理想の言葉はこんなに軽いのか 関川宗英
「自由と平等を求めてよりよい社会をつくろうとすること 『実録・連合赤軍』をめぐって」2
「1972年、かつて日本にも革命を叫び、銃を手にした若者たちがいた」
という言葉で『実録・連合赤軍』は始まる。
銃を持った若者たちが、吹雪の中、よたよとと歩いているオープニングのシーンに映し出されるテロップだ。
この吹雪の中を若者たちが歩くシーンは、警察の捜査の手が近づいてきた山岳ベースを捨てた後、あさま山荘に行き着く前の行程にあたるが、歩き続ける彼らに目指すべき目標地点はあったのだろうか。
あてもなく彷徨っているようにも見える。
『実録・連合赤軍』は、希望のない映画に観えた。
『ソドムの市』も観る人に希望を与えるような映画ではない。
しかし『ソドムの市』は、神の視線といったらいいのか、ブルジョアジーたちの狂気をじっと見ている目を感じる。
映画の中で語られる詩的な言葉が、狂気の限りを尽くしたその後、やがてやってくるかもしれない静謐な時間を感じさせる。
『実録・連合赤軍』にはそれがない。
70年安保のうねり、世界革命によって共産主義社会を実現しようという理想は、いじめのような暴力を前に崩れ去っていった。
若松孝二の『実録・連合赤軍』は、1970年頃の連合赤軍の若者たちをそのように捉えている。
この映画は、革命を夢見た若者たちを、「勇気がなかった」と泣き叫ぶ悔恨の中に葬る映画だ。
確かに、あの山岳ベースで、12人もの若者が凄惨な暴力によってその命を奪われたのは事実だ。
しかし若者たちの理想を追い求める思いは、「勇気がなかった」で語りつくせるものだろうか。
映画の中で、新しい歴史を作ろうとする言葉は、闘争に突き進む若者たちの武装の道具として使われる。
若者たちの革命の議論は、言葉の上っ面だけをなぞった、滑稽な言葉遊びにしか見えない。
1972年2月、あさま山荘。一人の女性を人質に取って、5人の若者が立てこもった。井浦新扮する若者が、人質の女性に言う。
「我々は共産主義者です。
我々の目的は、資本家の利益のために民衆を抑圧している政府権力の打倒にあります。
つまり、戦争や不平等をなくす革命のために闘っているんです」
人質の女性は、目を伏せたまま井浦新の言葉を聞いている。
さらに井浦新は続ける。
「この山荘に侵入したのは・・・、例えば・・・、デモの最中に機動隊に追われ、民家に助けを求めたようなもんなんです。」
人質の女性が、目を上げる。不安げな、しかし感情を押し殺しているような、緊張した面持ちの女性の顔。やや上目遣いに井浦新を見ている。そんな女性の顔を捉えたショットに、井浦新の言葉がかぶる。
「だから、あなたは、人質ではないんです。」
ガラス窓を割り、突然、土足で山荘に入り込んで来た若者たち。客や夫が外出している時間、一人だけ山荘にいた女性は人質となった。
山荘の外では警察が取り囲み、「人質を解放しなさい」と警告する。それに対し、若者たちが発砲する。警告の声と銃声が響く中、「あなたは、人質ではない」という若者。
人質となった女性は、この若者の言葉をどのように聞いただろう。
映画のその後のシーンは、女性の背中越しに井浦新をとらえており、女性の表情をはっきりと見ることはできない。
しかし、映画は、過激派の若者を、一般市民とかけ離れて、革命に酔いしれている存在として描いている。
武装闘争、革命を叫ぶ若者が、すでに時代社会の中で浮いていたことを端的に示す、象徴的なシーンだ。
理想を求める言葉は、こんなに軽いものだろうか。
『実録・連合赤軍』は、自由や平等を求める理想が、イデオロギー的な言葉として使われている。
おまえは共産主義化していない!、総括しろ!
「総括」って何? 何を自己批判しろっていうの?
仲間を殺すことを正当化するために、弱さを克服しろ、共産主義化しろ、「革命」の言葉が語られる。
しかし、よりよい社会を求めようとする人々の願いは、より高い次元に人を導こうとする崇高なものではないだろうか。
そんな人として尊厳を感じさせる言葉が、語られることのないまま映画は終わる。