池上優游涵泳

「料理と散歩と仕事で海外」「ベトナム生活あらかると」改め、「池上優游涵泳」として日々を綴っています。

偶然、堤方権現台古墳と万両塚

2019-09-10 17:53:06 | 地域情報

今日も猛暑日でした。

台風後のこのシナリオ、おかしいよね。。。

昨日、蒔いたベビーリーフの種が渇かぬよう、鉢を日陰に移動し、霧吹きを何度もかけましたが、大丈夫かな。。。

 

それでも、朝は、呑川を下流へ蒲田まで散歩に出かけ、そして本門寺にも立ち寄りました。

と言うのは、昨日、呑川から洗足池に向かうと、街路樹が抜けたり、公園樹が折れたり、台風の被害が酷かったので、

呑川の下流、本門寺は大丈夫だったのかとチト心配に思ったので。

 

呑川の下流は、そもそも強風に煽られるような樹木が少なく、特に変わった様子はありませんでした(堵)。

むしろ、心配するなら桜並木の旧呑川緑地でしたかね。

ただ、呑川沿いに蒲田に行って帰ってくるだけででも、ちょっとしたお土産がありました。

JRの線路の下を通って、東側に出て直ぐのところに「鈴木旗染店」と言うお店がありました。

(何度も前を通っていたのですけどね(汗))

旗、暖簾、幟を手染めで染めている創業50年の老舗の染物屋さんでした。

ちょっと中を伺いましたが、染料の入れ物とか、道具が見えて、、、

取材とまで言いませんので、ちょっと見学はできないものでしょうかね(興)。

家に帰ってから調べたら、HPインスタがありました。

それと、数年前ですが、ぶらり途中下車の旅にも出演していたようです。

いいなぁ〜、こんな職人気質の下町のお店。

今の所、注文するネタはないけど、死にそうになったら、うちの家紋(梅鉢紋)で陣幕でも染めてもらおうかな。

 

続いて、本門寺ですが、

境内をふらふら歩いて、大きな木が倒れてはいませんでしたが、大小の枝が折れて、散乱していました。

昨日の今日で、片付けに手が回っていないのでしょうかね。

そんな中、こちらもお土産がありました(笑)

こちらは随分と大きなお土産で、

本門寺の五重の塔の裏の方に行くと、佐伯矩氏の碑、本門寺公園の入口があり、妙見堂池上七福神の樹老人)の裏手に出るのですが、

その裏手から、妙見堂に行ったことも、妙見堂に登って(かなり急な石段)、裏手に抜けたことがなかったので、

いきなり、こんなのに行き当たって驚きました。。。

 

説明板には、永寿院と言うお寺の「万両塚」と書かれてあります。

まず、目の前のオブジェですが、初代紀伊藩主、徳川頼宣公の娘(徳川家康の孫)、芳心院の墓所です。

裏から入ったので、正面に回ります。

なお、「万両塚」とは、建設費が一万両に及んだとの俗説から生じた芳心院墓所の俗称だそうです。

外堀は、水を蓄えられていた形跡がなく、当初から空堀であったので、蛇よけに水が張られたというのは”伝説”です。と、わざわざ説明書きがありましたが、”伝説”とは何でしょう?

これは芳心院が、生前蛇嫌いであったため、没後も蛇を遠ざける目的で外堀を作ったという伝承があるようです。

そもそも蛇は泳げるので、眉唾ですが、この伝承から、芳心院を「ヘビヒメ」と呼称している地元の方も多いとか。


そして、この墓所を囲むように、弥生時代、古墳時代の遺跡があります。

これは弥生時代の住居跡だそうです。

半円になっているのは、住居跡の上に墓所が建てられたからだそうです。

江戸時代に考古学はなかったでしょうからね。

こういうのを”歴史の重層”と言うようです。

(実際、弥生時代の住居跡の上に、古墳が作られ、その上に、江戸時代の墓所が建てられ、その上に現代のお墓が造られていますからね)

なお、この復元方法は、本物の住居跡は埋め戻して、石膏で型をとって樹脂モルタルで作ったレプリカを真上に設置する「原位置再生」と言うようです。

 

その先には、復元地層のトレンチが作られています。

これも同じで、この壁面を剥がすと、チバニアンのような、そのままの地層が見られるのでしょうかね。

何れにしても、このような地層がここに存在し、各時代の遺物が発掘されたようです。

一番深いところは、先の弥生時代の住居跡の端に当たります。

さらに先には、さらに弥生時代の住居跡が顔を出しています。

そして、こちらは時代が古墳時代に移って、堤方権現台古墳です。

馬具、木製の鞘に収められた鉄製直刀、鉄鏃のついた矢などの副葬品、

それと埋葬者の下半身の骨格が見つかったそうです。

なぜ、下半身だけか?

昭和7年、住居建設のための整地で、古墳の主体部と一緒に、ごっそり削られたのではないかと。。。

 

もののけ姫のこだま?ではなく、私の好きな埴輪が覗いています。

弥生時代の住居跡に並行して建てられているのは、古墳遺跡内合祀墓。

発掘された骨とか収められているのかと思いましたが、1500年前の先人と一緒に眠るための、現代の人の納骨堂とのことでした。

(古墳の被葬者の遺骨(の混じった土)は、復元古墳に埋葬されているようです)

 

遺跡の発掘の模様、墓所の由緒など、歴史的な情報は、永寿院のHP(歴史の扉)に詳しく載せられていて、とても参考になりました。

ただ、「万両塚」だけ観て、お寺には寄らずに帰ってきましたが、、、実は、出土品が本堂に展示されているようです。

これは、改めて行かんとね。

 

その後、妙見堂の方から降りて、池上会館の前にでたところ、「大田地域遺産写真展(大田ユネスコ協会、大田区主催)」の看板を見かけ、そちらにも立ち寄ってきました(お土産のおまけ)。

見慣れた風景、まだ見ぬ風景の写真を鑑賞し、今日、偶然、行き当たった「万両塚」もそうですが、まだ見ぬ色々な史跡があるんだろうな、、、と思いました。

うちの近所でこれですから、まだまだですね。

ではでは 


台風の傷跡と、家庭菜園の秋植え第一弾

2019-09-09 18:04:53 | 家庭菜園

昨夜は、凄い風雨でした。

ごぉーとか、ぼぼぼっとか音がする度、ベランダから避難させられなかったゴーヤ、鷹の爪のプランターが飛んでいったりしないか心配でしたが、

(部屋に入れたかったのですが、奥さんに「汚れる」と拒否され)

今朝、何事もなかったかのように、ベランダに鎮座するプランターを見て、胸を撫で下ろしました(堵)

 

朝方は雨も残っていて、風も強かったので、散歩に出かけることも躊躇われ、

午前中も10時を過ぎて、電車が動くのを待っていた奥さんが出勤したので、さあ、行くかと思ったら、

急激に気温が上がって(ニュースでは猛暑日になると)、散歩に出かける気も一旦失せたのですが、

くじけてはいかん、と気を取り直し、洗足池に向かいました。

 

呑川沿いにも、随分樹木が倒れていて(根から引っこ抜けて)、警察が通行止にしたりしていましたし、

洗足池は、葉が散って遊歩道を覆っているどころか、

こんなに立派な木が、裂けたり、折れたりして、昨夜の風雨の傷跡が生々しかったです。

 

ハノイでも、ちょっと風雨がキツイと、街路樹が引っこ抜けて道路を塞いだり、家屋をぶっ潰していましたが、

あれは根が浅く、安易にまた埋め直して立てるので、また風が強いと倒れる繰り返しだったので、

日本で、これって凄いわ。。。

 

そんな中、洗足池の帰り道、島忠とDaisoに立ち寄り、苗と種を買って、いよいよ秋植えの第一弾を実施しました。

帰り道と言うには、随分遠回りになるのですが、一日一万歩の調整も入れて(苦)

 

ここ暫く、何を植えるか、鉢とプランターの何処へ植えるのか、あれこれ悩んでいましたが、ようやく意を決しました。

まず、大きな鉢には、ミント。

青唐辛子があるのでラオス料理のラープ(ひき肉の辛いサラダ)を作ろうと、スーパーでミントの値段を見たら、苗より高かったので、じゃあ、ミントを植えようと。

ミントは冬を越してくれるようですし、Webの写真を見ると随分大きくなるらしいなので、一番大きな鉢に植えました。

小さめの鉢のひとつには、パセリ。

春に植えたものは、大量の頂き物のジャガイモの消費に大貢献してくれましたが、まだまだジャガイモはあるし、生のパセリがないと、ポテトサラダもイマイチな感覚が(私に)植わってしまったので、ここはパセリをもう一回。

島忠で苗をそれぞれ買いました。

 

先に、ベビーリーフを植えていた小さめの鉢3つは、あれこれ悩みましたが、

ベビーリーフの種もまだ残っているので、結局、こちらももう1ラウンド。

一応、これが秋植えの第一弾です。

Daisoでハンドスプレーも買ったので、小まめに切り吹くことにします。

 

第二弾の予定としては、、、

プランターが三つあります。

ひとつは獅子唐と伏見甘長を収穫して、土作り中のもの。

ひとつは、現在、鷹の爪が熟すのを待っているもの。

あと、ゴーヤです。

 

鷹の爪は、だいぶ熟してきたので、もう一週間ほどしたら、葉は佃煮にして、実は茎ごと乾燥させようと。

(青唐辛子があるうちに、ミントを収穫して、ラープが作れるといいのですが。まあ、赤く熟してからでも問題はない)

同じプランターに同居しているローズマリーは、ひとつ残してある、大きめの鉢に移して、もう一回り大きくなってもらおうかと(ローズマリーも冬を越してくれるようですし)

その後、一週間ずらして、ゴーヤを片付ければ、

3つのプランターに、一週間程度ずつ、ずらして、秋野菜を植えることができて(一週間ずつ、収穫をずらせる)、美しいのでは、と目論んだ次第です。

では、何を植えるか、というと、、、

これも悩みましたが、Webで調べると初心者にも易しく、私にとっては地下茎も葉も食べられるお得感の高い、カブにしました。

島忠で売っていた種が結構高かったので、Daisoへ行って、2個で¥100の”時なし小かぶ”の種を買いました。

2個買っておけば、プランター3つに筋蒔きできるんじゃなかな。

発芽率も85%以上ですし、まあ大丈夫でしょう。

自分で食べる分には、何でも美味しいものだし(苦)

 

鷹の爪がなかなか熟し切らなければ、ゴーヤと鷹の爪を整理する順番は変えてもいいかな。

というのも、ゴーヤはちっちゃい実がみんなオレンジに熟していて、

中には、ぼてっと赤い種を撒いてしまうものもあります。

まあ、悲しいけど、ゴーヤの今年はここまででしょう。

ところで、ゴーヤの赤い種は”当たり”で、メロンみたいな味がするというのをWebで読んだので、

ちょっと摘んでみましたが。。。

青いゴーヤから出てきた赤く熟した種と、実が熟して落ちた赤い種は、違うものなのでしょうね(苦)

ではでは

 

右利きの右前から、武道の構えにおける左右は?

2019-09-08 16:47:26 | 知識・学習

度々、雨曇りの洗足池が趣があって好きと言っていますが、

こんな青空もいいですね。

と、今朝の散歩は洗足池に向かいましたが、

ちょうど、千束八幡の例大祭の神輿渡御にあたりました。

神様が神輿に御渡り中です。

 

そう言えば、子安八幡も今日が例大祭だったと思い出して、帰りに立ち寄りましたが、

すでに、神輿渡御は(千束八幡と同じ時刻に)終わっていて、神輿はおろか人もいませんでした(悔)

なので、本殿建て替えに伴い、舞殿に移された御祭神ですが、神様は外出中です。

今日は、午後から例大祭、夕方は奉納すもう大会が開催されるようですが、まあ行かないかな(苦)

来週は、雪ヶ谷八幡の例大祭なので、神輿渡御のタイミングでそっちは行ってみようかな。

 

さて、浴衣の左前の話で、右利きにとっての合理性が由緒のようなことを書きましたが、

欧米から入ってきたスポーツは、左右関係ないか、両方に対応しているけど、

日本古来のスポーツというか、武道は右利き原則かな、などと、今朝の散歩中につらつら考えていました。

 

刀は、左に挿して右手で抜きます。

左利きの剣士もいたようですが、刀は左に挿していて、左手で逆手で抜くのを何かで見たことがあります。

(女性が短刀を持つ時のような持ち方で長刀を、居合で抜いていた)

私は幼い頃から剣道をしていましたが、

左利きだから、竹刀を左右逆に持つのをみたことはありませんね。

もし居たとしたら、中段からの逆小手は無効だし、お互いに打ちづらいでしょうね。

ボクシングは、サウスポースタイルがありますが、剣道では、やってはいけないのかな?

(と思って調べると、禁止はされていないようですが、”好ましくない”と指導されることがあると)

左手だけで構える上段、または二刀流の場合、左手だけで打ち込むので左利きのように見えなくもないですが、

普通の構えでも、左手で竹刀を扱うものなので、左利き向きというものではありませんね。

 

なお、剣道では、右手と左足が前で、正眼の構えですが、居合の構えは、右手右足が前、右前の構えです。

 

弓道(和弓)は、

そもそも左手を、弓手(ゆんで)と呼ぶ由縁ですから、左手で弓を持って、右手で弦を引きます。

逆に構える事(左引き)はないそうです。

なお、右手は、馬手(めて)。手綱を持つ手です。

ただ、狙いは弓手(左手)で定めるので、左利きの方が有利という考え方もあると。

和弓に対して、洋弓とも呼ばれるアーチェリーは左右どちらでもいいようです。

左右どちらか用の弓もあれば、左右対応の両手用の弓もあるようです。

ゴルフも、左利き用のクラブがあって、左右逆に構えられますね。

 

柔道の組み手は、利き手次第ですね。

利き腕が同じなら、相四つで、足の並びが相手と平行になり、

利き腕が逆だと、ケンカ四つで、足の並びがハの字になると。

ただ、柔道の道着は、右前でしょうから、

利き手で襟をつかむ(釣り手)は、右利きの方が取りやすいのような気はします。

(袖をつかむのは、引き手)

まあ、試合を見ていると、すぐ肌蹴ているので、影響はなさそうですが(苦)

 

相撲も、相四つ、ケンカ四つとアナウンサーと解説者がよく喋っているますが、

構え(立会い)自体に、右左はなく、剣道と同じと言えば、同じ正眼の構えかと。

 

空手は、右構え(右手、右足前)、左構え(左手、左足前)のどちらもありですが、

標準的なのは、左構えとのこと。

利き腕に関しては、空手は左右の手足、それぞれの攻撃を組み合わせた連続技なので、どちらがどうというものではないと言う意見があり、印象としては同感です。

 

まあ、他の武道にも色々あるでしょうし、一概には言えないところですが、

利き腕がどちらかとか、野球に見られる有利不利というものではなく、

武道には、まず”作法”があって、ということなのかな。

で、その”作法”が定まる過程には、多数派の右利きが基本であったと。

逆に、スポーツにおいては、”作法”ではなく、”ルール”があって、それは公平さが求められるので、左右の区別なくの様な話になるのかな。

今朝は、こういう事をつらつら考えながら歩いていたので、ラジオの内容は全く頭に残りませんでした(苦)

ではでは


金麦夏皿到着、ところで着物の左前ってどっち?

2019-09-07 17:00:41 | 知識・学習

昨日に続いて、今日も夏日らしい夏日でした。

朝、散歩に出かける時、マンションからは富士山のシルエットがくっきり見えていたので、多摩川に向かいましたが、

多摩川からは、雲が邪魔してちょっと残念。。。

でも、これからは富士山がくっきり見えるシーズンになるので、毎朝が楽しみです。

気が早いですが、冠雪も(苦)

 

絶対もらえる!金麦の夏皿キャンペーンですが、

最初に大皿を、次に小鉢に応募して、ようやく二つとも揃いました。

先に大皿が届き、小鉢を待っていたので、最初は両方使う”そーめん”で。

今日が夏日でちょうど良かった♪

作りがしっかりしていて、デザインもいいと、奥さんからも高評価(の夏皿)。

しかし、その前のキャンペーン、あいあい皿その1その2その3)は未だ揃いません。

9月中には届くはずなのですが。。。

 

さて、以前、どなたかのブログで、

女性タレントが浴衣を着てテレビに出ていたが、左前になっていることに、スタッフの誰も気がつかなかった(気にしなかった)のか?

というコメントを拝見して、

 

そう言えば、温泉に行って、浴衣を着る時「左前は誤り」とは知っているものの、

右側を前にして合わせるのが、何か不自然な感じがして、まあ、いいか、と左側を前にして、右手を懐に入れていました。

果たして、これはどうなのか、もういい大人なので、ちゃんと知っておこうと思い調べることにしました(恥)

 

結果わかったことは、

私が左前と思っていたのは、実は、左前ではなかった。

という驚愕の事実。。。

 

ここで言う「前」は「手前」の意味なので、

右前は、自分から見て右側が手前で、生地が肌についていて、左側が外側の状態。

右前、左前は、相手から見てどちらか、という事にもなるので、自分から見たら、左の衽(おくみ)が前に出ていていいんですね。

右手を懐に入れやすいというのも由来として正しかったようです。

 

由来は、まあ色々出てきましたが、

基本的に右利き仕様であったと思うので(刀の大小は左に差して、右手で抜くし)、

右手で、紙入れ(財布)、手ぬぐい、懐紙など懐に入れやすい、出しやすいという合理性が、個人的にはしっくりきました。

なので、左前にしていると、とりわけお金の出し入れが手前で、奪われやすく(失いやすく)、商売が左前になるという表現も、その合理性に由来するものかと。

 

死装束は普段と違うよう、左前にするので、不吉であるというようですが、左前が合理的な理由から不幸、不運につながるので、不吉なこととして死装束につながったような感じもします(事象と由来が逆)。

 

他方、男性シャツのボタンは自分から見て右、ボタン穴が左なのも、右利きの合理性からでしょうか。

じゃあ、女性の洋服は何故左前なのか、というと、

女性でボタンのある服を着ていたのは上流階級だけで、自分で着ることはなく、召使が着せていたので、右利きの召使いがボタンをとめやすいように、というのも合理性からですね。

 

この自分で着ない論は、

古代中国で、左の方が位が高いので、高貴な人は左前で、庶民は右前に合わせるのを、聖徳太子が日本で導入したという説の根拠にこじつけられそう(笑)

 

着物にボタンはないので、帯で考えてみます。

帯の回し方には、右も左もないようですが、仮に、高貴な人は自分で帯を締めないとすると、

右利きの使用人は、右から後ろに帯を回すのではないでしょうか。

とすると、反時計回りに、着る人の右脇から帯が回ってくるので、左前の方が、合わせた襟が崩れないのでは。

右利きの人が、自分で帯を回す時は、時計回りの方が回しやすいので、右前が崩れにくいと。

まあ、なんとでも言える話ですけどね(苦)

 

思えば、成人した時だったか、就職した時だったか、親に浴衣を仕立ててもらい、

また、結婚した時は、奥さんの分と合わせて、再び、親から新しい浴衣をプレゼントされ、

実家が、祖父の時まで老舗の下駄屋であったので、浴衣に合う草履も、都度貰っていたのですが、

云十年も箪笥の肥やしになっています(苦)

シンガポールやベトナムには、向こうで着たら格好いいんじゃないかな、とか、日本人会や商工会のイベントで着る機会があるかも、と持って行ったのですが、結局、着た後、洗って保管するのが心配になって、一度も袖を通していませんでした。

住んでいる池上は、神社仏閣が多く、それぞれのお祭があるので、着方をちゃんと知ったら、着るモチベーションにもなるかな、とも思いましたが、まあ、タイミング的にはちょっと遅く、来年からかな。

 

少なくとも、これからの季節、温泉に行って浴衣を着て恥をかく恐れはなくなりました(苦)。

ではでは


デジタル写真の保管ポリシー

2019-09-06 17:58:27 | Apple

今日は、青空が広がって、気温だけではない久しぶりの夏日らしい夏日でした。

先週の金曜日は、雨が激しく、掃除中、布団を干せませんでしたが、

(ちなみに、毎週金曜日が、私のお掃除フルバージョンの日)

今日は、掃除中に限らず、布団(掛けも敷きも)だけでなく、枕も終日干せました。

 

さて、ブログで何度か書いている通り、うちの奥さんはいい歳して食べ物の好き嫌いが酷く、

あれは食えない、これは食えないが多く(食べると死ぬらしい)、苛だつことしばしばですが、

そこを、ぐっと堪えて、

「じゃあ、何が食べたい?」と聞くと、ソフトバンクの勝率くらいで、

「餃子」

と答えます。

なぜ、ソフトバンクの勝率かというと、9/6時点で.562ですが、いつも勝ってるイメージなので。

奥さんの「餃子」も、実際には2回に1回強くらいでも、毎回言われているような気がするのところが一緒。

逆の例えは、我が阪神の勝率。.487でも、いつも負けている気がする。。。

 

うちで「餃子」と言えば、私の手作りではなく、冷凍物になりますが、

私に凝った料理を作られるよりは、自分の好きな料理の冷凍物なら安心といったところなのでしょう。

まあ、こちらも心得ているので、これを常備しておきます。

ニッスイより安いし、タレも付いていて、

油不要、水も加えず、蓋もせずに、フライパンで7分間焼くだけで、こんな羽根つき餃子が、誰にでも(奥さんを除く)作れてしまうことです(驚)

奥さんに、私の腕を問わない料理を希望されるのは腹が立ちますが、

フライパンから、皿にひっくり返した時は感動するので、重宝しています(苦) 

 

話はガラッと変わリ、、、昨日、松濤園の一般公開に行く切っ掛けにもなった写真(ファイル)の整理についてです。

 

ここ暫く、Appleからこのようなメールが頻繁に届いていました。

「iCloudストレージの使用容量がもう少しで上限に達します。残りのストレージ容量は***.*MBです(合計容量:5GB)。」

今年は、ブログを再開したことや、積極的に出かけていることもあり、たくさん写真を撮っているので、iCloudの無料容量が、ほぼ写真で一杯になりました。

撮り直した失敗写真、メモ代わりに撮ったもの、レシピ用の調理途中の写真などは、都度削除しているので、無駄に撮り置いてはいないのですけどね。。。

 

「50GBへ月額¥130でアップグレード」できるので、そのくらい払ってもいいとは思うのですが、これまで、毎年、一年分の写真をPCのHDDに落として、iCloudやiPhoneから削除しており、まあ、今回もそれで対処しようかと。

ただ、今年は、撮っている枚数が増えて、一年は持ちませんでした。

iPhoneのストレージは余裕なんですけど、iPhoneで撮った写真を、そのままMacで使うには、iCloudが必要なのです。

(そういう意味、使い方では、iPhoneは一番ストレージ容量の小さいもので十分)

 

ちょっと歴史を振り返ると、

ベトナム駐在時に、iPhone4Sを買って以来、iPhoneで写真を撮るようになりましたが(それ以前はデジカメ)、当時、iCloudはむしろ不安に感じていて(ネット上に置くなんて、と)、iPhoneのローカルストレージが一杯になれば、PCの外付けHDDに保存していました。

Windows(PC)、Android(スマホ)に代えて、Apple(iPhone、iPad mini、Mac Book Pro)で情報端末を揃えるようになると、写真、メモ、ドキュメント、アドレス、ブックマークetc、即時に同期されて、どの端末でも見られる、更新できるiCloudが便利で、しかもセキュリティ(アクセス制御や暗号化)や信頼性も、よくよく調べれば高いことがわかったので、もっぱらiCloudを活用するようになりました。

そこまで言うのであれば、すべてiCloudに保存・保管すればいいのですが、杓子定規な性格上、やるなら全部をiCloudに載せたい。

しかし、それだと50GBでは足りず(また、それ以上お金を払う気はせず)、ローカル保存する画像とか書類が残り、それらのバックアップはし続けなければなりません。

であれば、これまで通り、端末間ですぐ共有したい直近の写真はiCloudに、過去の写真、ビデオ、その他のドキュメント(家計簿とか色々な書類コピー(PDF))は、MacのHDDに、保管するポリシーを続けようと。

 

まあ、GooglフォトをiPhoneに入れてあるし、Macに保管している過去の写真もGoogleフォトにバックアップしたので、MacにDLして、iPhoneのフォトライブラリから消しても、iPhoneからそれらの写真を見ることができます。

ただ、Googleフォトは、画質を最適化すれば写真のULは無制限ですが、なんでもかんでもULするので(撮ってすぐ消しても)整理が面倒。

原本としては扱いにくいので(Googleとしては、Googleフォトを原本として、こっちを消したらiPhoneのまで消しちゃいますが)、あくまで、無意識に行うバックアップの位置付けです。

 

他方、Googleフォトの無制限仕様に合わない昔のビデオや画像、PDF、文書やスプレッドシート(家計簿)、昔の自分のHPのWEBドキュメント(html)などは、Googleドライブの容量を喰って足りないので、ローカルでバックアップを考えねばなりません。

でも、こちらは、Windos時代からいくつも外付けHDDを使っていて、現在は、そこで管理していたファイルの重要なものは、全部MacのHDDに保管し、外付けHDDは、タイムマシーン(Macのバックアップ機能)に使っていますので(繋ぎっぱなしではないですけど)、MacのHDDと、外付けHDDが一遍にお釈迦にならなければ、大丈夫なはず。

iPhoneは、というと、MacのiTuneが勝手にバックアップするので(それがタイムマシーンでバックアップされる)、一応、大丈夫。

 

と、あれこれ考えてみると、この写真の管理・保管方法で、不便・不都合な事はありませんし、バックアップは取れている事も確認できましたので、

 

安心して、現在iCloudいっぱいになっている写真を、MacにDLし、日付とタイトルを付したフォルダに整理し、ライブラリの写真を削除しました。

やっている最中に、何か支障が生じることが怖かったのですが、ライブラリから削除しても、最近削除した項目に30日間残りますし、その間、iCloudに残るのかなと思ったら、iCloudの容量は大きく空きができ、iPhoneローカルに残るようなので、直ぐに完全削除(して容量を空ける)するリスクは負わずにすみました(堵)

 

残る課題は、MacのHDDが一杯になったらどうするか、ですが、

HDDがミラーリングされたNASを買ったら、(一瞬)楽しいかもしれないのですが、iCloudと費用、使い勝手の比較をしてみて、ですね。

以上、久しぶりのAppleカテゴリーのネタでした。

ではでは 


晩夏の松濤園一般公開

2019-09-05 18:04:07 | 地域情報

朝の散歩で呑川を歩いていると、流れる水、川底がきれいだな、と思うことがままあります。

東急目黒線の緑ヶ丘駅近くの放流口から、第二京浜あたりまでは、割と流れが早く、川底も浅いので余計そのように思えます。

魚影はなく、鴨がたくさん、友禅染のごとく、上流に向かって口を開けて、流れてくる(餌になる)何かを食べています。

そこから下流へ、池上通りあたりまでは、川幅も広くなり、水かさも増し、鯉、亀が多く見られます。

更に、河口に向かっては、海水が上ってきて、水は濁って、ボラが大量にいます。

 

その上流の方の、川底がきれいなのは、下水が混じらず水がきれいなのと、流れが早いので水草、藻がつかないからかな?程度に考えていたのですが、今朝は、ちょうど、川底を洗浄している風景に出会いました。

定期的に、このような重機で磨いていたのですね。

とすると、これより下流は、川底が深くなるので、このような洗浄の仕方は無理ですね。

 

これを見て、学生時代にしていたフロア掃除のバイト(”かっぱぎ”と呼んでいた)と、ハノイの道路洗浄車を思い出しました。

バイトの方は、電動ブラシのついた器具で、ぎゃーっとタイル床を磨いていました。

もう30年くらい前の話ですが、一日7,000円くらい貰えたので、体力的にはしんどいものの、割のいいバイトでした。

ハノイの道路洗浄車については、

ハノイに仕事で行くようになった2006、7年あたりは、まだ本当に何もない街で、夜も9時を過ぎると、飲食店も閉まって、人も車も通らないような、首都とは思えない田舎っぽさでした(HCMCは全然違っていましたが)

当時も、現在も、ゴミは路上に投げ棄て放題で、大きなトロッコを押した清掃員が拾って回っるのですが、必然的に、道路は汚れまくり。

さらには、店先、家先で子供におしっこさせていましたし。。。

それを、夜になると、ごっつい道路洗浄車が出てきて、道路の両端を、水を撒きながら、巨大なブラシで、がーっと掃くのですよね。

掃かれた汚れは、汚した人の家に向かって、飛び散り自業自得ですが、

まあ、その音がうるさくて、ホテルで眠れませんでしたっけね。

赴任してからは、早朝からのクラクション含めて、すぐ慣れましたが(苦)

ちょっと意識が、思い出に飛んだ今朝の散歩でした。

 

さて、本題は本門寺松濤園の一般公開でした。

松濤園とは「本門寺の旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州によって作られたものである。作庭に当たっては、この四千坪に広がる庭に遠州茶道の極意を具現し、渓流と池を回遊する名園とした。それはまた本坊客殿より渓谷美を俯瞰できるように作られたものであるといわれている。」ものです。

 

ここ暫く、iCloudの空きがなくなるというワーニングをAppleから受け取って、

iCloud上のの写真をMacのローカルディスクに落として、フォルダ分けしながら、日付、タイトルを付けていたのですが、

GWに撮影した「松濤園(しょうとうえん)」、松涛園と松濤園のどっちだったっけ?と、本門寺のホームページにアクセスしたところ、

たまたま、本日、9/5(木)から8(日)まで一般公開することを知りました。

毎年、GWに一般公開するのは、あちこちのWebサイトで見ているのですが、この時期にも一般公開されるとは知りませんでしたので、写真整理をしてラッキーでした(写真整理のうんちくは、別途ブログに書きます)。

週末に、奥さんとまた行くとは思うのですが、人が多いと情趣が失われるので(観光客が多いと嘆く、観光客の一人感覚)、平日の本日、公開直後にまずは一人で行ってきました。

 

本門寺の朗峰会館に付設の庭園で、

普段は、今半で食事をしないと見られなそうですし、庭園に立ち入ることもできないのですが、

一般公開時は、庭園を散策することができます(今半で食事する必要もなく、無料で)。

 

今半の窓際の席アングルから、全体を見渡して、

庭園をぐるっと散策します。

湧水だけで水を張っているので、園池は水がきれいです。

ここから水が出ていますが、湧き水はこんなには噴き出さないでしょうね。循環(濾過)しているのかな。

 

本日は、曇り空でしたが、明るかったので問題なし。

蒸し暑くもありましたが、夏が短かったので、むしろ残暑も惜しみたい気分です。

蝉の鳴き声がしますが、それ程うるさくも感じず、ツクツクボウシの鳴き声も混じり、晩夏の趣も漂います。

これは「西郷隆盛と勝海舟会見の碑」です。

今はありませんが、ここに建っていた四阿(あずまや)で、二人が江戸城明け渡しに関した会見をしたと伝えられています。

そういえば、勝海舟記念館の開館は、今週末、9/7(土)でしたね。

洗足池公園、商店街で色々イベントが開かれるようなので、あえて、そこは避けて、来週末以降に行こうと思います(苦)

(通院はしなくなりましたが、人が多いと相変わらずしんどいので)

 

園内、楓も多くありますが、紅葉の時期には一般公開しないのかな。。。

 

花は百日紅が少しだけ。そろそろお仕舞いですね。

 

以上、松濤園の散策でした。

9/8(日)まで一般公開(10:00−15:00)していますので、お近くの方は、心穏やかに晩夏の趣を感じられてはいかがでしょうか。

ではでは


小杉陣屋の史跡巡り

2019-09-04 17:49:53 | 散歩

本日、予報ではそんなに気温が上がらないようなので、一昨日予定変更した小杉陣屋あたりに行ってみました。

と言いますか、もう残暑もお終い?

丸子橋を越えて、中原街道を進みますが、

川崎歴史ガイド・中原街道ルートというものがあって、各名所旧跡には案内板が立っています。

(川崎市のHPの名所旧跡ー中原区ーも参照して行きました)

まずは、先日、等々力緑地に行く時に、通りがかった立派な門のところから、と思って、地図で調べると、それらしい場所に、安藤家長屋門というのがありましたので、それだったか、と思ったのですが、

行ってみると、原家の陣屋門(主屋は平成3年に日本民家園に移築・復元)とありました。

生田緑地の日本民家園に行った時、入口にあった最も立派な家(右上)でした。

そして、全景を唯一撮り洩らした家屋でもありました(汗)

日本民家園のHPにある、原家住宅の写真はこちらになります。

こんな立派な家がここにあったのですね(驚)

豪農?

現在は、門と、その裏にお社、

樹齢350年の神木があります。それほど大きくはないのですが(ないからか)、カッコいい欅です。

 

そして、その先の路地を入ったところが、安藤家長屋門でした。

安藤家は名主の一つで、旧家に歴史的に貴重な古文書、絵画が残されていると。

 

中原街道からちょっと北に逸れて、小杉陣屋町中公園に向かうと、その手前、住宅地の中にちょこんと、お社があります。

「小杉陣屋と次大夫」という案内板があるのですが、

徳川家康から、二ヶ領用水の建設を命じられた、代官小泉次大夫が陣屋を設け、それが現在の町名に由来すると言うことですが、ここがその陣屋のあった場所?かどうかの説明はありませんでした。が、そう言う事なんだと思います。

 

そこから、徳川秀忠が建てた小杉御殿跡に向かって、西明寺の方へ向かうと、

超立派な家が!これ?と思いましたが、

これは、お金持ちの方の家で(こんな庭を維持できるなら、お金持ちかと)、

当の小杉御殿跡は、住宅街の路地奥にひっそり。

先ほどの「小杉陣屋と次大夫」もそうですが、この辺一帯(西明寺境内)が小杉御殿跡で、このお社の場所が「主殿跡」らしいのですが、お社をランドマークにする意味は?

 

中原街道に戻って、街道が防衛の為に「カギ」形に曲がったところが、西明寺の入口です。

小杉御殿は西明寺の境内にあったので、小杉御殿跡の石柱が立っています。

さあ、西明寺に入ります。

なんと言いますか、、、綺麗なところです。

先ほどの「安藤家長屋門」の安藤氏は、元は後北条氏の家臣で、秀吉の小田原征伐の後、帰農して名主になったようですが、

(信長の野望(ゲーム)には、安藤良整という武将が出てきますが、それかな?)

そういう事もあって、門には、三つ鱗(北条鱗)が掛かっています。

と、この時は思ったのですが、

鎌倉幕府の執権、北条時頼(時宗の父親、出家して最明寺を名乗った)の信仰が篤く、最明寺を名乗った時期もあるという由緒書きがあったので、

形は平べったいので早雲公以来の後北条氏の北条鱗ですが、北条氏との関わりは、後北条氏ではなく、鎌倉時代の北条氏に遡るようです。

ちなみに、私が棺に入れて欲しい小説「炎立つ」「火怨」「風の陣」「天を衝く」の作家、高橋克彦さんの小説「時宗」では、父親の時頼(最明寺)が前半の主人公みたいでしたね。

大河ドラマでも、前半は時頼(渡辺謙)、後半は兄の時輔(渡部篤郎)が主役っぽくて。まあ、時宗は、元寇の時、たまたま執権でしたが、太宰府で自ら防衛した訳でもありませんし、史実的には謎が多いこともありますけどね(大河は、配役にも問題が。。。)

 

さて、西明寺の境内に戻ります(苦)

鐘楼。

観音堂。

弁財天(池)。

本堂。

弘法大師像。川崎は、川崎大師もありますし、真言宗の流れが強いのかな。

大田区は日蓮宗(総本山があって)が強いとすると、鎌倉時代は多摩川を挟んで随分と軋轢があったのでは。

それにしても、綺麗な境内です。

芝生だからですかね。

庭園の雰囲気ではなく、なんか、ゴルフ場のゲストハウスの小綺麗さのような(笑)

なお、こちらは、先日の大楽院のお仲間で、川崎七福神の大黒天との事。

二人お参りしましたが、残り五人の神様のうち、地図上、歩いて行けそうなのは無量寺の寿老人くらいかな。

 

中原街道に戻って、近場の史跡を抑えます。

 

「小杉駅」というのは、鉄道の駅ではなく、宿場の駅「宿駅」跡という意味です。

中原街道(江戸と平塚の中原を結ぶ)の宿駅ですが、脇街道であったので、東海道のような整備はされなかったものの、混雑している主要幹線である東海道を避けたバイパス、貨物輸送の需要があったようです。

 

江戸時代の庚申塔。「油屋」の屋号を持つ小林家の角にあったことから「油屋の庚申塔」と呼ばれたとのこと。

 

庚申塔の先の交差点を、右に曲がると、小杉神社の脇門に行き当たります。

御祭神は天照皇大神。

天照皇大神と天照大神は別の神様のようです(どう違うのかよくわかりませんでしたが)

天照皇大神は、夢見ヶ崎動物公園の墳丘に神社がありましたっけね。

拝殿の獅子と龍の彫刻がなかなか秀逸です。

天満宮もありました。

脇門から入り、正門から出て、帰路につきます。

 

最後は、往路では通らなかった中原街道沿いにある「明治の醤油づくり」の案内板。

お隣に明治3年に醤油の醸造を始めた石橋醤油店があります。

大樽などが残っているようですが、現在は、小さなお店があるだけ。

歴史ガイドには「ガイドを見て訪ねてくる方が何かと質問するため、石橋醤油店が迷惑しています。」との注意が。。。

 

以上、小杉陣屋のあたりの史跡めぐりでした。

歴史ガイドをみると、中原街道を進んで、小杉十字路、二ヶ領用水の先にも色々あるようですが、

これで、家に帰っても、16,000歩以上歩いたので、

巡るとすれば、中原街道ルートのエンドにある南武線の武蔵中原駅まで電車で行って、歩いて帰ってくるとか、往復の移動はちょっと考えないと辛いかな(レンタサイクルは、大田区と川崎市、多摩川を跨げないので、ちょっと面倒)

あと、漫画寺(常楽寺)は予約しないと中を見られないようなので、こちらもちょっと考えものです。

まあ、焦る必要はないので、追々ですね。

その前に大田区の自然観察路)かな。

ではでは


葉唐辛子を摘んでの佃煮に感動

2019-09-03 17:47:37 | 家庭菜園

さて、昨日は、丸子山王日枝神社から帰ってきて、暑いベランダで伏見甘長の葉を詰みました。

伏見甘長(左)、獅子唐(右)のプランターですが、葉はわさわさ茂っているのですが、8/15に実を摘んで以来、実をつけてくれません。

Webで調べると、収穫期はもう一ヶ月くらいありそうですが、まあ、終える時期に来たのかもしれません。

そこで、プランターを整理して、秋植えの野菜に備える前に、葉を摘んで、佃煮にして食べようと思ったのです。

唐辛子やピーマンの葉が、そもそも食べられるものと知りませんでしたし、これまで食べた事はないはず。

父親が、かなりの規模の趣味の畑をやっていて、子供の頃、散々嫌々手伝わされましたが、唐辛子を栽培しているのを見たことがないので、実家で食べたこともないはず。

Web情報では、スーパーに出回ることはあまりなく、唐辛子やピーマンの収穫を終えるこの時期、家庭菜園で育てている人の役得と言える程、美味しいと。。。

 

まずは、伏見甘長をキレイに摘み取りました。

大きい葉だけでは足りなそうなので、小さい葉もすっかり摘み取り(中途半端に残しても仕方ないので)、

26cmのザルが大体一杯になりました。

酒の肴にしようと思い、夕方まで水につけておくと、ずいぶんパリッとしました。

鍋にお湯を沸かして、塩小さじ1加えてところに、葉を投入して、さっと湯がき、水で締めて絞ると、、、

ずいぶん小さくなりました(笑)

葉を刻んで、鷹の爪も青いところを摘んで輪切りに、出汁も用意し、

炒り煮にします。

水分が飛んだら器に装って、ごま油と炒りごまをかけて出来上がり。

まずは、酒の肴としていただきましたが、、、いや〜、美味しいですね(驚)

これまでの人生で、これを知らなかったのは不幸でした(笑)

これは、ご飯に合うはず。

 

と言うことで、今日は獅子唐(右)の方も収穫することに(苦)

こちらも、だいたいザル一杯分収穫できました。

伏見甘長も獅子唐も、茎だけになりましたので、プランターの整理をします。

根っこから抜いて、土を落として、”美味しい実と葉を有難う”と感謝して、ゴミ袋へ。

化成肥料を混ぜて、石灰をかけて、秋植えに備えます。

 

獅子唐の葉は、昨日の伏見甘長がうまく行ったので、同じ作り方で。

量は昨日より少なくなりました。(茹でてみないとわかりませんね)

昼ごはんとして、熱々ご飯と共に。

これは応えられませんね(感)

葉唐辛子って、年一の贅沢かも。

茹でると、これだけ小さくなってしまうので、少しずつ摘んで食べると言う訳にいきませんし。

残る鷹の爪は、そろそろ全体的に、実が赤く熟してきたので、熟しきったところで、今年最後の葉唐辛子の佃煮にしたいと思います。

なお、レシピの詳細はこちらで。

ではでは


丸子山王日枝神社、おまけに大楽院

2019-09-02 20:48:08 | 散歩

等々力緑地、川崎市民ミュージアムに向かう途中、小杉陣屋あたりに興味を覚えて、来週(今週)あたり行ってみようと言いましたが、

今朝、早く目が覚めて、空が明るかったので、早速、(奥さんを起こさぬよう気をつけて)出かけることにしました。

 

第二京浜を多摩川大橋まで歩いて、多摩川を上流に向かって右側(東側)を歩き、

ガス橋を川崎側に渡って、左側(西側)を歩いて、小杉陣屋あたりを目指します。

 

が、多摩川の東側の土手を歩いているうちは、マンションなどの影になっているので、それほど暑さを感じなかったのですが、

西側に渡ってからは、日光を遮るものが全くないので、かなり暑くなってきました。

聴いているラジオでは、30℃を超える気温上昇、のような事を言っています(まだ7時頃なのに)。

 

このまま進んで、小杉陣屋西明寺小杉御殿に向かっても、丸子橋を反対に渡り、家に帰るにしても、2kmくらいの違いなのですが、

その2km、30分が危険と、何かが頭の中で囁くので(先日の等々力緑地からの帰りが超しんどかったことも過ぎり)、

行き先を、丸子山王日枝神社に変更しました(苦)

この丸子山王日枝神社も、多摩川の川崎側の土手を、丸子橋に向かって歩いていると、鉄道橋の手前で看板が見えるので、気にはかかっていましたので、まあいいかな。

 

結果的には、今日は青空が広がり最高気温33℃。

別途紹介しましすが、日中行ったベランダ作業も暑さキツかったので、まあ、適切な判断だったかと。

 

さて、神社手前で土手から降りて、多摩川沿線道路の脇道を進むと、丸子山王日枝神社があります。

赤坂の日枝神社に比べれば(比べるまでもなく)、小さくまとまっています。

御祭神は大国主神。こちらのお方@出雲大社です。

境内に入ります。

あまり、鬱蒼とした雰囲気はないですね。

女塚神社でも思ったのですが、古事記や日本書紀の神様とか、皇室のご先祖様が祀られている神社は、明るいというかサッパリしている印象があります。 

拝殿、本殿も赤とか金色で割とカラフルで、大抵よく整備されているし。

他方、山岳信仰の神社は、なんとなく寂れた感じで、樹木に囲まれた小さな境内に鬱蒼とした雰囲気が漂うような。

そんな感覚を持つのは私だけかな?

拝殿があり、

後ろに本殿があります。

右手には、稲荷神社、大鷲(おおとり)神社、それぞれ、商売繁盛、開運の神様との事。

本殿裏手の樹齢七百年の御神木の大杉は、現在は樹根のみ。

左手には、たくさんの狐さん。

お稲荷さんは商売繁盛のはずですが、なんか傾いてて縁起が良くないような。

お顔が削り取られているのも可哀相な。

庚申塔は、境内と反対に北を向いていました。道路に面するものだからかな?

拝殿には、子猫が何匹もいました。かわいい。

女塚神社でも何匹か見ましたが、それも日本書紀の神様、皇室祖先系の特徴?

無人の神社に住み着く野良ではなく、神主さん家族が飼っていると言う事かな。

 

ところで、この日枝神社、丸子山王日枝神社と言います。

先日、貝塚を見に行ったあたりにも、大森山王日枝神社があります。

赤坂のは、そのまま日枝神社ですが、溜池山王にありますよね。

何故、山王が付くのか、知らなかったの、調べてみると、山王総本宮、日吉大社のHPに説明がありました。

「最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する」

日枝神社のHPにも、

「古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来ました。」

とあり、それで、社号や地名に「山王」がつくのですね。

 

丸子山王日枝神社を出て、丸子橋の方に向かうと、大楽院というお寺があります。

川崎七福神の「恵比寿様」のお堂があります。

今年のお正月には、池上七福神東海七福神を巡りましたので、来年の正月のターゲットにとも思ったのですが、、、

マップを見るとかなり広域に散らばっていたたので(川崎広いから)、まずは、多摩川七福神とか、まだ行っていない近場の七福神を制覇してからですね(汗)

ではでは


体脂肪率の短期的変動の謎

2019-09-01 16:13:00 | 知識・学習

まずは、今朝、呑川沿いを歩いていて目を惹かれた花達です。

いずれも他所様の玄関に咲いていました。

一輪だけ、真っ赤に咲いていた美人さんはハイビスカスでしょうか。

こちらは大輪。花びら自体が大きい。

画像検索すると、タチアオイ(立葵)で、合っていますかね。

 

さて、このブログで何度か、体重が減り続けいるということを話しました。

鬱で会社員生活から転げ落ち始めた、一昨年の12月以来、日によって上下はするものの、月間平均では減り続けた体重が、なんと、8月にちょっと増えました。

 

ベトナムから帰任して、日本の会社文化の中で働くストレス、会社からの理不尽な扱い、公共の場でモラルを欠いた人達から受けるストレスなどから、ジリジリ痩せていきました。

しかし、会社を辞めて、それらから距離を置く生活が始まり(無職の不安はなくもないのですが)、暫くは、不眠、睡眠薬の副作用による悪夢、突然襲ってくるパニック、それを抑える抗不安剤を飲むことへの不安があったものの、

無職の主夫生活も、散歩、読書、映画(ビデオ)、ブログ、料理、掃除など、一日および一週間のルーティーンも確立し、

ブログの取材(笑)で、近隣の施設をあちこち訪問したりする、毎日の変化もあって、

徐々にリラックスしてきたのでしょうか、

よく眠れるようになり、精神科の通院も終わりました。

そして、おそらく、精神の安定から、身体の方も復調してきたのでしょう。

体重が減り続けると、食べても寝ても、疲れが回復せず、寝ている時に攣ったり、歩くのもしんどく感じることがありましたが、

気持ちも落ち着き、料理は作るだけでなく、しっかり食べるモチベーションも高まり、

食べやすい植物性タンパク質だけでなく、動物性タンパク質も摂るようになったので、筋肉が回復し、体重も増えたように思えます。

(この2ヶ月間、大量にじゃがいもを食べているからじゃないの?とは、奥さんの弁。あなたが貰ったものですけどね)

 

まあ、梅雨から夏場は、どうしても歩数が減るのですが、蒸し暑さ、猛暑の中、水分を摂りつつ歩くのは、脂肪の燃焼効率が高かったのでは。

 

 

それを裏打ちするように、7月から8月にかけて体重は増えても、体脂肪率は、ぐんと下がりました。

 

まあ、精神、身体が健康的な方向に向いたのでしょう。

体重が増え続けるのは、別の不安がありますが、

BMI値ではまだ低体重なので、そこは脱しませんと。

 

ただ、結構マメに体組成計に乗っていて、どうもわからないのが、一日の中での体脂肪率の変化です。

平均的には減っているのですが、一日のうちの変化の仕組みがわかりません。

日毎の上下は、以前、体組成計の数値の記事で、何を食べれば体重が増えるのか(おそらく、食材毎の腸内での消化、便になるまでの時間の違い)は、経験的にわかったと書きましたが、

食べたものの消化の影響で、筋肉、体脂肪の量に関係なく体重が増加するなら、相対的に体脂肪率が下がるのは理屈通りなので、体脂肪の絶対的な量は、そう変化はしていないはず。

しかし、朝測った時に13%であった体脂肪率が、散歩でちょっと長く歩いて帰ってきた時、8%を切ります。

現在の体重が57kgちょっとで、散歩で1kgくらいは落ちますが、多分、水分がほとんど。

5%違うとなると、2.5kgくらい脂肪が減った計算です。

歩くことで筋肉が落ちることはあっても、筋肉が付くことはあり得ません。

また、体脂肪率は、脂肪が電気を通さないことから、身体の抵抗を測るものなので、電気を通す水分が失われれば、むしろ体脂肪率は上がるはず。

でも、がっくんと体脂肪率が落ちるんですよね。

しかも、体重の減少量と、体脂肪率の減少分相当の脂肪の重さの計算は合いません。

そもそも、脂肪って、そんな短時間で落ちるのかな?

有酸素運動で脂肪は燃焼しますが、有酸素運動が良いのは、その燃焼が、運動後も持続するからで、一時間そこらで何キロもは減らないのでは。

他方、翌朝には、体脂肪率がまた12%くらいに戻るわけですから、寝ている間に、脂肪がついている?

私の身体って、そんな急速サイクルで、脂肪が付いたり減ったりしているのでしょうかね(苦)

でも、webで調べても、納得いく解釈は見つかりません。。。

(奥さん曰く、足の裏の汗で変化するんじゃないの?という説もあり)

まあ、一日の中で、一喜一憂するものでもなく、気にしても仕方ないですけどね。

ではでは


現在までの変遷

「料理と散歩と仕事で海外」として、タイトルの通り、趣味の料理と散歩、そして出張する海外の情報を掲載していましたが、ハノイ赴任となり「ベトナム生活あらかると」でベトナム生活、近隣の国への旅行模様などを掲載するようになり、一時、仕事が忙しく更新が滞りましたが、2017年末に帰任し、2019年から改めて「池上優游涵泳」として、知識探求、スローライフを紹介しています。

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