chuo1976

心のたねを言の葉として

ついに善意やヒューマニズムを商品化してしまった

2020-12-30 05:12:51 | 映画

「飢えた子供と渇いた私」(『薔薇と無名者』1970年 芳賀書店)

松田政男

 

 飢えた子供の前で文学に何ができるだろう、と言ったサルトルに対して、秋山駿が「その問いは、文学を指差して飢えた子供がするべきなのだ。……飢えた子を材料にしながら、飢えた当の子供よりも深刻な顔をして、人間の正義を問う。それも文学をより深く問うために考える。私はこういう考え方は不愉快だ」(『新潮』六八年四月号)というアンチテーゼを提示したことを、いま、私は想起している。いま、というのはジュゼッペ・スコテ-ゼ監督の『続・鎖の大陸(苦いパン)』という記録映画を見た直後というほどの意味である。おそらく、この映画を見るすべての人びとが発するに違いないサルトル風の深刻な自省を、私は十分に予想することができる。現に、解説のためのパンフレットで、武田泰淳が「最後の場面で飢えて死んでゆく無惨な幼児を見ると、人間とはいったい何であるかとしばし考えこんでしまう」と言い、針生一郎が「地上に二十億の人類が飢え、一時間に四百人の子供が死んでゆくとき、私たちに何が出来るのかを、この映画は痛切に問いかける」と呟き、また俵萌子は「思わず〝文明とは何だろう"と考えずにはいられませんでした」と述懐している。私は秋山駿とともに、「こういう考え方が不愉快だ」と、あて言い切っておこう。
 むろん、わずかな字数で断片的な感想を書き留めたにすぎぬ惹句めいた場当たりの言辞をトッコにとられて議論を進められては、これらの善意のヒューマニストたちはさぞかし迷惑であろう。しかし私は、まさに、その善意であるとかヒューマニズムであるとかをひっかけるために、『続・鎖の大陸』のような商業用フィルムを撮り、大宅壮一によれば「人類の恥部をまっこうからあば」き、岡倉古志郎によれば「単なる見世物的な<残酷映画>ではない……告発状」を提出し、そして、まんまと、見る者の善意やヒューマニズムやらを見事に喚起することに成功したドキュメンタリストを憎悪する。『続・鎖の大陸』は行きつくところまで行きついてしまったイタリア式残酷記録映画が、ついに善意やヒューマニズムを商品化してしまったという意味においてのみ記憶されるべき作品である。
 ……
 私たちの、人間的な、余りにも人間的な眼が「正視にたえない」(俵萌子)と告白するとき、彼ら「政治的動物」の眼が私たちをまさしく「正視」している。彼らの「正視」に、私たちは、果して、耐えうるのだろうか。見られているのは、彼らではなく、私たちなのだ。私もまた、武田泰淳とともに「しばらく食事も手につかないほど」だったことを、また俵萌子のように「吐き気」にしばしば襲われたことを、率直に言おう。しかし、私はただちに、この不快な生理感覚を「人間とはいったい何であるか」とか、「文明とは何だろう」とかいった抽象的普遍的な善意とヒューマニズムの宇宙へと昇天させることを拒否したい。私の吐き気、私のめまいこそが、画面のなかの原住民たちに「正視」されているのである。彼らが私を「直視」するのだ。ここで、私はさらにはっきり言わなければならないが、彼らの視線を一身に浴びた時、私は、なんとも表現しようもない恐怖感がこみあげてくるのを押さえることができなかった。私はファノンによって告発される対象であるところの「植民者」であり、彼らの「政治的動物」に存在として敵対せざるをえない全く異質の世界の人間であるという感慨が、不快感と恐怖感の生理の谷間で、稲妻のように私を訪れたのである。

 

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