What A Wonderful World

毎日の暮らしの中で、心惹かれたことを語ります。

私は考える・3 同じような「トンデモ科学」について

2006年12月01日 14時25分57秒 | 日常
○ゲーム脳の恐怖

~だから、私の考えでは、著者は「ノーマル脳人間タイプ」の脳波パターンの解釈を完全に間違えている。ゲームに慣れていない人は、プレイの仕方を体に覚え込ませていないので、余分な言語的プロセスが働いている。それが、β波が低下しないことの意味である。楽器演奏の例で考えてみれば、この実験は、たとえばフルートを吹いたことがない人とフルート演奏に熟練している人にフルートと楽譜を渡し、「さあ吹いてみてください」と言って、そのときの脳波の状態を調べているようなものだ。たぶん、ゲームの場合と同じように、前者はβ波が低下せず、後者は低下するだろう。
(中略)
 そのことと、β波が低下する状態が、人間の脳の長期的な成長と発展にネガティブな効果を与えるかどうかは、また別の問題である。著者は、そのような状態がネガティブであると考えているが(だから「ゲーム脳」について警告しているわけだ)、その根拠はよくわからない(それが痴呆者の脳波の状態と似ている、というのは何の根拠にもならないのは当たり前のこととして)。仮に、本当にそうだとしたら、楽器演奏とか瞑想とか思索一般とかジャグリングとか精神集中型のスポーツとか計算問題とかも、青少年には有害であるという結論が出てくるだろう。いやまあ、本当にそうなのかもしれません。

>wad's 読書メモ「ゲーム脳の恐怖」 http://www.ywad.com/books/1276.html

○100匹めの猿

100匹目の猿の誤解

猿は芋を食べません!
変だと思うかも知れませんが、猿害に悩む地方の実情を見て下さい。
地上に生っているか生えているものしか猿は食べないのです。
従って、人間が芋を掘って猿に与えない限り猿は芋を食べ(られ)ません!
では、なぜお話の猿は芋を食べたのでしょうか?
それは、人が芋によって猿の餌付けをしたからです。
芋によって餌付けをされた猿の集団の内の一匹が芋を海水で洗って食べることを覚え、その文化が集団内に伝承したのです。
全く無関係の猿の集団でも同様な事が起こりました。
結論は、「こんなことくらい猿でも気付く!」です。
芋を海水で洗って食べることに気付く期間の誤差が、最初の猿の集団で最初の一匹目から100匹目が覚えるまでなのです。
二つの猿の集団は、猿の餌付けに成功したときから芋を食べる歴史が始まったのですから、ほぼ同時期に芋を海水で洗って食べることを覚えても何の不思議もありません。
ごく当たり前な事なのです。
一匹目から100匹目をカウント出来たのも、餌付けに成功したから出来たのです。
他の猿の群れで、芋を海水で洗って食べることを確認出来たのも、餌付けの成果です。
当然ながら、芋を食べない普通の猿の群れや、芋で餌付けをしても海水に無縁な猿の群れには何も起こりません。

「ある閾値を超えたら世界が変わる」という根拠は全く存在しません。by ウラン

>Emmery Annexさん http://blog.so-net.ne.jp/emmery/2005-07-31
(”100匹目の猿”という記事に対してついたコメントなんですが、ここまで言い切るウランさんが好ましかったので。)

○奇跡の詩人

 テレビを見ての感想。「なんかヘンじゃない?」ってところだったけど、そんなに問題意識を持っていたわけじゃない。ただ、掲示板とかを読んでみて、問題点を整理してみると、ちょっと気にはなるって感じ。

【専門的裏づけが乏しい】
 番組の中に主治医が出てこないのはなんでだ?というのがある。主治医じゃなくても、神経内科あたりの医者を出すべきだったんじゃないのか?と、思うのだけど、どうも最初から医学的な視点がこの番組には欠けているんである。自分もまーったく知らない世界の人間ではないのだが、たとえば文字盤で会話する障害者・病人は事実としているのだけど、やり方が全然違う。普通は本人が指や道具で指し示すもので、ママが手を取って動かしたりしないし、あんな会話スピードもまあ無理。とはいっても、そういう例がないと自分が断言できる自信もないけど、2chの病院板の医者でも支持してる人ほとんどいないじゃんよ。そんなとんでもないことを放送するのに専門家が出てこないなんて絶対ヘンだってば。

【責任はマスごみかな】
 変わったことをやるのにいちいち裏づけがいるわけじゃないとは思うんだけど、それを国民の受信料を集めている公共放送が大々的に流しちゃう責任はあるんだろう。テレビに出れば本が売れる、出版社もうれしいし、印税をもらう人もうれしい。でも、それでいいのか?NHKにしても、本の出版元の講談社にしても、なぜ「ほんとかな?」と一歩ひいて考えることができなかったんだろう。いや、そうでなくて、たとえ鵜呑みにしても、それならそれなりに客観的な報道や宣伝の姿勢をとることがなぜできなかったんだろう。やっぱり後味が悪い。

【踊らされる奴も悪いか】
・・・しかし、やはり本は売れるんだな。現在、どこのWEB書店でも本がガンガン売れまくってる。それでいいのか?たとえば、「月のメッセージ」執筆時の筆者は8歳という計算になるが、この本の目次を見てほしい。
▼あなたはだれですか?―他人の目が気になる人へ
▼何をしたいの?―勇気が持てない人へ
▼失敗することはいけないことですか?―失敗を恐れている人へ
▼肩に力が入ってはいませんか?―無理をしている人へ
▼悩んでいる原因は何ですか?―悩んでいる人へ
▼傷ついたのはあなたの心ですか?―怒っている人へ
▼何があったのですか?―落ち込んでいる人へ
▼起きてしまった事は何でしょう?―悔やんでる人へ
▼嫌いだからけんかをするのですか?―けんかをしてしまった人へ
▼暗闇に独り残された子どものように寂しい気分―寂しい気分の人へ[ほか]

この本が「30歳半ばの女性ライター」とかいうのなら、まだわかるが「8歳の少年」にこんなお説教をされて感動している人たちは、それが真実である、なし、以前の問題としてヘンだと思うんだが・・・。

(中略)
【障害者の家族】
 何度も2chで指摘されていることだが、今回の疑惑が黒だったとしても、本人の罪ではなく、責任は親にあるということになる。自分的には19世紀ヨーロッパの「自動書記」なるヒステリー現象に似ているんじゃないかと思っていて(この案、無断借用するなよ)、だとすると、書記をやっている人には自覚症状はなくて無意識に操られているのではないか・・・。そう考えると、仮にクロだったとしても、あまり責める気もしない。
 家族で抱え込み、というのかな、「うちの子は本当は○○なんです!」系の親を今まで結構見てきてるので、そういうのって、特別じゃないのかもしれないと思うこともある。特別じゃなくても、キモいものはキモいのだが・・・。

>NHKスペシャル「奇跡の詩人」について http://www.geocities.com/kisekinosijin/

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私は考える・2 「水からの伝言」について

2006年12月01日 14時25分33秒 | ブログ
>「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

1. 明白にニセ科学であること

 写真の「結晶」は本物です。しかし、結晶の形が言葉に影響されるという主張は嘘なのです。音楽にも影響されません。江本氏らは「科学的にはまだ証明されていない」というますが、そうではなく、科学的には完全に否定されています。結晶の形は温度と過飽和度で決まることは、中谷宇吉郎が人工雪の実験で示しました。これは世界的に知られたすぐれた業績です。また、水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質なので、言葉の「意味」に反応することはありえません。
 ニセ科学を事実であるかのように教えることは、理科教育と完全に相反します。理科離れが叫ばれる今、ニセ科学を学校の場に持ち込むことには慎重であってほしいと希望します。ちなみに、「水からの伝言」は所詮は江本グループが展開する「波動ビジネス」の一部です。

(中略)

参考までに、授業に取り入れられてしまいそうなその他のニセ科学
すでに授業に取り入れられているものも含みます

ゲーム脳の恐怖
脳内革命
100匹目の猿
EM菌 (効果がないわけではないのが難しいところ)
奇跡の詩人

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 上記で菊池さんが「ニセ科学」としてあげられた内で、「100匹目の猿」と「脳内革命」については読んで知っていました。「ゲーム脳」もつい最近随分騒がれましたね。ただ「EM菌」と「奇跡の詩人」については、まったく知らなかったです。

 私は「トンデモ本」を読み物・お話として個人が愉しむぶんには、かまわないと思います。ですが、一般論としてその主旨の裏側には色々な思惑が潜んでいるのを理解した上で、です。でも、この「当然の判断」が作用しない時代になって来ています。「何かおかしい」と思う感覚、それがこんなにもあやふやな事が怖いです。それと同時に、こんなにも真摯な態度で、私にも判るような言葉で、お話して下さった”「水からの伝言」を信じないでください”を書かれた田崎先生に、人としての誠意を感じて、安心しました。

 以下は、11月9日の田崎先生の日記の一文です。

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 基本的な趣旨は「中学生にも気楽に読める『水からの伝言』の批判」ということ。もちろん、ただヒステリックに批判するのじゃなく、「水からの伝言」について考える中で、科学とは、どういうものかなどをじっくり説明することを目指している。
内容は、これまで「水からの伝言」についての分析、批判を、ほぼ集大成して、かみ砕いたものだと思っている。ただし、文章の性格上、誰かの隠れた意図を推測した上での批判とか、説得のための戦略にかかわる点は、いっさい論じていない。

短い分量ではないのだが、書いてみて、自分でも感無量なのは、大人になってから、ここまでオリジナリティーの低いものを書いたのは初めてだということ。「実験」の分析、実例の収集、批判の論点の整備、web などを通じた「信じている人たち」との対話の試み、などなど、菊池さんや天羽さんをはじめとする多くの人たちが積み重ねてきた材料を、平易な文でまとめるのが、ぼくの唯一の仕事だったと言っていい。本業にたとえれば、菊池さんや、天羽さんが、長年の研究の成果を、学会で単発で発表したり、プロシーディングスに書いたりと、ばらばらに書き散らしていたのを、ぼくがやってきて勝手にフルペーパーにしてしまったような物だ。なんてひどい奴だ!

とはいうものの、これは研究とはまったく別の活動なのだ。書くものにオリジナリティーを求めたり、苦労して調べた人(菊池さんは、「実験」の解釈のため、何度もビデオを見なおし、北大の低温研にまで議論に行ったのだ!)にのみ発表の権利があるとか言い出すと、本来の啓蒙活動がちっとも進まなくなる。ここは、がまん。オリジナリティーがなくても、分業の精神で、ぼくがまとめを書こう。そう決心して、これを書くことにしたのだ。

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 偶然にもお邪魔したブログさんで、管理人さんとコメントされる方々とのお話を通して、まったく知らなかった「今の時代の一つの流れ」を知りました。それによって凄く考えさせられましたし、もっともっと広い視野を持たなくては、と改めて感じる事が出来ました。

まだまだだ!

 
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私は考える 「水からの伝言」ご存知ですか?

2006年12月01日 13時59分25秒 | 日常
>「水からの伝言」を信じないでください http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

>あきらけいすけの雑記 http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20061112

○「水からの伝言」を読まれた方、教材として使った方に聞きます

「きたない」とされた氷の結晶がかわいそうだと思わないのですか?

「きたない」とされた氷の結晶に美しさを探してあげようとしたことはないのですか?

「きたない」とされた氷の身になって考えてください。これは「いじめ」ではありませんか?これを信じてこれを教材に使う先生も親も、自分のやっていることが「いじめ」につながる、いや「いじめ」そのものだと気が付かないのですか?相手が「水」「氷」ならゆるされるのですか?自分の気持ちを理解してくれる相手ではないのですか?

そもそも氷の結晶に「きれい」「きたない」があるのでしょうか?どれもみな個性的で光を当てればキラキラと輝く美しいものではないでしょうか?氷の結晶をながめることで「きれい/きたない」「善/悪」の単純な二分法ではなく、

いろいろな形の氷の結晶があり、よくみればどれもみな美しさをもっているように、世の中にはいろいろな人がいて、どれもみな個性的でキラキラと美しいものだ。だからどんな人でもじっくりとつきあって、その人のよさを見つけようとしないといけない

と教えようではありませんか。

江本氏は自分の本は科学ではなくファンタジーだと言います。しかし氏の本が植えつけるものは、自分の主観的な善悪に基づいた独善でしかありません。そこには相手を積極的に理解し、認知し、多様性を互いに認め合う心が欠けています。

「水からの伝言」は、相手をよく見て、相手を理解しようと努めることをやめています。そして自分のこころに浮かんだ善悪と対象を単純に結びつけているところは、9.11のテロリストやその後の某国と変わりないのではないでしょうか。

「水からの伝言」を教材に使うのは止めていただけませんか?いじめ、差別の温床がはびこることに耐えられません。

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>リヴァイアさん、日々のわざ http://ttchopper.blog.ocn.ne.jp/leviathan/2006/11/post_bb19.html#more

~それはそれとして、「水からの伝言」と田崎教授のウエブサイト、すぐに連想したのが生物進化と(科学的)創造説(Scientific Creationism)の問題です。

川端さんは当然ご存知でも、日本ではあまり認知されていないようなのであえて説明しますが、アメリカでは多くの人が生命の起源と異なる生物種の誕生に神が何らかの形で関与したと考えています。現生の生物種は神が作ったとか、世界は聖書にある通り6日で作られたと本気で考える人も少なくありません。

アメリカにはBible Beltという呼称すらありますが、宗教色の強い地域では、進化論を学校で教えないようにする、あるいは進化論はまだ「仮説」であって生物進化にはなんらかの知性的・理性的存在が関与した(intelligent design)という考え方も仮説として考えられると言う相対的な位置づけを生物学の教科に組み入れるよう、法的な手続きをとろうと言う試みまで行なわれているのです。

「水からの伝言」の場合は、一過性の社会現象として片づけられるかもしれませんが、アメリカの創造説の場合根が深い。まず信仰との対立ですから同じレベルでの議論が難しい。科学もひとつの信仰という言い方がありますが、そうすると宗教的な対立とも言えます。(ちなみにアメリカ社会における宗教の意味と言うのは日本では考えられないくらい大きい。)

しかも、全然寺さんのコメントとも関連しますが、進化論を扱っている教科書は使いたがらないと言う州が出て来た結果、教科書出版社は売り上げを確保するために進化論そのものの記述を生物学の教科書から抜いてしまう。そういうことがはじまってもう何年も経っています。他所の州やコミュニティで進化論に触れていない教科書を採用すれば、波及効果は広がっていくわけですからこれはおそろしい。


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