以前、「オマエは効率性信者か」みたいな誤解を招いたので(「成長」は耳ざわりが良すぎるか)、お断りしておきますが、私は効率至上主義者ではありませんし、「農業はイラネ」派でもありません。むしろ、情緒系というか、感傷的なものに賛同する部分を結構持っているんじゃないかと思います(笑)。それに、農業そのものに期待している部分があります。ただ、今の日本というか、自分たちが住んでいる環境、これまでの経験、そういったものから影響を受けるので、色々と難しい部分があるのかもしれない、とは思っています。
前に「アーミッシュ」の話をちょっと書いたのですが、これと同じようなものかもしれません。もしも、「アーミッシュ」が自分の世界の全てで、他の知識も情報もなければ、一生を「アーミッシュ」として過すしかないでしょう。それ以外の選択肢がないのですから。それ以外に、自分の世界を持っていないのですから。でも、「外の世界」があると知ってしまったり、もっと他に何かを得よう・達成しよう、ということになれば、「アーミッシュ」の世界には満足できず、外の世界へ旅立ってしまうのかもしれません。人類の歴史の中では、こうした「冒険心」に富む荒くれ野郎(笑)が多く誕生してきたので、生活圏というかテリトリーを拡大し、数も増えていったのではなかろうか、と思っています。
生き物で見れば、じっと動かないことで生存を図ろうとする選択も有り得ます。どうしてそれを選んだのかは判りませんが、偶然その戦略を選んだ生き物が生存競争に残ってきたということでしょう。簡単な例では、「植物」があります。樹齢千年を超える老木もあるし、日本でも数百年の松とか、屋久杉なんかがあります。移動して勢力圏を拡大し、常にエサの獲得競争に勝っていくというようなことをしなくとも、こうした植物は「長く生き延びる」ということが可能であったわけです。これから1万年後であっても生き延びているかは不明ですけれども、今までのところはその選択は生物としては「間違っている」ということでもない、ということです。数百年以上生きている木というのは、短時間の観察だとハッキリと目に見えて判る程の変化がないのですが、それでも極々僅かかもしれないが、ほんの少しずつ成長していき「大きくなる」ということです。そして大木に成長するのですね。いずれその限界点は訪れるのかもしれませんけれども。
こうした大きな木は、動物なんかに比べると変化に乏しく、動かないことで生存してきたということでしょう。これはまるでアーミッシュの小さな集落のようなものではないかと思えます。数百年の間、生活環境を変えないこと、変化をできるだけ小さくすること、それを行うことで生存を図るという選択ですね。でも、これを選ぶと、集落の人数は一定以上に多くなれません。多くなりすぎると、集落の生産物では支えきれないからです。食べ物を多く獲得できない限り、増えすぎることは害悪になってしまいます。もしも人類が全員アーミッシュのような生活を守り続けてきたとすれば、人口はあまり増えず、住んでる世界も狭い範囲でしかなかったかもしれませんね。きっと日本なんかには、誰もやってこなかったでしょう(笑)。でも、動物の行動様式としては、恐らく違うだろうと思います。
寧ろ言葉、知識や宗教といった「人工的」な何かを獲得したが為に、敢えて「不自然」な植物的生活を選んだのではないでしょうか。その選択の良し悪しというのは、誰にも判りません。植物が良くて動物が悪いとか、どちらが正しくどちちが間違っているとか、それが判らないのと似ているように思えます。
幸福度の世界ランキングなどがありますが、日本は確か90位でした。上位は北欧の小国が割りと多かったように思います。日本は豊かではあるけれども、生き難い面があるのかもしれません。中国でさえ(笑、他意はありません)82位ですからね。何かを知ってしまう、外の世界と情報が移動する、ということによって、人々の幸福度は変わってくるのだろうと思います。知らなければ、それは普通だからです。「閉ざされた世界」で生き続けることができれば、あまり不幸を感じることなく、老木のように生存が図られる可能性はあるのかもしれませんが、実際どうでしょうか。
仮に、ある孤島があるとしましょう。外界とは全く隔絶されて、誰もやってこない島です。そこには人が住んでいて、自給自足で生活しているとします。電話やテレビは勿論のこと、電気もなければ水道もありませんが、人々は家の周囲の簡単な畑で作る野菜やイモ類で十分食べていけるし、時には魚を獲りにいったり、山の木の実なんかを食べたりして生きています。衣服は粗末な布でできているが、着ることはできるので不自由することはありません。年中気温が温暖なので暖房も必要ありません。水は湧き水や川の水を利用しています。時々物々交換で何かを手に入れることはあるかもしれません。このような生活をしたいかどうかは別として、その島の住人たちは不幸だと思うことがそれほど多くはないでしょう。肥満もないし、メタボリックシンドロームに頭を悩ませることもないし(笑)、食品添加物やら身の回りの化学物質に過剰に敏感にもならずに済むし、うつ病の人もまず見ないし、過労死や自殺者なんて誰もいません。泥棒もいないのです。こういう世界が十分「幸せだ」と感じる人々がいたとしても、不思議ではありませんよね。
全く何も知らなければ、この島で生きていくことは普通なのです。そして、毎日食べられて生きていけるならば、それが幸せであると感じられる、ということでもあります。実際、そうやって生きている人たちは今でもいますよね。でも、知らないだけに過ぎない部分もあるし、未来永劫この環境で生存が可能かどうかは不明な面が有り得ます。例えば、島に伝染病が大流行しても、病院もなければ医者もいないので、昔ながらに祈るか薬草らしきものを与えるかくらいしかできないのです。運が悪ければ、全滅してしまうかもしれませんよね。最近日本で問題に取り上げられる、出産に伴う異常事態であっても、何もできないため死産や母体死亡などが起こってしまうかもしれません。現代の医療水準ならば、かなりの確率で救命できそうな病気であっても、治療はないのが当たり前ですから止むを得ないのです。そういうリスクを当然受け入れなければならないのです。他にも、超大型台風が来て島に壊滅的な被害をもたらし、食糧がなくなってしまうかもしれませんし、長期の雨不足で水がなくなることもあるかもしれません。そういう生存に関わる自然の変化は起こるので、それを乗り越えることが必要なのです。人口が少ない中で出産を繰り返し続ければ、数百か数千世代後かに問題のある遺伝子が固定的に残される可能性だって有り得るかもしれません。幸福感とは別な問題が起こるかもしれない、ということです。
人間というのは「知る」ことの為に、非常に多くの能力を投入してきたのではないだろうか、とも思います。山の向こう側はどこにつながっているか、海の向こうはどうなっているのか、星空には何があるのか、そういうことを延々と続けてきたのではないかと思います。はるか彼方の場所に移動していったり、どうやって辿り着いたのか知らないが、大陸からは遠く離れた島に住んでみたり、そういう色んなことをやってきたのですね。新たな生活地域を捜し求め、世界中に散っていったわけです。そういう拡散がなく、固定的な場所でのみ生活していたとすれば、ひょっとすると人類は途中で死に絶えていたかもしれません。大きな天変地異があったり、伝染病のような何かの災厄があったりすれば、全滅してしまったかもしれません。でも、世界各地に分散していたお陰で、どこかの誰かが生き延び、食糧を多く獲得しようと努め、人口を増やしていけたのかもしれません。こうした行動、選択というのは、生きるための本能的なものであり、きっと人工的な世界ができる以前では(勿論お金などない世界だ)、単純に「現状に留まる」「定常状態を続ける」というのは死をもたらしかねない、滅亡を意味するものであったのかもしれません。
今の日本で、地方を切り捨てるな、とか言ったりしますが、上述したような「隔絶された島」の如く生活できれば、「閉じられた集団」だけで生活は可能です。あれ程不便ではなくてもいいので電気や水道はあってもいいでしょうけど、自分たちの中だけで殆どの需給を満たせるように生活すればいいのです。電車も車もないし、東京に行ったり海外旅行に行ったりもできないし、便利な電化製品もあまり持てないかもしれませんが、それなりに生活は可能です。誰も訪れない山村で目ぼしい産業はないでしょうから、農業が大事なのであれば農業をやって、そこから得られたものを食べ、収入を得て生きていくことは可能です。それを不幸せなのだ、と言ってしまうのであれば、「どういう生活を求めているのか」ということが問題になってきます。アーミッシュはそれで生活しているのです。幸福度の高い地域では、日本のような生活水準ではないところなど沢山あるのです。
そういう生活はイヤだ、もっと都会的な暮らしをしたい、ということであるならば、「閉じられた集団」のような生活を捨て去るしかありません。「閉じられていない」ということは、今のようなグローバル化が進んだ生活の中にわざわざ飛び込んでいく、ということです。自分の思「閉じられた集団」の生活様式だけを得ようと思っても、それは難しいでしょう。どちらかを選ぶしかないと思います。老木のように、長年じっと動かず変化を小さくして生きるか、動物のように動き回り、エサを求めて歩いていくか、選択するしかないのです。エサが少ない場所では必然的に多くの人口を支えきれず、もしもある程度数がいるのであれば、平均的に見れば「腹ペコ」の人たちが増えるに決まっています。都会と同じような生活を維持することは難しく、エサ(=収入)の量や質に合わせて生活する以外にないのです。それか、エサの多い地域を求めて、「冒険の旅」に出るべきでしょう。過去の人類の祖先は、同じく移動していったのではないかと思います。
ヒマラヤ山脈のてっぺんの方にも、舗装道路を作って欲しい、便利な温泉付きのホテルを作ってくれ、鉄道も引いて毎日定時運行させて欲しい、とか、要望は色々出せるわけです。でも、あまり現実的ではありませんよね。そこには、採算を取れるだけの需要がないのですから。鉄道があれば、それは便利かもしれませんが、ごく僅かの利用者の為に大赤字を続けることは困難なのです。これは止むを得ないのです。少数者の利益の為に、多くの国民がそれを受け入れる、ということであるなら、それはそれでいいでしょう。けれども、大多数の国民がそれを許容できない、ということであるなら、止めるしかないのです。
「農業を守れ」というのは、気持ちは判ります。私も守れたらいいな、とは思いますよ。でも、誰がどうやって守るのか、考える必要があると思います。随分遠い未来なのかもしれませんが、いずれ世界人口を支えるのに食糧戦略というのは出てくる可能性があります。今の資源価格上昇に近いかもしれません。鉄鉱、石炭、原油、等々、いずれも付加価値の低いと思われていた一次産品なのであり、その供給を握っていることで産油国や資源大国は多額の外貨を獲得することができました。将来には途上国の発展に伴い、食糧供給は逼迫するかもしれず、そうなれば国外から大量に輸入できなくなってくる(海外産品が割高になる)可能性はあります。その時には国内生産の割合は自然と高くなり、国産品が十分競争力を持つかもしれません。それまで待てるかどうかは判りませんけれども。
用事で退席しますので、とりあえず。
前に「アーミッシュ」の話をちょっと書いたのですが、これと同じようなものかもしれません。もしも、「アーミッシュ」が自分の世界の全てで、他の知識も情報もなければ、一生を「アーミッシュ」として過すしかないでしょう。それ以外の選択肢がないのですから。それ以外に、自分の世界を持っていないのですから。でも、「外の世界」があると知ってしまったり、もっと他に何かを得よう・達成しよう、ということになれば、「アーミッシュ」の世界には満足できず、外の世界へ旅立ってしまうのかもしれません。人類の歴史の中では、こうした「冒険心」に富む荒くれ野郎(笑)が多く誕生してきたので、生活圏というかテリトリーを拡大し、数も増えていったのではなかろうか、と思っています。
生き物で見れば、じっと動かないことで生存を図ろうとする選択も有り得ます。どうしてそれを選んだのかは判りませんが、偶然その戦略を選んだ生き物が生存競争に残ってきたということでしょう。簡単な例では、「植物」があります。樹齢千年を超える老木もあるし、日本でも数百年の松とか、屋久杉なんかがあります。移動して勢力圏を拡大し、常にエサの獲得競争に勝っていくというようなことをしなくとも、こうした植物は「長く生き延びる」ということが可能であったわけです。これから1万年後であっても生き延びているかは不明ですけれども、今までのところはその選択は生物としては「間違っている」ということでもない、ということです。数百年以上生きている木というのは、短時間の観察だとハッキリと目に見えて判る程の変化がないのですが、それでも極々僅かかもしれないが、ほんの少しずつ成長していき「大きくなる」ということです。そして大木に成長するのですね。いずれその限界点は訪れるのかもしれませんけれども。
こうした大きな木は、動物なんかに比べると変化に乏しく、動かないことで生存してきたということでしょう。これはまるでアーミッシュの小さな集落のようなものではないかと思えます。数百年の間、生活環境を変えないこと、変化をできるだけ小さくすること、それを行うことで生存を図るという選択ですね。でも、これを選ぶと、集落の人数は一定以上に多くなれません。多くなりすぎると、集落の生産物では支えきれないからです。食べ物を多く獲得できない限り、増えすぎることは害悪になってしまいます。もしも人類が全員アーミッシュのような生活を守り続けてきたとすれば、人口はあまり増えず、住んでる世界も狭い範囲でしかなかったかもしれませんね。きっと日本なんかには、誰もやってこなかったでしょう(笑)。でも、動物の行動様式としては、恐らく違うだろうと思います。
寧ろ言葉、知識や宗教といった「人工的」な何かを獲得したが為に、敢えて「不自然」な植物的生活を選んだのではないでしょうか。その選択の良し悪しというのは、誰にも判りません。植物が良くて動物が悪いとか、どちらが正しくどちちが間違っているとか、それが判らないのと似ているように思えます。
幸福度の世界ランキングなどがありますが、日本は確か90位でした。上位は北欧の小国が割りと多かったように思います。日本は豊かではあるけれども、生き難い面があるのかもしれません。中国でさえ(笑、他意はありません)82位ですからね。何かを知ってしまう、外の世界と情報が移動する、ということによって、人々の幸福度は変わってくるのだろうと思います。知らなければ、それは普通だからです。「閉ざされた世界」で生き続けることができれば、あまり不幸を感じることなく、老木のように生存が図られる可能性はあるのかもしれませんが、実際どうでしょうか。
仮に、ある孤島があるとしましょう。外界とは全く隔絶されて、誰もやってこない島です。そこには人が住んでいて、自給自足で生活しているとします。電話やテレビは勿論のこと、電気もなければ水道もありませんが、人々は家の周囲の簡単な畑で作る野菜やイモ類で十分食べていけるし、時には魚を獲りにいったり、山の木の実なんかを食べたりして生きています。衣服は粗末な布でできているが、着ることはできるので不自由することはありません。年中気温が温暖なので暖房も必要ありません。水は湧き水や川の水を利用しています。時々物々交換で何かを手に入れることはあるかもしれません。このような生活をしたいかどうかは別として、その島の住人たちは不幸だと思うことがそれほど多くはないでしょう。肥満もないし、メタボリックシンドロームに頭を悩ませることもないし(笑)、食品添加物やら身の回りの化学物質に過剰に敏感にもならずに済むし、うつ病の人もまず見ないし、過労死や自殺者なんて誰もいません。泥棒もいないのです。こういう世界が十分「幸せだ」と感じる人々がいたとしても、不思議ではありませんよね。
全く何も知らなければ、この島で生きていくことは普通なのです。そして、毎日食べられて生きていけるならば、それが幸せであると感じられる、ということでもあります。実際、そうやって生きている人たちは今でもいますよね。でも、知らないだけに過ぎない部分もあるし、未来永劫この環境で生存が可能かどうかは不明な面が有り得ます。例えば、島に伝染病が大流行しても、病院もなければ医者もいないので、昔ながらに祈るか薬草らしきものを与えるかくらいしかできないのです。運が悪ければ、全滅してしまうかもしれませんよね。最近日本で問題に取り上げられる、出産に伴う異常事態であっても、何もできないため死産や母体死亡などが起こってしまうかもしれません。現代の医療水準ならば、かなりの確率で救命できそうな病気であっても、治療はないのが当たり前ですから止むを得ないのです。そういうリスクを当然受け入れなければならないのです。他にも、超大型台風が来て島に壊滅的な被害をもたらし、食糧がなくなってしまうかもしれませんし、長期の雨不足で水がなくなることもあるかもしれません。そういう生存に関わる自然の変化は起こるので、それを乗り越えることが必要なのです。人口が少ない中で出産を繰り返し続ければ、数百か数千世代後かに問題のある遺伝子が固定的に残される可能性だって有り得るかもしれません。幸福感とは別な問題が起こるかもしれない、ということです。
人間というのは「知る」ことの為に、非常に多くの能力を投入してきたのではないだろうか、とも思います。山の向こう側はどこにつながっているか、海の向こうはどうなっているのか、星空には何があるのか、そういうことを延々と続けてきたのではないかと思います。はるか彼方の場所に移動していったり、どうやって辿り着いたのか知らないが、大陸からは遠く離れた島に住んでみたり、そういう色んなことをやってきたのですね。新たな生活地域を捜し求め、世界中に散っていったわけです。そういう拡散がなく、固定的な場所でのみ生活していたとすれば、ひょっとすると人類は途中で死に絶えていたかもしれません。大きな天変地異があったり、伝染病のような何かの災厄があったりすれば、全滅してしまったかもしれません。でも、世界各地に分散していたお陰で、どこかの誰かが生き延び、食糧を多く獲得しようと努め、人口を増やしていけたのかもしれません。こうした行動、選択というのは、生きるための本能的なものであり、きっと人工的な世界ができる以前では(勿論お金などない世界だ)、単純に「現状に留まる」「定常状態を続ける」というのは死をもたらしかねない、滅亡を意味するものであったのかもしれません。
今の日本で、地方を切り捨てるな、とか言ったりしますが、上述したような「隔絶された島」の如く生活できれば、「閉じられた集団」だけで生活は可能です。あれ程不便ではなくてもいいので電気や水道はあってもいいでしょうけど、自分たちの中だけで殆どの需給を満たせるように生活すればいいのです。電車も車もないし、東京に行ったり海外旅行に行ったりもできないし、便利な電化製品もあまり持てないかもしれませんが、それなりに生活は可能です。誰も訪れない山村で目ぼしい産業はないでしょうから、農業が大事なのであれば農業をやって、そこから得られたものを食べ、収入を得て生きていくことは可能です。それを不幸せなのだ、と言ってしまうのであれば、「どういう生活を求めているのか」ということが問題になってきます。アーミッシュはそれで生活しているのです。幸福度の高い地域では、日本のような生活水準ではないところなど沢山あるのです。
そういう生活はイヤだ、もっと都会的な暮らしをしたい、ということであるならば、「閉じられた集団」のような生活を捨て去るしかありません。「閉じられていない」ということは、今のようなグローバル化が進んだ生活の中にわざわざ飛び込んでいく、ということです。自分の思「閉じられた集団」の生活様式だけを得ようと思っても、それは難しいでしょう。どちらかを選ぶしかないと思います。老木のように、長年じっと動かず変化を小さくして生きるか、動物のように動き回り、エサを求めて歩いていくか、選択するしかないのです。エサが少ない場所では必然的に多くの人口を支えきれず、もしもある程度数がいるのであれば、平均的に見れば「腹ペコ」の人たちが増えるに決まっています。都会と同じような生活を維持することは難しく、エサ(=収入)の量や質に合わせて生活する以外にないのです。それか、エサの多い地域を求めて、「冒険の旅」に出るべきでしょう。過去の人類の祖先は、同じく移動していったのではないかと思います。
ヒマラヤ山脈のてっぺんの方にも、舗装道路を作って欲しい、便利な温泉付きのホテルを作ってくれ、鉄道も引いて毎日定時運行させて欲しい、とか、要望は色々出せるわけです。でも、あまり現実的ではありませんよね。そこには、採算を取れるだけの需要がないのですから。鉄道があれば、それは便利かもしれませんが、ごく僅かの利用者の為に大赤字を続けることは困難なのです。これは止むを得ないのです。少数者の利益の為に、多くの国民がそれを受け入れる、ということであるなら、それはそれでいいでしょう。けれども、大多数の国民がそれを許容できない、ということであるなら、止めるしかないのです。
「農業を守れ」というのは、気持ちは判ります。私も守れたらいいな、とは思いますよ。でも、誰がどうやって守るのか、考える必要があると思います。随分遠い未来なのかもしれませんが、いずれ世界人口を支えるのに食糧戦略というのは出てくる可能性があります。今の資源価格上昇に近いかもしれません。鉄鉱、石炭、原油、等々、いずれも付加価値の低いと思われていた一次産品なのであり、その供給を握っていることで産油国や資源大国は多額の外貨を獲得することができました。将来には途上国の発展に伴い、食糧供給は逼迫するかもしれず、そうなれば国外から大量に輸入できなくなってくる(海外産品が割高になる)可能性はあります。その時には国内生産の割合は自然と高くなり、国産品が十分競争力を持つかもしれません。それまで待てるかどうかは判りませんけれども。
用事で退席しますので、とりあえず。