堀内公園で自転車を置いてから、徒歩で桜井神社まで来て参詣をしました。その後は矢作川の流れを見るために南東方面へ歩いていきます。
南下しながら辻々で東進するように歩いていきますと、次第に人家が疎らになり、川を越えると広々とした田園地帯となり、冬の乾いた水田を渡る風が身に沁みるような冷たさですが、それでも汗ばんでくる身体には心地よく感じます。
木橋 ↓
人家の途絶えたところにちょっとした川がありました。その川沿いを少し歩くと橋が架かっていますが、いまどき珍しい木橋でした。久しぶりにこういう木製の橋を渡ってみますが、少しびくつきました。
下の流れは鹿乗川といいます。
新幹線の橋梁 ↓
水田地帯の向こうに堤防が見えてきました。ここからの距離は1km足らずのようです。堤防に向かって辺りの風景を楽しみながら歩いていきますと、新幹線の橋梁に疾駆する新幹線車両が近づいてきました。
堤防の上 ↓
風に吹かれながら水田地帯を歩いてきて、堤防を目の前にしたときに、意外なほど勾配が緩やかで、随分ゆったりとした造りだと感心しました。
矢作川 ↓
そして、やや強い風の中で、矢作川の水面を眺めます。 これも大変明るい色であり、心和むように感じました。川の向こう側は岡崎市になりますが、西尾市との境界も近いようです。
通せんぼ ↓
強い風を避けて小休止を取るべく、川側に降りて川面に近づくと、これは冬枯れの芝の中で随分柔和な空間がありました。
しかし、その先には堤防を跨いだ内外に通せんぼがしてありました。
愛知県庁までの道標 ↓
通せんぼのために仕方なく、堤防から離れて村道を歩きますと、神社の杜が見えました。近づいた入り口に「愛知県庁まで10里8丁余」という道標があります。今風に計算しなおしてみましょう。
3930(m)×10+109(m)×8=40172(m)・・・・・つまり40km程度先に愛知県庁があるということになります。
この道標の設置は明治28年四月と側面に刻んでありました。
熱田社 ↓
何故に愛知県庁までの距離を示すあの道標が神社前に有ったのか?・・・・疑問に思いながら杜の中に入っていくと、その神社は熱田社で、日本武尊がご祭神とありました。この神社は恐らく名古屋の熱田神宮の末社なのでしょうね。そんなことから「愛知県庁までの距離」が示されたのではないでしょうか。
矢作川の堤防工事 ↓
”通せんぼ”の理由はこういうことでした。堤防に上がる車道を作っているのでしょうか。
今度は素盞鳴神社 ↓
堤防工事のすぐ下に素盞鳴命を祀った神社があります。
前の熱田社とは200mも離れていないように感じました。しかし、所属する集落は違っているようです。
こちらは明治初年に造営されたものを昭和50年に再建したようです。
人海戦術 ↓
神社参拝を済ませ、堀内公園に戻ることにしました。ここまでに堀内町→桜井町→川島町→小川町→姫小川町と歩いています。帰り道ではまた鹿乗川に来て、川沿いを遡上して行きます。
流れの左岸で人が固まって働いています。
遺跡発掘の調査 ↓
作業している人たちに冗談めかして「大判・小判は見つかりましたか?」と聞きますと、精々「宋銭」が出る程度ということでした。宋は中国で960年 - 1279年と聞きますから、遺跡と言えるのかどうかと思いました。
小生の聞き間違いか、作業者の勘違いかもしれませんね。
再び木橋に戻り ↓
木橋に戻り、相変わらずびくつきながら渡っていますが、川面に動きがありました。
鯉たち ↓
良く見ると、濁りの入った川に鯉たちが泳いでいました。冬なのに、水が澄んでいなくて、この濁りようは魚たちに気の毒です。
公園に戻る ↓
途中で辻々を曲がりながら近づいているうちに、採っている道に迷いが生じ、お寺の庭で遊ぶ子供に公園までの道を尋ねると、「観覧車が目印になる」と教えてくれました。
実を言うと小生もそれを目印にして歩いていたのですが住宅が密集していて、観覧車の姿が見えなくなってしまっていたのでした。
歩行総数 ↓
公園の自転車置き場に着き、着替えをしながら少し休みます。
これから後は自転車に乗り換えて戻ることになります。
入り日 ↓
入り日の時間に近づいていましたので、少し遠回りをして、夕景を見てから帰るようにしました。
時刻は午後5時ジャスト、歩道橋の上から日没ショーを眺めて、この日のRide & Walkは終わりが近づいてきました。
南下しながら辻々で東進するように歩いていきますと、次第に人家が疎らになり、川を越えると広々とした田園地帯となり、冬の乾いた水田を渡る風が身に沁みるような冷たさですが、それでも汗ばんでくる身体には心地よく感じます。
木橋 ↓
人家の途絶えたところにちょっとした川がありました。その川沿いを少し歩くと橋が架かっていますが、いまどき珍しい木橋でした。久しぶりにこういう木製の橋を渡ってみますが、少しびくつきました。
下の流れは鹿乗川といいます。
新幹線の橋梁 ↓
水田地帯の向こうに堤防が見えてきました。ここからの距離は1km足らずのようです。堤防に向かって辺りの風景を楽しみながら歩いていきますと、新幹線の橋梁に疾駆する新幹線車両が近づいてきました。
堤防の上 ↓
風に吹かれながら水田地帯を歩いてきて、堤防を目の前にしたときに、意外なほど勾配が緩やかで、随分ゆったりとした造りだと感心しました。
矢作川 ↓
そして、やや強い風の中で、矢作川の水面を眺めます。 これも大変明るい色であり、心和むように感じました。川の向こう側は岡崎市になりますが、西尾市との境界も近いようです。
通せんぼ ↓
強い風を避けて小休止を取るべく、川側に降りて川面に近づくと、これは冬枯れの芝の中で随分柔和な空間がありました。
しかし、その先には堤防を跨いだ内外に通せんぼがしてありました。
愛知県庁までの道標 ↓
通せんぼのために仕方なく、堤防から離れて村道を歩きますと、神社の杜が見えました。近づいた入り口に「愛知県庁まで10里8丁余」という道標があります。今風に計算しなおしてみましょう。
3930(m)×10+109(m)×8=40172(m)・・・・・つまり40km程度先に愛知県庁があるということになります。
この道標の設置は明治28年四月と側面に刻んでありました。
熱田社 ↓
何故に愛知県庁までの距離を示すあの道標が神社前に有ったのか?・・・・疑問に思いながら杜の中に入っていくと、その神社は熱田社で、日本武尊がご祭神とありました。この神社は恐らく名古屋の熱田神宮の末社なのでしょうね。そんなことから「愛知県庁までの距離」が示されたのではないでしょうか。
矢作川の堤防工事 ↓
”通せんぼ”の理由はこういうことでした。堤防に上がる車道を作っているのでしょうか。
今度は素盞鳴神社 ↓
堤防工事のすぐ下に素盞鳴命を祀った神社があります。
前の熱田社とは200mも離れていないように感じました。しかし、所属する集落は違っているようです。
こちらは明治初年に造営されたものを昭和50年に再建したようです。
人海戦術 ↓
神社参拝を済ませ、堀内公園に戻ることにしました。ここまでに堀内町→桜井町→川島町→小川町→姫小川町と歩いています。帰り道ではまた鹿乗川に来て、川沿いを遡上して行きます。
流れの左岸で人が固まって働いています。
遺跡発掘の調査 ↓
作業している人たちに冗談めかして「大判・小判は見つかりましたか?」と聞きますと、精々「宋銭」が出る程度ということでした。宋は中国で960年 - 1279年と聞きますから、遺跡と言えるのかどうかと思いました。
小生の聞き間違いか、作業者の勘違いかもしれませんね。
再び木橋に戻り ↓
木橋に戻り、相変わらずびくつきながら渡っていますが、川面に動きがありました。
鯉たち ↓
良く見ると、濁りの入った川に鯉たちが泳いでいました。冬なのに、水が澄んでいなくて、この濁りようは魚たちに気の毒です。
公園に戻る ↓
途中で辻々を曲がりながら近づいているうちに、採っている道に迷いが生じ、お寺の庭で遊ぶ子供に公園までの道を尋ねると、「観覧車が目印になる」と教えてくれました。
実を言うと小生もそれを目印にして歩いていたのですが住宅が密集していて、観覧車の姿が見えなくなってしまっていたのでした。
歩行総数 ↓
公園の自転車置き場に着き、着替えをしながら少し休みます。
これから後は自転車に乗り換えて戻ることになります。
入り日 ↓
入り日の時間に近づいていましたので、少し遠回りをして、夕景を見てから帰るようにしました。
時刻は午後5時ジャスト、歩道橋の上から日没ショーを眺めて、この日のRide & Walkは終わりが近づいてきました。