前回の続きです。
現在と同じ指標を用いた考え方でいくと、人口増加のような「物理的な大きさ」というものにはどこかで限界が訪れる可能性があり、全世界の国々が格差なく今の先進国と同じような状態になれば、成長率はある範囲に収斂していってしまう、ということになるだろう。櫻井氏が日本の人口減少に没落モデルの危惧を抱く気持ちは判らないではない。だが、ここで疑問が湧いてくるのである。
お金の大きさというのはタダの数字でもあるので、この大きさには限りがない。どこまでも大きくなっていける。つまり、価値の表し方で言えば「凄く大きくできる」ということでもある。ひょっとしたら、100年後には日本の経済規模が5000兆円(!)とかになっているかもしれないのである(笑)。この数字そのものを、どこまでも大きくすることは不可能ではない、と考えることがあってもいいはずだ。そういう意味では、「経済成長には終点がないだろう」ということは、「ごもっとも」と思える面がある。
また変な例であるが、考えてみよう。
江戸時代に歌舞伎というのはあったのですが、当時の貨幣、社会制度、経済システム(運営・諸制度等)は今と異なっており、その評価は今と同じとも言えないだろう。町人たちが歌舞伎を見るのに払っていた木戸銭があっただろうが、当時の価値がどれくらいであったのか、現在価値に置き換えるとどの程度であったのか、そういうのは知らないが、何文(何銭なのかな?何両、とかではないと思いますが・・・)という具合に払っていたのと、今の何円と払っているのは評価が異なると言えなくもないだろう。当時の経済価値と、今の価値では「違っている」というのは、普通なのではなかろうか、と。仮に今は2万円、昔は今のお金に換算してみれば5千円としたら、現代の方が歌舞伎の価値が高いかもしれないが、受ける効用というか、得られるものは「歌舞伎を観る」ということに変わりはなく、時代も違えば出演者も違うが、要するに「歌舞伎を観ている」のは一緒なのである。
人間が生きていく時、得られるもの、欲するもの、というのは、時代が変わっても同じ部分は多々あり、その価値の表現方法が昔は何文で今が何円であっても、本質的な部分というのはさして違いがない、ということでもあるかもしれない。そう考えると、経済成長とか経済規模が「数字の上で」大きくなっていく、ということに評価の(正当な)意味が込められているわけでもない、と考えてもいいのではないか。ちょっとうまく言い表せないが、数字で見て捉えようとする今の自分達の「判り易さ」ということを重視すると、経済成長や規模を、例えばGDPで何兆円という具合に見てみるとか成長率で見てみるというだけであり、それは相対的な評価の一手法ではあるものの、本質的な評価とは違うと思う。このような価値の表現方法を採用したのは、(過去の時間経過に比して)まだ最近のことである、ということもある。これがいずれ別な表現方法に変わって行ったとしても、何ら不思議ではないだろう、というのが私の直感である(かなりいい加減なのですけれど)。
将来脳科学とか心理学の研究が進んでいって、効用の仕組みがもっと科学的に解明されたりするかもしれない。すると、表現方法が定量的に「ドーパミン換算値で100単位ですな、この商品の効用は」みたいになっているかもしれない。「このゲームのストレス軽減効果は、基準ストレスホルモン換算で1000Uです。買いませんか?」というような具合になるかもしれない。脳内物質の定量的表現に置き換えられていれば、今の「金額」表現よりも優先する指標となっているかもしれない。こんなことは近未来では起こらないだろうが、表現方法や指標などというものは、その時代によっていくらでも変わってくるだろう、ということだ。100万石みたいに表現していた時代はつい百数十年前に過ぎず、その時代には貨幣もあったし経済活動も行われていたが、今とは異なる体制・システムだった、というだけのことだ。
高さ30mの松の木は、高さ50mの松より必ずしも「劣っている」ということではないし、今後50mまで大きくなれるかもしれないけれど、そうなれるかどうかが最も重要なのではなく、もっと広い範囲で見れば雑木林か松林か判らんが、自分を含めた木が安定的な「繁栄環境」を保てるかどうか、という評価があってもいいのだろうと思う。
江戸時代に蕎麦を食べたり、歌舞伎を観たりするのと、今の時代に同じことを行うのでは、その本質的な部分に違いなどなく、経済システムや表現方法の違いが最も重要という訳でもないだろう。そう考えると、「100年後の日本のGDPが5千兆円」と表せると考えたっていいし(100年後にそう表すのが有意義なのかどうかはまた別かもしれない)、いやいや「エコ単位導入なので、100/eco/人/年だ」(勿論、こんな変な指標はないですから。架空ですから)、とか表現したとしても、あまり根本的な違いはなさそうである。それが数字的に大きくなった結果なのか、より周囲環境に適応した結果なのか、日本人の賢明な選択の結果なのか、よく判らないが、多分100年後でも、蕎麦を食って、歌舞伎を観ているのではないか。
前回書いたように、民主主義を支えたのが資本主義的な経済活動であり、誰かが言ってたが(どこで見たか忘れました)、イギリス、オランダやアメリカなどのような国での経済活動・繁栄が民主主義の誕生・発展と表裏をなしてきたと考えていいのだろう。これまでの歴史の中ではその方法が割りとうまくいったので残ってきたのだが、かつての帝国主義が消えていったのと同じように、今の資本主義的な体制が永続せずに消え去る可能性は否定できないだろう。
物質面での欲望が満たされるに従い、それ以外へに欲望が向けられるようになるのではないか、というのが私の勝手な推測である。かつては、いつでも腹ペコだったので何とか多くの食糧を得ようと努めてきたし、その工夫も労力も惜しまなかっただろう。だが、食べられるようになれば、今度は別な工業製品などを欲するようになり、資本主義社会の中では金を欲するようになった。金への欲望の制御は未だ困難であるが、未来になれば「金への欲望」ということの比重が今よりも低下していくのではないかと思っている。もっと違う欲望が増大してくるのではないのかな、と思える。例えば、時間とか、老化とか、死とか・・・・これらは大昔からの、永遠のテーマではある。ただ食べて生きていくことさえ困難な時代では、そんなことを求める余裕はなかっただろうが、物質的に満たされるようになってくると、次の段階ではもっと手に入り難い次元のものが欲求の対象になるのではないかと思う。
食糧などを獲得しようという欲望があったからこそ、人間は工夫したり努力したり、一生懸命考えたりしてきたのであると思う。それは確かにそうなのだろう。しかし、物質的欲望が割りと容易に満たされるようになっていれば、もっと別な欲望の対象が必要になってくるのではないか。この欲望とその対象というのが、人間の活動に大きく影響を与えてきたと思っている。
現在と同じ指標を用いた考え方でいくと、人口増加のような「物理的な大きさ」というものにはどこかで限界が訪れる可能性があり、全世界の国々が格差なく今の先進国と同じような状態になれば、成長率はある範囲に収斂していってしまう、ということになるだろう。櫻井氏が日本の人口減少に没落モデルの危惧を抱く気持ちは判らないではない。だが、ここで疑問が湧いてくるのである。
お金の大きさというのはタダの数字でもあるので、この大きさには限りがない。どこまでも大きくなっていける。つまり、価値の表し方で言えば「凄く大きくできる」ということでもある。ひょっとしたら、100年後には日本の経済規模が5000兆円(!)とかになっているかもしれないのである(笑)。この数字そのものを、どこまでも大きくすることは不可能ではない、と考えることがあってもいいはずだ。そういう意味では、「経済成長には終点がないだろう」ということは、「ごもっとも」と思える面がある。
また変な例であるが、考えてみよう。
江戸時代に歌舞伎というのはあったのですが、当時の貨幣、社会制度、経済システム(運営・諸制度等)は今と異なっており、その評価は今と同じとも言えないだろう。町人たちが歌舞伎を見るのに払っていた木戸銭があっただろうが、当時の価値がどれくらいであったのか、現在価値に置き換えるとどの程度であったのか、そういうのは知らないが、何文(何銭なのかな?何両、とかではないと思いますが・・・)という具合に払っていたのと、今の何円と払っているのは評価が異なると言えなくもないだろう。当時の経済価値と、今の価値では「違っている」というのは、普通なのではなかろうか、と。仮に今は2万円、昔は今のお金に換算してみれば5千円としたら、現代の方が歌舞伎の価値が高いかもしれないが、受ける効用というか、得られるものは「歌舞伎を観る」ということに変わりはなく、時代も違えば出演者も違うが、要するに「歌舞伎を観ている」のは一緒なのである。
人間が生きていく時、得られるもの、欲するもの、というのは、時代が変わっても同じ部分は多々あり、その価値の表現方法が昔は何文で今が何円であっても、本質的な部分というのはさして違いがない、ということでもあるかもしれない。そう考えると、経済成長とか経済規模が「数字の上で」大きくなっていく、ということに評価の(正当な)意味が込められているわけでもない、と考えてもいいのではないか。ちょっとうまく言い表せないが、数字で見て捉えようとする今の自分達の「判り易さ」ということを重視すると、経済成長や規模を、例えばGDPで何兆円という具合に見てみるとか成長率で見てみるというだけであり、それは相対的な評価の一手法ではあるものの、本質的な評価とは違うと思う。このような価値の表現方法を採用したのは、(過去の時間経過に比して)まだ最近のことである、ということもある。これがいずれ別な表現方法に変わって行ったとしても、何ら不思議ではないだろう、というのが私の直感である(かなりいい加減なのですけれど)。
将来脳科学とか心理学の研究が進んでいって、効用の仕組みがもっと科学的に解明されたりするかもしれない。すると、表現方法が定量的に「ドーパミン換算値で100単位ですな、この商品の効用は」みたいになっているかもしれない。「このゲームのストレス軽減効果は、基準ストレスホルモン換算で1000Uです。買いませんか?」というような具合になるかもしれない。脳内物質の定量的表現に置き換えられていれば、今の「金額」表現よりも優先する指標となっているかもしれない。こんなことは近未来では起こらないだろうが、表現方法や指標などというものは、その時代によっていくらでも変わってくるだろう、ということだ。100万石みたいに表現していた時代はつい百数十年前に過ぎず、その時代には貨幣もあったし経済活動も行われていたが、今とは異なる体制・システムだった、というだけのことだ。
高さ30mの松の木は、高さ50mの松より必ずしも「劣っている」ということではないし、今後50mまで大きくなれるかもしれないけれど、そうなれるかどうかが最も重要なのではなく、もっと広い範囲で見れば雑木林か松林か判らんが、自分を含めた木が安定的な「繁栄環境」を保てるかどうか、という評価があってもいいのだろうと思う。
江戸時代に蕎麦を食べたり、歌舞伎を観たりするのと、今の時代に同じことを行うのでは、その本質的な部分に違いなどなく、経済システムや表現方法の違いが最も重要という訳でもないだろう。そう考えると、「100年後の日本のGDPが5千兆円」と表せると考えたっていいし(100年後にそう表すのが有意義なのかどうかはまた別かもしれない)、いやいや「エコ単位導入なので、100/eco/人/年だ」(勿論、こんな変な指標はないですから。架空ですから)、とか表現したとしても、あまり根本的な違いはなさそうである。それが数字的に大きくなった結果なのか、より周囲環境に適応した結果なのか、日本人の賢明な選択の結果なのか、よく判らないが、多分100年後でも、蕎麦を食って、歌舞伎を観ているのではないか。
前回書いたように、民主主義を支えたのが資本主義的な経済活動であり、誰かが言ってたが(どこで見たか忘れました)、イギリス、オランダやアメリカなどのような国での経済活動・繁栄が民主主義の誕生・発展と表裏をなしてきたと考えていいのだろう。これまでの歴史の中ではその方法が割りとうまくいったので残ってきたのだが、かつての帝国主義が消えていったのと同じように、今の資本主義的な体制が永続せずに消え去る可能性は否定できないだろう。
物質面での欲望が満たされるに従い、それ以外へに欲望が向けられるようになるのではないか、というのが私の勝手な推測である。かつては、いつでも腹ペコだったので何とか多くの食糧を得ようと努めてきたし、その工夫も労力も惜しまなかっただろう。だが、食べられるようになれば、今度は別な工業製品などを欲するようになり、資本主義社会の中では金を欲するようになった。金への欲望の制御は未だ困難であるが、未来になれば「金への欲望」ということの比重が今よりも低下していくのではないかと思っている。もっと違う欲望が増大してくるのではないのかな、と思える。例えば、時間とか、老化とか、死とか・・・・これらは大昔からの、永遠のテーマではある。ただ食べて生きていくことさえ困難な時代では、そんなことを求める余裕はなかっただろうが、物質的に満たされるようになってくると、次の段階ではもっと手に入り難い次元のものが欲求の対象になるのではないかと思う。
食糧などを獲得しようという欲望があったからこそ、人間は工夫したり努力したり、一生懸命考えたりしてきたのであると思う。それは確かにそうなのだろう。しかし、物質的欲望が割りと容易に満たされるようになっていれば、もっと別な欲望の対象が必要になってくるのではないか。この欲望とその対象というのが、人間の活動に大きく影響を与えてきたと思っている。