ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

明治用水を誕生させた偉人達は神様になっていた。

2022-05-26 04:10:00 | 草花
先日、「明治用水頭首工」の記事をアップしましたが、その時に頭首工以外で関連する事物も巡って来ました。
明治用水の誕生までを人物中心にレポートしたいと思います。

明治用水は1880年に通水した、西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水であります。
幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水でありました。
発案者は、江戸時代に土地の豪農にして酒造りを営み、代官でもあった都築弥厚(つずきやこう) ↓

で、1808年に西三河の原野に導水と新田開発を計画したのが始まりで、土地の農民からは強い反対に遭い、測量すらままならない状態でしたが、
和算家(数学者)石川喜平 ↓

の協力を得て、1822年から測量に着手し、農民の反対にあって、夜間にひそかに測量したりしながら、5年後(1826年)に測量を終えることが出来ました。

そして、翌年(1827年)に「三河国碧海郡新開計画」として幕府へ出願しました。

この「三河国碧海郡新開計画」は6年も経ってから、1833年に幕府から一部許可されましたが、同じ年の9月に都築弥厚が2万5千両余の借財を残して69歳で亡くなり、この計画は頓挫してしまいました。

計画はこの後40年余り中座してしまいますが、

1873年頃からこの遺志を継ぐ人物が現れます。
それは同じく豪農の岡本兵松(おかもとひょうまつ) ↓


と大庄屋の伊豫田與八郎(いよだよはちろう)(1822-1895) ↓

でありました。当初は別々の計画を持っていたそうですが、やがて1874年に一本化していきます。
この二人は協調して、岡本は反対農民の説得に、伊豫田は明治政府との折衝と資金調達にと役割を分かち合って働いたそうです。

そして、1880年の通水にまで漕ぎつけたものです。


ここで凄いと思うことはみな家財を使い果たすまで徹底して立ち働いたということですね。
発案者の都築弥厚(1765-1833)は借財を残して亡くなり、
岡本兵松(1821-1897)は親類の財までも費やし、
伊豫田與八郎は破産して家族離散を招いたということでしたが。このお三方は現在
明治川神社(通水の同じ年に創建) ↓

の神様として祀られていますが、伊豫田與八郎は1889年にこの明治川神社の祠掌(神職)になっています。

こういう方たちの崇高な思いと、汗と涙の、そして土着の辛苦を思う時、昨今のお騒がせニュースの人々の薄汚なさや、いい加減さに脱力してしまいます。
熱海の土石流事件、観光船の沈没事故、誤送金の着服など、先賢の行ったことと照らし合わせたときに、全く信じられないような沙汰ではないでしょうか。

※おまけ
明治用水の管理に当たっては「明治用水土地改良区」が関わるものと思いますが、詳しい権能状態はよく判りません。
「明治用水会館」 ↓

が深いかかわりを持つと思われますが、指示命令系統などについては調べられませんでした。
「明治用水土地改良区」の初代理事長に岡田菊次郎(1867- 1962) ↓

がなっていて、その銅像が「明治用水会館」の庭にありましたので、どう解釈するべきなのでしょうか。
コメント (8)
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