参加し、今日はその一回戦と二回戦が行われる。
 選手たちは朝早くに集合して、本田監督の運転するマイクロバスで会場まで移動しなければならない。
 弘は、ギリギリまでパパが起きてくるのを待っていた。
 とうとう集合時間の十分前になってしまった。
 でも、パパはまだ布団の中だった。
「きっと起こしてよ」
「はいはい。間に合うように行かせるから、だいじょうぶよ」
 ママは、弘にお弁当を渡しながら約束してくれた。

 公園には、本田監督、コーチたち、そして、他のチームメイト全員がすでに来ていた。みんな、バットやボール、キャッチャーの用具など、会場に持っていく物を準備している。
(あれ?)
 弘は、その中に斉藤さんの姿を見つけてびっくりしてしまった。
「あっ、内山。ちょっと、ちょっと」
 監督は、弘の肩を抱えるようにして端の方へ連れていった。
「あのな、斉藤が急に出られるようになってなあ。悪いけど、控えにまわってくれないかな」
 監督は、大きな体をかがめてすまなさそうにいった。
 こういわれては、弘は黙ってこっくりとうなずくしかない。
でも、パパが、弘が先発出場するところを、ビデオに撮りに来てしまう。
よっぽど、
「今日は来なくていい」
と、家へいいに戻ろうかとも思った。
 でも、もう出発の時間が迫っていた。
「集合」
 キャプテンの沢木さんが、みんなを呼び集めている。学年別に整列するのだ。
弘も、急いで五年生の列のところに並んだ。

 会場である広いグラウンドのあちこちでは、すでに各チームが、思い思いにウォーミングアップをやっていた。この会場には、少年野球のグラウンドを三面も取ることができる。
 弘たちのチームも、空いている場所を見つけて、体をほぐし始めた。
準備体操、ランニング、そしてキャッチボール。
 弘にキャッチボールの大切さを教えてくれたのはパパだ。
「一球、一球を、大事にしなくてはいけない。キャッチボールは、野球の練習で一番大事なんだ。正しいフォームで投げる。ボールをよく見る。両手でしっかり取る。相手と呼吸を合わせる。すべての野球の要素が、この中に入っているから」
 もっともこの言葉は、パパが入っていた中学の野球部の監督の受け売りだと言っていたけれど。それでも、弘が一年生のころまでは、週末によくパパとキャッチボールをしたものだった。
 でも、弘が二年生になって少年野球チームのヤングリーブスに入ってからは、だんだんやらなくなってしまっていた。毎週土日には、弘はチームの練習があるし、パパは昼近くまで寝ているからだ
 しかし、今でも、弘はパパに教えられたことを守って、真剣にキャッチボールをやっていた。特に、相手の一番取りやすい所に投げることに注意している。そうすると不思議なもので、相手も弘の取りやすいボールを返してくれる。
 本田監督やコーチたちは、いつも弘のキャッチボールをほめてくれていた。時には、他のメンバーのキャッチボールをストップさせて、弘たちのキャッチボールを、模範として見学させることもある。それで、弘は、ますますキャッチボールが好きになっていたのかもしれない。

 開会式が終わっても、パパはいっこうに姿を見せなかった。
 試合に備えて弘たちがベンチへ行くと、そのうしろには、チームメイトの家族たちがすでに十数人も陣取っていた。
 しかし、その中にもパパはいなかった。
弘は、ようやく少しホッとし始めていた。パパはいつものように寝坊していて、来られなくなったのかもしれない。
いや、
(ぜひ、そうであって欲しい)
とさえ思っていた。
 試合が始まると、もうふだんの弘に戻っていた。味方のひとつひとつのプレーに、けんめいに声援を送っている。
「ナイスキャー(ナイスキャッチ)。ツーアウト、ツーアウト」
「ナイス選(ボールを見極めること)。ほらほら、ピッチ(ピッチャー)、入らないよ」
 ベンチにすわっている補欠たちの中でも、弘が一番声を出していた。
 一回の裏のヤングリーブスの攻撃は、ノーアウト一、二塁の絶好のチャンスを逃して零点に終わった。
 ふと気がつくと、いつからそこに来ていたのか、ヤングリーブスの応援団の一番端にパパが立っていた。約束どおり、手にはビデオカメラを持っている。弘が見ているのに気がつくと、大きく手を振って笑いかけてきた。
 弘たちのチームが、守備位置に向かった。セカンドを守るのは、もちろん斉藤さんだ。弘はパパの方を見られずに、下を向いていた。
 試合は、終始、相手チームにリードされて進んでいた。いぜんとして、弘はずっとベンチのままだった。
弘の応援には、一回の時のような元気がなくなっていた。

 一点をリードされた最終回。ヤングリーブスは、ワンアウトから一塁にランナーが出た。
 しかし、次の九番バッターの池田くんは、今日は三振二つでノーヒットだ。
「選手交替」
 本田監督が、審判に近寄って大声で叫んだ。
 そしてクルリとベンチを振り返ると、弘の顔を見てうなずきながらいった。
「バッターは、内山」
 弘はあわててヘルメットをかぶると、ベンチを飛び出していった。
 監督は、すれ違いざま弘に小声でいった。
「サインをよく見ていろよ」
(そうか、バントだ。バントのサインが出るんだ)
 監督は、確実にランナーを二塁に送るつもりなのだ。トップバッターの佐野さんで、同点をねらっているのに違いない。
 何かひとつでも監督に認めてもらいたくて、弘は人の何倍もバントの練習をやっていた。だから、送りバントだけには、絶対の自信がある。それで、監督は代打に弘を指名したのだろう。
 バッターボックスに入る前に、弘はパパの方をちらっと見た。パパは、ビデオカメラを弘の方へ向けて、撮影を始めている。
 弘は、ベンチの前に立っている監督をじっと見ていた。
一球目は、「待て」のサインだった。初球は、さすがに敵チームもバントを警戒しているからだ。
案の定、投球と同時に、三塁手とピッチャーがダッシュしてきた。
 ストライク。
 続く二球ははずれて、ワンストライク、ツーボールになった。
 ここがチャンスだ。相手は、バントとヒッティングのどちらにでも対応しようと、中間守備に切り換えている。
 予想通り、監督から「バント」のサインが出た。
 ピッチャーが振りかぶる。弘は、バントをしようとしてピクッとバットを動かした。
 すると、それを見た三塁手が猛然とダッシュしてきた。
 ボールが来た。真ん中の直球。
 次の瞬間、弘は、バントをしないで思い切りバットを振ってしまっていた。打球は、突っ込んできた三塁手の頭を超えて、レフト前に達するはずだった。
 しかし、スピードに押されて完全につまったボールは、平凡なピッチャー正面のゴロになっていた。
 ピッチャーはボールを取ると、すばやく振り返って二塁へ投げた。
「アウト」
 ショートが一塁へ転送する。弘は必死に一塁へと走った。
 ファーストがボールへ手を差し出す。
 弘が一塁へかけこむ。
「アウトーッ」
 審判は、少しもためらわずに叫んだ。ダブルプレーでゲームセット。
 弘は、ぼうぜんと一塁ベースの後ろに立ちつくしていた。

帰りのマイクロバスの中でも、公園に戻ってからも、監督やチームメイトたちは、弘のサイン無視を責めなかった。
 でも、かえってそのことが、弘をよけいにつらい気持ちにさせていた。
 午後に予定されていた二回戦に進めなくなったので、ヤングリーブスはいつもの公園で軽い練習をすることになった。
 キャッチボールが始まった。弘は、なんとか気持ちをふるいたたせて、いつも以上に一球一球ていねいに、相手の斉藤さんの胸をめがけて投げていた。
 初めはねらいから少しずつずれていたボールが、十球目ごろから安定してきた。斉藤さんも、弘に負けまいと良い球を投げてくれている。
 シュッ、…、バン。
 シュッ、…、バン。
 軽快なリズムにのってキャッチボールを繰り返しているうちに、弘はいつの間にか気持ちが少し軽くなっているのに気がついた。
 弘の後ろにきた本田監督は、しばらくキャッチボールをながめていたが、やがて何もいわずに他の選手たちのところへ移っていった。
 練習が終わった。
「集合!」
 キャプテンの沢木さんが、みんなをよび集めた。校庭に散らばっていたメンバーが、ホームベースの近くに集まってくる。
「整列!」
 沢木さんの合図で、学年順に横一列に整列する。解散する前にいつも行うミーティングだ。
「監督、お話をお願いします」
 沢木さんは、みんながきちんと並んだのを確認してから、監督に声をかけた。
「じゃあ、みんな休めでいいから、……」
 いつもどおりのおだやかな口調で、今日の試合について話を始めた。走塁や守備のミスについて、身振りを入れながらていねいに説明する。コーチたちも、自分の気づいた点を指摘してくれた。
 しかし、ここでも最後の弘のプレーが責められるようなことはなかった。
 ただ、「サインの見落としをしないように」と、みんなへの注意があっただけだった。
「でも、今日の試合は、みんなきびきびしていて元気があって良かった。特にベンチの人たちは、声がよく出ていたな」
 監督は、最後にそういって話をしめくくった。

 解散した後、みんなで自治会館の物置に、チームのヘルメットやボールをしまいにいった。
「さよなら」
「バイバーイ」
 みんなに手を振って、弘は家に帰った。
「ただいま」
 玄関のドアを開けたとき、弘はがんばって元気な声を出した。
「ヒロちゃん、残念だったわね」
 迎えに出たママがいった。
「うん」
 弘はバットを傘立てに入れて、グローブは下駄箱の上に置いた。
 ママは、いつものように玄関から風呂場まで、どろよけの新聞を敷いている。弘は、つま先立ちで歩きながら、風呂場に向かった。
 汚れたユニフォームを脱いで、洗濯機に放り込む。そして、風呂場に入った。
 ザアーッ。
 泥だらけの手足を洗い、汗まみれの髮の毛にもシャワーの水を浴びせた。

 弘はタオルで頭をふきながら、さっぱりした顔で食堂に入っていった。
 パパは、専用のリクライニングチェアにすわって、ビールを飲んでいた。開け放した窓からは、庭のライラックとこでまりの花がよく見える。
 パパは、枝豆を立て続けに口に放り込んでいる。そして、またうまそうにビールを飲んだ。
 弘もそばのいすにすわった。
「ジュースでも飲む?」
 ユニフォームを洗濯機にかけてきたママが、弘にいった。
「うん」
 弘がうなずくと、1リットル入りのジュースのボトルと、コップを持ってきてくれた。弘は、コップになみなみとジュースをついだ。
「ほれっ」
 パパが、ひとつかみの枝豆を弘によこした。
 弘は、それをぼそぼそと食べ始めた。
「今日は残念だったな」
 パパは、ビールのコップを持ったままいった。
「うん」
 弘はそういうと、ジュースを一気に飲み干した。かわいたのどには、すごくおいしく感じられた。
「斉藤くん、来られるようになったのか?」
「えっ!」
 弘はびっくりして、パパの顔を見た。
「ぼくがレギュラーじゃないって、知ってたの?」
「ああ。これでも時々、練習を見に行ってるんだぜ」
 パパは、ちょっと照れくさそうにいった。
「ほんとう? ちっとも知らなかった」
 他の子のパパたちと違って、遠くから見ていたのかもしれない。
「そうだったのかあ」
 弘は、急に気が楽になった。

 しばらくして、弘はパパに今日のサイン無視のことを話した。
「監督さんは何かいってた?」
 パパが、ちょっと心配そうにたずねた。
「ううん」
「なんにもか」
「うん。ただ、みんなに『サインの見落としをしないように』って注意をしてたけど。監督は、ぼくが無視したとは思わなかったのかなあ?」
「いいや、そうじゃないよ。監督さんは、知ってたと思うな。ただ、……」
 パパは何かいいかけたのを途中でやめると、ポツリといった。
「いい監督さんだな」
 弘も黙ってうなずいた。
「弘ぐらいの年のころだったかなあ。おとうさんも、学校から帰ると、毎日、毎日、野球をやっていたころがあったなあ」
 パパは、コップをテーブルの上に置いて、また話し出した。パパが自分のことをおとうさんというときは、いつも思い出話になる。
「夏休みだったかなあ。朝から夜暗くなるまで、延々とやり続けたんだよ。今みたいにきちんとしたユニフォームなんかなかったし、グローブを使うのだってたまにだった。いつもはゴムまりに素手でやったんだ」
「ふーん。少年野球はなかったの?」
 二杯目のジュースを飲み終わった弘がたずねた。
「軟式の少年野球のチームは、近所にはなかった。でも、硬式のリトルリーグのチームはあったな。たしか千住ジャイアンツっていったかな。でも、リトルはけっこうお金がかかるから、おとうさんと同じクラスじゃ、佐久間くんって子だけが入ってた。ヒョロッと背が高くて、デンチューってあだ名だったな。けっこう速い球ほうってたよ」
「ニューリーブスの上田さんぐらい?」
「上田って、今日投げてた子か?」
「うん」
「そうだな、もう少し速かったかもしれないな」
「すごいね」
 弘が感心していった。
「うん、そうなんだ。それでね、六年の時には、エースじゃなかったけど、ジャイアンツの二、三番手ぐらいのピッチャーになっていたんだ」
「ふーん」
「佐久間くんのおやじさんは大きな酒屋さんをやってたから、けっこうお金があったのかもしれない。だから、チームに息子を入れられたんだろうな。それに、すごくリトルリーグにも熱心な人だった。息子の試合の時なんか、いつも店をほったらかしにして応援にいってたらしい。ある時、佐久間くんが先発することになったんだ。そしたら、佐久間くんのおやじさん、はりきっちゃってさ。店で使ってたトラックの荷台に近所の子どもたちを乗っけて、応援に連れ出したんだ。それで、試合が始まると、みんなすごい応援さ。なにしろ、佐久間くんの名前を書いた横断幕まで持っていってるんだから」
「すげえ、その子やりにくかっただろうね?」
 弘は、佐久間くんに同情していった。
「そうだな。今考えてみると、佐久間くんはかわいそうだったな。でも、そのときは、おとうさんも一緒になって応援しちゃったけどね」
「結果はどうだったの?」
「それがさんざん。佐久間くん、すっかりあがっちゃってフォアボールの連発。一回ももたずにノックアウトになっちゃったんだ」
「かわいそうに」
 弘は、今日の自分のみじめな気持ちを思い出していた。
「うん。それから、もっとかわいそうなことになったんだ」
 パパはそこで話すのを中断すると、残っていたビールをコップについだ。
「その日の帰り際だったんだ。佐久間くんがグラウンドから出てくるとね、おやじさんが、いきなり佐久間くんにいきなりどなったんだ。『ばかやろう。おまえのおかげで、おれがいい恥かいた』ってね」
「えーっ。そんなのひどいよ」
 弘は憤慨していった。
「うん。一番みじめな思いをしているのは佐久間くん自身なのに、おやじさんには自分の気持ちしか見えてなかったんだろうな」
 そういうと、パパはのどぼとけをグッグッと動かしながら、ビールを飲み干した。
 最後に、パパは、次の日曜日の朝七時から弘とキャッチボールをすることを、約束してくれた。

 それから一週間がたった。待ちに待った次の日曜日だ。
 時計は、朝の七時をとっくにまわっている。弘は、もうユニフォーム姿に着替えている。
 でも、パパは、いつものようにまだ寝ていた。
(約束したのに)
 弘は、とうとうがまんできずにパパの寝室へ行った。
 ガラガラッ。
 雨戸を大きく開けた。強い日差しが、さあっと部屋の中を明るくする。
 パパは、まぶしそうに顔をしかめると、
「うーん」
と大声でうめいて、布団を頭からかぶった。
「パパ、キャッチボールをする約束だよ」
 弘は布団をめくって、パパのまくらもとでどなった。
「うーん、もうちょっと。もうちょっとだけ、寝かせてくれ」
 パパは、なんとか布団にもぐろうとする。
「だめだよ。早く起きて」
 弘は、パパの布団を思いっきりひっぱがした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川未明「月夜とめがね」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2020-04-15 16:13:40 | 作品論
 1922年(大正11年)に書かれた作品です。
 すでに他の記事で述べた「港についた黒んぼ」や「野ばら」には、まだ社会への批判やヒューマニズムなどの要素があり、わずかながらストーリーらしきものがありましたが、この作品ではそれらもまったくありません。
 ここのあるのは、深夜、おばあさんの針仕事、流れ者のめがね売り、めがねを通して見える普段と違う世界、胡蝶の化身、香水の香り、深夜の花園といった、作者の詩心を刺激する物たちの淡いイメージの集まりでしかありません。
 それは、現代児童文学(定義などは関連する記事を参照してください)が目指したものとは真逆な種類の文芸の極北に位置するものでしょう。
 未明自身が、彼の童話を「わが特異な詩形」と呼んだことを考えれば、それは当然のことだったでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイビングキャッチ

2020-04-14 16:41:00 | 作品
 カーン。
 いきおいのよいゴロが、一塁ベースよりにきた。芳樹は、ダッシュしながらボールをキャッチしようとした。
(あっ!)
グローブを出すのが一瞬遅れて、ボールを大きくうしろにはじいてしまった。芳樹は、あわててボールの後を追いかけた。
「よっちゃん、あんまり突っ込んでくるな。あわてなくても、守備位置はセカンドなんだから、待ってても一塁は充分間に合うよ」
 ゴロをノックしてくれたおとうさんが、向こうで叫んでいる。
 今まで芳樹はサードを守っていたので、どうしても前にダッシュしてボールをキャッチしようとする癖が抜けきらない。一塁ベースから遠い三塁の守備位置からでは、そうしないと送球が間に合わなかった。
 芳樹は、勢いがゆるくなるようにワンバウンドさせて返球した。おとうさんはバットを右手に持ったまま、ボールを素手の左手でワンハンドキャッチした。
「もう一回、お願いしまーす」
 芳樹は、右手をあげてさけんだ。
 おとうさんが体を左に傾けながら、また速いゴロをノックしてくれた。
 今度は、正面にボールが来た。芳樹はボールが来るのを待ってから、慎重にキャッチした。そして、すばやく一塁に送球。
 ところが、今度は送球が左に大きくそれてしまった。
「うわーっ」
ファーストを守る兄の正樹のグラブをかすめて、ボールは公園の外に飛び出していく。
「あわてて投げすぎだよ。こんな近くでそんなに急いで投げるなよ」
 正樹はブツブツ文句をいいながら、道路におりてボールをひろいにいっている。
「よっちゃーん、リラックス、リラックス。キャッチしてから、少し待って投げるくらいでいいから」
 向こうで、おとうさんが手を上げている。
 芳樹は、緊張をほぐすために、右手をグルグルと大きくまわした。
「おーい、いくぞお」
 正樹が、道路の方から声をかけてきた。
 やまなりのボールが、こちらにむかって飛んできた。芳樹はそのボールをキャッチすると、すぐにおとうさんにワンバウンドで返球した。
「今度はしっかり投げろよ」
 正樹が、道路からかけあがってきた。
「うん、わかった」
 芳樹はグローブをポンポンとたたきながら、守備のかまえにはいった。
「いくぞお」
 おとうさんが、今度は一塁寄りに速いゴロを打ってきた。芳樹は、左にすばやく移動してキャッチ。
「にいちゃん」
 声をかけながら、ファーストにトスした。
「OK]
 今度は、正樹がしっかりと取ってくれた。

 今日から毎日、おとうさんが会社へ行く前に、近くの公園の広場で朝練をしてくれることになった。
 ウォーミングアップには、少しだけキャッチボールをする。その後で、おとうさんがゴロだけをノックしてくれた。だから、守備位置がセカンドに変わったばかりの芳樹にとっては、かっこうの練習になっている。 
 中一の兄の正樹も、気が向けば練習に付き合ってくれるといってくれた。正樹は左利きだったから、ファースト役にはもってこいだった。きちょうめんな性格の正樹は、地面に靴のつま先で、きちんとファーストベースを描いた。セカンドを守る芳樹との間も、実際のグランドと同じ距離に保っている。
「おーい、みんなあ。時間よお」
 公園の外から、おかあさんが声をかけてくれた。
「よし、今日はここまでにしよう」
 おとうさんは、バットを肩にかついで先に歩き出した。
「ほれ」
 追いついてきた正樹が、山なりのボールを芳樹にトスした。芳樹たちは、軽くボールを投げ合いながら家に戻り始めた。

五年生になったばかりの芳樹は、最初からチームの中心選手だった。去年の秋に新チームを組んだときなどは、上級生たちをさしおいて、キャッチャーと二番手ピッチャーといった、要のポジションをまかされていたほどだ。
 去年の秋、新チームになってすぐの新人戦のころは、芳樹ははりきってプレーをしていた。
「しまっていこー!」
 毎回、守備位置についたとき、芳樹はキャッチャーマスクを頭の上にあげて大声で叫んだ。
「おーっ!」
 みんなが返事をしてくれると、自分がチームをひきいているみたいで、気持ちが良かった。
 しかし、その後、監督の方針で、新チームのキャプテン(六年生)に、チームをリードするキャッチャーの座をゆずることになってしまった。
 そのため、守備位置はファーストにまわることになった。
 ここでも、キャッチングに自信があった芳樹は、丈の長いファーストミットをうまくあやつって、無難にこなしていた。
 ところが、新学年になると、背が高いけれど不器用でサードを失格になった六年生のために、ファーストのポジションをゆずらなくてはならなくなった。ファーストは、高い球も取らなくてはならないので、背が高い子には向いているのだ。
 芳樹の守備位置は、今度はサードに変わった。
どうやら監督は、芳樹のことを、どこをやらせても器用にこなせる選手だと、思っていたみたいだった。
 そのため、チーム事情にあわせて、あちこちの守備位置をやらされるはめになってしまったのだ。
 芳樹は、キャッチングには自信があった。だから、本当は、キャッチャーかファーストをやりたかった。
 でも、そんな本人の希望は、六年生たちを一人前にするのにかかりきりの監督には、完全に無視されてしまった。
 そのためか、五年生になってから、芳樹は急激にやる気がなくなった。自主練をさぼるようになり、正式練習でも気合が入らなくっていた。
 でも、六年生たちで手一杯な監督やコーチたちは、そんな芳樹の様子に気づいていないようだった。
 練習の成果というのは、正直なものだ。監督の特訓でしだいに力をつけてきた六年生たちに、芳樹は実力でも追い抜かれ始めていた。
 そして、けっきょく二番手ピッチャーも、サードも、監督に失格の烙印を押されてしまったのだ。
 そして、郡大会を目前にして、今度はセカンドにまわされることになった。
 ところが、芳樹は、いつのまにか別人みたいに不器用になってしまっていた。そのため、セカンドの守備になかなか慣れることができなかった。
 今まで順調すぎるほどだった芳樹の野球人生において、初めて訪れた試練だったかもしれない。すっかり調子を落としてしまった芳樹を見かねて、おとうさんが朝錬をやってくれるようになったのだ。

次の土曜日、芳樹の入っている少年野球チーム、ヤングリーブスの練習の時だった。
監督が、シートノック(レギュラーが定位置に着いてやる守備練習)をしていた。
カーン。
速いゴロが、セカンドベース寄りに飛んだ。
芳樹はすばやく横に移動すると、逆シングルでボールをキャッチした。
体を反転させて、一塁へ送球。
「ナイスキャッチ。やっぱり、キャッチングは芳樹が一番だな」
監督が、大声で芳樹をほめた。
セカンドとしての体の動かし方が、ようやく身に付いてきた。さっそく、朝錬の成果が出たようだ。
「次、ショート」
 監督は、次の球をノックした。
 章吾が、三遊間寄りのゴロを素早くさばいて、ファーストに送球した。
「章吾、ナイス。次は、6、4、3な」
 監督が章吾にセカンドベース寄りのボールをノックした。
 章吾ががっちりキャッチすると、セカンドベースに入った芳樹にトス。
 芳樹はベースを踏みながら、ファーストへボールを投げた。
「よし、ダブルプレー成功」
 監督が機嫌よさそうに叫んだ。
 郡大会に向けて、チームの練習には熱が入っている。
「バッチ(バッターのこと)、こーい」
「バッチ、こーい」
 守備についていても、みんなから良く声が出ている。
 セカンドの芳樹が安定してきたので、ようやくレギュラーの守備位置が固まってきた。
外野の守備にはやや不安が残っていたが、内野はなかなか堅い守備を誇っていた。
サードは四年生の康平。肩も強いし、ボールをぜんぜん怖がらないので、強い打球にも逃げずに食らいついていた。
ショートは、同じく四年生の章吾。レギュラーでは一番の小柄だったが、一年生の時からチームに入っていた野球を良く知っている選手だった。
ファーストは、六年生の広斗。キャッチングには少し難があったが、長身なので高い球に強くファーストにはぴったりだった。
ピッチャーは、六年生の智美。監督ご自慢の郡でただ一人の女子エースだ。ピッチングだけでなくフィールディングもうまかった。
キャッチャーは、六年生でキャプテンの直輝。小柄で肩がやや弱かったが、ファイト満々でチームを引っ張っていた。
そして、セカンドを守るのが、ようやくこのポジションに慣れてきた五年生の芳樹だった。

 少年野球の郡大会が始まった。郡内の四町から十八チームが参加している。
 この大会で準々決勝に勝ってベストフォーに残れば、自動的に県大会に出場できた。
県大会は、いろいろなスポンサーが主催している四つの大会がある。だから、郡大会でベストフォーに残れば、県大会に出場できた。
 この一年間、ヤングリーブスは県大会出場を目指して、猛練習を続けてきた。いよいよその大会が始まるのだ。
 キャプテン会議での抽選の結果、ヤングリーブスは一回戦が不戦勝になり、二回戦からの出場になった。チームのくじ運はまあまあかもしれない。二回戦と準々決勝の二試合を勝てば県大会に出場できた。

 二回戦の対戦相手は、相模湖イーグルスだった。去年の練習試合では、10対1で楽勝している。もっとも、その時は、芳樹の兄の正樹たちが六年生だった時の、去年のチーム同士だったのでぜんぜん参考にならない。去年のヤングリーブスはレギュラーが全員六年生だったので、今年のチームの選手は誰も出場していなかった。
 一回の表、先攻のヤングリーブスは、相手ピッチャーの制球難と守備陣の乱れをついて、早々と四点を先行した。今日は六番に入っている芳樹も、相手のエラーで出塁し、二盗、三盗を決めて、足で相手チームをかき回している。
 その裏、ヤングリーブスの守りが始まった。
ピッチャーの智美が振りかぶった。
「ストライークッ!」
第一球は、低めに速球が決まった。上々の立ち上がりだ。
 ガッ。
 いきなりセカンドゴロがきた。
 芳樹は、じっくりボールを待ってしっかりキャッチした。ファーストの広斗へ送球する。
「アウト」
 一塁の審判が叫んだ。
 芳樹は、最初の打球を無事に処理して、ホッとしていた。
 その後も、試合はヤングリーブスペースで進んだ。着々と得点を重ねてリードを広げている。
 ピッチャーの智美も、打たせて取るピッチングがさえている。バックの守備陣もがっちり守って相手の得点を最小に抑えている。
 けっきょく、ヤングリーブスが9対3で快勝した。これで、来週の準々決勝に勝てば、県大会出場が決まる。
 セカンドの芳樹も、ゴロ三つフライ一つをノーエラーでさばいて、無事に責任を果たした。ショートの章吾とのコンビで、ダブルプレーもひとつ決めている。

 イーグルスとの試合が終わるとすぐに、ホームグラウンドの校庭に戻った。来週の準々決勝に備えて、さっそく練習をするためだ。
こんな時、大会が地元若葉町の横山グラウンドで行われているので、すぐに練習に戻れて有利だ。監督にいわせると、これもホームタウンアドバンテージ(地元のチームが有利)のひとつだということになる。それ以外にも、近いので応援団が多いなどいろいろな利点があった。
 来週の土曜日の準々決勝の対戦相手は、同じ町の城山ジャガーズだった。チームのレギュラーは六年生ばかりで強打で有名だ。
先月行われた町の春季大会では、外野のうしろにボカスカ打たれて、13対0で四回コールド負けをきっしている。その大会の優勝もジャガーズだった。
 練習の前のミーティングの時に、監督がいった。
「ジャガーズ戦だけ、芳樹を外野にコンバート(守備位置変更)しようと思う。今日から、その守備位置で練習をやろう」
 芳樹の外野へのコンバージョンは、強打のジャガーズ対策の秘密兵器だった。ジャガーズ戦では、外野への飛球が圧倒的に多い。芳樹は足も速いし、キャッチングもうまい。その芳樹を外野にコンバージョンして、ジャガーズの強打線の打球に備えようというのだ。
 センターにはすでにチーム一の俊足で、六年生の徹がいた。徹は守備範囲も広いし、肩も強かった。だから、芳樹が守るとしたらレフトかライトだ。
 そこに、もうひとつの秘策ともいうべき監督のアイデアがあった。
 さっそく、芳樹を外野に入れた守備位置での秘密練習が始まった。
 
「また、守備位置が変わったんだ」
その日の夕食の時に、芳樹がいうと、
「えっ、今度はどこ?」
 おとうさんは、びっくりしたような声を出していた。
「外野」
「えっ、そうなの。やっとセカンドに慣れてきたのに」
 おとうさんの声が心配そうになる。
「うん。でも、セカンドがだめだってわけじゃないんだ。次の試合だけの戦術的なコンバートなんだって」
「戦術的コンバート?」
「うん、監督がそういってた。ぼくの足の速さとキャッチングのうまさをいかしたいんだって」
「で、外野のどこを守るんだ?」
「レフトとライト」
「えっ、どういう意味?」
「右バッターの時はレフトで、左バッターの時はライトなんだって」
 これが対ジャガーズ戦用の監督の秘策だった。ジャガーズの打線は強打者揃いなので、ヤングリーブスのピッチャーの智美の球速では必ず引っ張られて、右バッターはレフト方向へ、左バッターはライト方向へ大きな打球が飛ぶのだ。
「ええーっ!」
 この秘策というよりは奇策に、さすがにおとうさんも驚いていた。

「じゃあ、今日からは、朝錬もフライキャッチの練習にするからね」
 芳樹とおとうさんは、公園の広場の対角に位置した。そのちょうど中間に、正樹が今日はセカンドベースを描いた。セカンドとショートの役をやってくれるのだ。芳樹がライトの時はショートが、レフトの時はセカンドが内野への返球をキャッチするからだ。
「ライト」
 おとうさんの声とともに、芳樹は左側に動いてライトの守備位置についた。同時に、正樹は右に動いてショートの位置についた。
 カーン。
 浅いフライが上がった。芳樹は一、二歩前進すると、なんなくキャッチ。
「バックセカン」
 正樹が声をかけると、芳樹はすばやくセカンドに返球した。
 カーン。
 今度はやや大きめなフライがセンターよりに飛んだ。芳樹は素早く落下地点を見定めると、やや下がりながらランニングキャッチした。
「バック」
 芳樹は、今度もいい球を正樹に返した。
「よっちゃん、フライは大丈夫なようだね」
 おとうさんが満足そうに声をかけた。もともとキャッチングに自信のある芳樹は、監督がにらんだ通り外野ならなんなくこなせそうだ。
「じゃあ、今度はレフト」
 おとうさんにいわれて、芳樹は守備位置を右側に変更した。正樹も、今度は左側のセカンドの位置に移動している。
 カーン。
 おとうさんがフライをノックして、練習が再開された。

 翌週の土曜日、城山ジャガーズとの準々決勝が行われた。ここで勝てばベストフォー進出で、県大会出場が決まる。まさに、今シーズン一番の大勝負だった。
 一回の表、ヤングリーブスが守りについた。城山ジャガーズの一番バッターは、左バッターだったので、芳樹はライトを守っている。
 ピッチャーの智美が第一球を投げた。
「ストライク」
 審判が叫ぶ。外角低めに速球が決まった。智美は好調を維持しているようだ。
 二球目。ボールがやや高めに浮いた。
 カーン。
 思い切りよく引っ張った打球が、ライトを襲う。
 しかし、あらかじめ深めに守っていた芳樹が、背走してランニングキャッチした。
「いいぞ、よっちゃん」
 応援席から、おとうさんの声が聞こえてきた。
「ワンアウトよお」
 芳樹は人差し指を一本立てて、チームメイトに叫んだ。
「おーっ」
 みんなもそれにこたえた。
 次の打者は、右バッターだった。
 監督はベンチから出ると、
「守備交代をお願いします。ライトがレフト、レフトがライト」
 芳樹は、今度はレフトに向かって走り出した。観客席は、思いがけない守備交代にざわめいていた。

最終回(少年野球の場合は七回)の裏、3対2とヤングリーブスが1点リードしていた。芳樹をレフトとライトにコンバートした監督の奇策があたって、相手チームの打線を抑えている。芳樹は、フライをレフトで五つ、ライトで四つと、合計九つもキャッチして、しかもノーエラーだった。この数は、六回までのジャガーズの全アウト数の、ちょうど半分にあたっていた。
 しかし、この回、智美がコントロールを乱して、相手打線に捕まってしまった。
ワンアウト満塁。ヒットが出れば逆転サヨナラ負けのピンチだ。
次のバッターは、左バッターだった。
 すかさず監督がベンチから出てきた。
「守備位置、変更します。ライトがレフト、レフトがライト」
 主審に守備の交代を告げる。
今日の試合で、いったい何回目だろう。おそらく十回以上にもなる
芳樹は、レフトの守備位置から、小走りにライトに向かった。
ライトからは、四年生の慧(けい)がこちらに走ってくる。
「ハーイ」
ちょうど中間地点ですれ違った時、二人はグローブでハイタッチをした。
 相手バッターは四番の強打者だ。芳樹は大きな当たりに備えて、深めに守った。

カーーン。
智美が投げ込んだ初球を、相手のバッターが思い切り引っ張った。
鋭いライナーが、芳樹に代わってセカンドに入っている佳之の頭の上を越えてくる。このまま右中間を抜かれたら、逆転サヨナラだ。
芳樹は、けんめいに右中間へ走っていった。
打球は、地面すれすれにまで落ちてきていた。
芳樹は、全身を前に投げ出すようにしてダイビングした。
キャッチ!
芳樹がけんめいに差し出したグローブに、ボールがすっぽりと入っていた。
(やったあ!)
 芳樹は、グローブを差し上げてノーバウンドでキャッチしたことを、二塁の審判に示した。そして、すぐに跳ね起きて、二塁の方を見た。
 打球が外野の間を抜けると思った二塁ランナーは、大きく飛び出している。
「よっちゃん、バックセカンド」
 ショートの章吾がベースカバーに入ってくる。
 芳樹は、すばやく章吾に返球した。
「アウトッ」
 ダブルプレーで一気にチェンジになった。ヤングリーブスは、3対2でぎりぎり逃げ切った。これで、県大会出場が決定したのだ。
「ワーッ!」
 チームのみんなが歓声をあげながら、ホームベースへかけていく。芳樹も、泥だらけになったユニフォームのままけんめいに走っていった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする