熱燗や子の耳朶をちょとつまむ 辻貨物船
かに星雲・超新星爆発 「明月記」藤原定家
後冷泉院・天喜二年四[五]月中旬(1054年5月20日~29日[6月19日~28日])以後の丑の時、 客星觜・参の度に出づ。東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。
10円玉に刻まれている平等院鳳凰堂が建てられた前の年・平安時代末期の「天喜二年(1054)」 の当時の歴で5月11日から20日の間の夜中に、 超新星又は彗星(客星)が、オリオン座(觜・参)の東に見えた。 おうし座ζ星(天関星)付近で、大きさは木星(歳星)ほどだった。(http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktjpm1.htm)
1054年に現れた超新星の残骸「かに星雲」。藤原定家が明月記に記した=NASA提供
「武器密輸の証拠」 『ダーウィンの悪夢』その後2 関川宗英
映画『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)を、酷評するレポート。(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(2)」阿部 賢一 2007年3月17日 http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1031.html)
このレポートは、当時のタンザニア大統や外務大臣の『ダーウィンの悪夢』に対する抗議のコメントとともに、この映画にはタンザニアへの武器密輸の証拠は「どこにも出てこない」と非難していた。
しかし、映画の中では武器がムワンザ空港持ち込まれているという証拠は登場する。
①町の画家、②新聞記事、③取材記者の三つのシーンが映画には盛り込まれている。
YouTubeで、NHKBSの『ダーウィンの悪夢 アフリカの苦悩(前・後編)』が見られるので、確かめた。
https://www.youtube.com/watch?v=Dl_xCfHg3iY&t=5239s
①町の画家のシーン
町の人の生活を記録しているという画家、ジョナサン。彼は、タンザニアのムワンザ空港にやってくる飛行機の絵を示しながら言う。
飛行機が何を運ぶのかは知らない。でも、いつだったか、国連の大型輸送機がアメリカからの支援物資を大量に積んできたことは覚えている。
ある時、ヨーロッパから魚を運ぶと言って、一機の飛行機が飛んできた。
ところが機内に入った兵士たちが大変なものを発見したんだ。大量の武器があった。
政府は武器の行き先を知らなかった。パイロットの話ではアンゴラ向けとのことだった。それで大統領が追及された。
ラジオと新聞で報道されていた。テレビでも。
②新聞記事
「タンザニアの公安警察の幹部が、ナイルパーチ輸送のロシア機による武器輸出の共犯者として告発された」という新聞記事。
映画の中で新聞記事を読んでいるのは、国立水産研究所の警備をしているラファエルと思われる。
③取材記者
武器密輸の記事を取材した記者リチャード・ムガンバ。映画の終盤、彼は赤裸々に、武器密輸の実態を語っている。
以上三つのシーンで、武器密輸の実態が映画には登場する。
『ダーウィンの悪夢』は、グローバリズムがもたらす貧困の問題やアフリカ紛争のための武器密輸の疑いを告発する映画だ。確かに、密輸された武器そのものが登場するわけではない。また、政府側の人間が武器密輸を語るシーンも勿論ない。しかし、アフリカの闇、南北問題の深さを抉り出そうと訴えかける力を持っている。
だが、『ダーウィンの悪夢』を批判する阿部賢一氏は、この映画は疑いを匂わせるだけだと喝破する。彼のレポートには次のような記述がある。
(『ダーウィンの悪夢』は)いかにもムワンザに往路で武器を運んでくる貨物機が復路でナイル・パーチを運んで飛び立つことをこの映画の背後に匂わせているドキュメンタリーである。
しかし、ザウパーのHPにも、その空港が『ダーウィンの悪夢』の舞台であるムワンザ空港だとはどこにも書いていない。
しかし、『ダーウィンの悪夢』では、そう思わせるような構成となっている。
(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(1)」阿部 賢一 2007年3月17日
http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1030.html)
阿部賢一氏のレポートは10本もあり、今もネットで見ることができる。彼のレポートを読んでいると、映画に登場した町の画家や新聞記者は、監督の抱く「疑い」に沿って、監督の喜ぶような発言をしていたというふうに思えてきてしまう。
果たして『ダーウィンの悪夢』は、疑いを匂わせるだけの、不誠実な映画なのだろうか。
(「「ヨーロッパ人受けのするストーリー」 『ダーウィンの悪夢』その後3」 に続く)
死の別れがあっても、これまでの関係はなくならない
1月11日 朝日新聞21面
東京・吉祥寺に「夏葉社」という小さな出版社がある。編集経験ゼロで出版社を設立し、編集、営業、事務などをたった1人でしているのが著者だ。
自らの歩みを振り返りながら、「仕事とは何か」をつづった。
創業して10年。庄野潤三の小説選集など復刊を含めて35点の本を出してきた。「何十年先も残るもの」を意識し、装丁の美しさも大切にしてきた。
キャッチーな言葉を並べ、発売から数か月を勝負とする本とは一線を画する。理想形は『アンネの日記』だという。「屋根裏部屋で書いた彼女のような小さな声を拾い、時代を超えて届けられることが、本の元来の役割だと思う」
1人の誰かに手紙を書くように本をつくる。知り合いの書店員、読者の顔や趣味嗜好を想像する。基本的に初版は2500部と多くなく、巨利は生めない。
子育てもあり1日約5時間労働。それでも、家族4人で暮らせている。「経営のノウハウはない」とも言う。なぜこのような働き方で生活できるのかは、本書に譲り、ここではその志を紹介する。
作家志望で、27歳までフリーターだった。いくつかの会社に勤めたが続かず、転職活動は50社連続で不採用。
31歳の時、親友だった1歳上のいとこが急死した。失意の中で出会ったのが、英国の神学者の詩だ。
死の別れがあってもこれまでの関係はなくならない、と勇気づける1遍の詩を本にして、叔父と叔母に贈ろうと夏葉社を創業した。『さよならのあとで』と題して刊行した。
約2年前、この本を「200冊下さい」とメールがきた。送り主は、中学1年だった娘を授業中に亡くした母親。
亡くなった娘を思い続けてくれた同級生たちに、卒業式の日に本を贈りたいからだという。
「本が何万部売れたことよりも、こうした思い出が僕の生きがいなんです」